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【5話】黒煤の風

——25年前。


西の森には1人のエルフが住んでいた。


名前はサヴァン。


遠い昔、彼にはエルフとしての名があった。


だが王都を追われ、森の奥に木々に囲まれた集落を築いた魔法使いたちが、彼をそう呼びはじめた日から、彼の名はサヴァン――賢者となった。


西の森は人間に近い。


その気を嫌ったエルフたちは1人また1人と他所へ移り、気づけば残ったのはサヴァンだけだった。


だがその身も、間もなく砂となり森へ還ろうとしている。


かつては森の果てまで見通した目も、

梢の囁きを拾った耳も、

いまは春の月夜のように霞む。


だから——その風の匂いがサヴァンの元に届いたのも、随分遅れてからだった。


西の森を……魔法使いたちの集落を襲った、肺に煤を落とす黒い病の疫風だ。



サヴァンがその集落に足を踏み入れた時、かつては魔道具の明かりと魔法使い達の笑い声とで賑わっていた集落は、ひっそりと静まり返っていた。


戸は半開きのまま。

干された布は色を失い、重い腐臭と共に風に乗る。


西の森に、ぽっかりと空いたその空間からは命の気配が抜け落ちていた。


「………」

サヴァンの深い緑色の瞳がわずかに揺れた。


“守れなかった“


静かな後悔が、老いた美貌に影を落とした。


サヴァンは一人一人の生前の顔を思い出しながら、温もりを失った弱く儚い体にそっと布をかけて巡った。


最後の一軒の戸の横にはドアベルの代わりに赤い鈴の実が下げられていた。

サヴァンはその実を揺らすこともなく、曲がった枝を取っ手代わりにした扉を引く。


そしてサヴァンは、そこに唯一残された光を見つけた。


窓から差し込む陽だまりの下で、赤子が泣いていたのだ。

傍には両親らしき2人の体が、寄り添うように朽ちている。


サヴァンの震える指先が、死の静寂の中、全身で生を叫ぶ小さな体に触れた。


赤子は泣き止み、うっすらと瞳を開いた。


それはどこまでも透き通るような、紫色の瞳だった。


***


——現在。


午後の暖かな光が、森の中にぽっかりと開けた明るい大地を温める。


まるで守られるように木々に丸く囲まれたその空地には、魔法使いの小屋が一軒。


その前で、シャルドルートは、宝石のように透けた紫色の瞳を珍しく自信なさげに伏せ、小さくしゃがみ込んでいた。


シャルドルートの前には素焼きの植木鉢が一つ。


植木鉢には、やけに瑞々しく育った緑の葉を広げ、土から白い顔を半分だけのぞかせたマンドラゴラが植わっている。


マンドラゴラとは、人に似た顔を持つナス科の多年草だ。

その根は煮るとほくほくと甘く、エルフの食卓の定番野菜だが、シャルドルートは昔からこれがあまり好きではなかった。


マンドラゴラ特有の、あの視線が気になるのだ。


シャルドルートの前の植木鉢に植わったマンドラゴラも、若く涼しげな顔立ちのくせに、その表情はどこか不満げにシャルドルートを冷たく睨みつけていた。


「だめだ、あいつ全然やる気ないわ」


さっきまでフィオは、シャルドルートの背後でニャルを何度も天高く放り上げ、翼の使い方を教えていた。


だがニャルは、自由に空を飛ぶことよりも、いまは放り投げられるその瞬間そのものが楽しいらしく、うにゃうにゃと笑いながら、どさりとフィオの腕の中へ落ちてくるばかりで、一向に羽ばたこうとしなかった。


とうとう今日のドラゴントレーニング〜天空へ〜は諦めたフィオが、軽く口先を尖らせながらシャルドルートの元へとやって来た。


ニャルは後ろで蝶々を追いかけている。


「お?マンドラゴラじゃん。久しぶりに見たな。

これも、タマゴウメールの材料に使うのか?」

しゃがんだシャルドルートの前の鉢を、少し上体を前に倒して覗き込み、フィオが言う。


「いやこれは……」

背後に立つフィオの顔を見上げ、説明しかけてすぐ、言葉に詰まるシャルドルート。


「品評会に……出さなくちゃいけなくて……」

そう答えるシャルドルートの表情は暗かった。


「品評会?コンテストみてぇなやつ?」

「…そう」

「ふーん…。

言われてみりゃやけに美形で立派なマンドラゴラだもんな。

森でたまに見かけるやつはもっと葉っぱもヒョロヒョロだし、顔もジジイで貧相だわ。

その、品評会とかいうやつも、こいつだったらけっこういい線いくんじゃねぇの?」


フィオの言う通り、もうずいぶん数が少なくなったとはいえ、いまだに森で自生している野生のマンドラゴラはたいていヒョロリと痩せていて、せいぜい萎びたニンジンほどの大きさしかない。


今、シャルドルートの目の前には大根ほどに大きく育ったマンドラゴラがある。


立派なマンドラゴラだと素直に感心するフィオを、シャルドルートはその宝石のように澄んだ紫色の瞳でキッと睨みつけた。


「去年の最優秀作品は、全長2.5レートル」

「にっ…2.5レートル?!」


それは、大人の男の身長をゆうに超える大きさである。

そんなオバケマンドラゴラなど、この森を3年間飛び回っていたフィオですら見たことがない。


「言っとくけど、品評会っていっても、ただの品評会じゃないからね??

北と南と東のエルフ達が毎年やってる

『みんな集まれ!超デリシャスマンドラゴラまつり』の目玉企画の品評会だよ?!」


「み…『みんな集まれ!超デリシャスマンドラゴラまつり』……」


勿論、聞いたことなどない。


だが、その名を耳にしただけで、その祭りが決して一筋縄ではいかないものであることを、フィオは直感していた。


「そこに西の森代表で毎年呼ばれて俺も出品しなきゃいけないんだよ……

無理だよ俺エルフじゃないんだってば……」


そんな泣き言を言うシャルドルートの声は、文字通り今にも泣き出しそうなものだった。


エルフの祭りということは、勿論その品評会の競合相手もエルフ達なのであろう。


エルフは、植物を“育てる”のではない。

植物の声に耳を傾け、共に生きる。


それはもはや技術というより、

森と同じ鼓動を持つ者だけに許された才能だった。


生まれつき桁違いの才能を持つもの達に、凡人がどんなに足掻いたところで勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだ。


「毎年毎年、プロ中のプロの作品が並ぶ中に、まるで子どもの作品みたいなクズマンドラゴラを出さなくちゃいけない惨めな俺の気持ちを想像してみて………っ」


そういって、シャルドルートはとうとう自分の折りたたんだ膝に顔を伏せた。


いつだって、何があっても飄々として動じないシャルドルートが今回ばかりは焦っているのがその口調と動作からわかる。


「そりゃ……大変そうだけどよ……」

この場面においてはどうすることもしてやれない歯痒さを感じながら、フィオはチラリとうずくまったシャルドルートの背中を見た。


くっきりと飛び出た肩甲骨と、その下に伸びる背骨がうっすらと浮いた、小さな背中。


その背中を覆う、風をはらむような生成りのローブも、葡萄の蔓で編んだ腰の細帯も、相変わらずエルフ特有のものだ。


初めてシャルドルートと会ったあの夜から、それがフィオにはずっと気になっていた。


「……なあ、前から思ってたんだけどさ、なんでお前、魔法使いのくせにそこまでエルフの生活に入れ込んでんだ?

それ、今日着てるのも、エルフの服だよな?」


「え……?……ああ…」


フィオの質問に、シャルドルートはめんどくさそうに膝から顔を上げる。

今更何を、と、言いたげな表情だ。


「入れ込んでるっていうか……

むしろここしか居場所がないって言うか……」

シャルドルートの手が、俯いていたせいで頬に落ちていた黒い前髪を無意識にすくって耳にかけた。


その途中で、指先が丸い耳に触れる。


わざと触れたのか、これもまた無意識なのかは、フィオにはわからない。


「俺さ、育ての親が、エルフなんだよ」


耳に触れていた指先は何事もなかったように膝へ戻り、次にシャルドルートの視線はマンドラゴラの鉢を越えて、苔と草に覆われた小屋へと向けられた。


その先には、曲がった木の枝を取っ手代わりに取り付けた正面扉がある。


扉の横には小さな風鈴のように乾き果てた赤い実が吊るされていた。


シャルドルートは、それを見つめている。


それはまるで、赤い実ではなく、扉の前にいる“誰か“を見上げているかのような瞳だった。


フィオも、同じ方向に目を向ける。

しばらくシャルドルートと一緒にカラカラと風に揺れる実を見つめていたフィオだったが、ふと、あることに気がついた。


「あ……?エルフ?……この森でエルフって言ったら——」

フィオの脳裏に、1人の男の姿が浮かぶ。


腰まで流れるはちみつ色の長髪に、老いの中に深い慈しみを宿した緑の瞳。

森色の長衣に杖をついたその姿は、静かで優しい“森の父親“だった。


5年前に砂になり、とうとう彼も森に還ったと風の噂で聞いてから、その名前を森で口にするものはいなくなった。


名前は確か——


サヴァン


「ニャウニャっ」

フィオがその名を口にしようとした瞬間、ニャルが2人の元にポテポテと走って戻って来た。


白い頬の内側は興奮で赤く染め上がり、まだ牙が生え揃わず、柔らかな歯茎が見える口元はハァハァと湿っぽい呼吸を繰り返している。


前足には、さっきまで追いかけていた蝶々をしっかりと掴んでいた。


「な……っ」

フィオは、息を呑む。

ニャルは瞳を輝かせ、大きく頷く。


「………お前……!!


やったじゃねぇか!!」


フィオは叫んだ。


それはあまりの大声で、ニャルの手元の蝶をぼんやり見ていたシャルドルートの肩がびくりと跳ねた。


「にゃ!にゃ!にゃ!」

「そうだよ!ドラゴントレーニング〜狩猟の道〜レベル2クリアだよ!!」

「うニャアっ」

「…………」

「よしじゃあこの勢いでドラゴントレーニング〜狩猟の道・渓谷にて〜やろうぜ!!修行だ!ついてこいよ!」

「ニャイっ!」

トレーニングだの修行だの、いちいちドラゴン心を刺激するのだろう単語にテンションを上げた龍たちが、裏の渓谷へと駆けていく。


シャルドルートは、短い足でフィオの背中を必死に追いかけていくニャルの姿をしばらく見つめた後、再びその目をマンドラゴラの鉢に戻した。



『立派に育ったじゃないですか』


シャルドルートの記憶に残るサヴァンが、森色の長衣を風に揺らし、杖に体を預け、玄関扉の前でゆるやかに口元をほころばせた。


その微笑みは、老いの皺を深く刻みながらも、ただひたすらに優しく、森そのもののように穏やかだった。


そんな思い出のサヴァンの隣には、毎年彼が育て上げていた3レートルのマンドラゴラも見える。


彫りが深く、目も鼻も強く主張する顔立ちに、植物のくせにくっきりと割れた顎。

どのパーツも濃く、ひと目で記憶に残る、押しの強い表情に深い陰影を落とし、シャルドルートをじっと見つめている。


「あれ、怖かったなぁ……」


そう呟くシャルドルートの声は、笑っていた。

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