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【3話】フィオ

赤龍は自らを『フィオ』と名乗った。


ドラゴン族の古い言葉で『熱』を意味する言葉なのだと、鼻先を天に向けて誇らしげに語っていたその赤龍は、次の夜も大蛇を咥えてやって来た。


『道中で捕った』と、なぜか言い訳めいて付け足しながら。



——今夜は月が大きい。


赤く裂けたような口から緑色の大蛇を垂らした赤龍の輪郭を、月光が照らしている。


「それ…メロンの匂いがして美味いから」


手土産のメロンスネークを、玄関の前にどさりと落とすと、赤龍はさっそく人型に変化して、照れ隠しのように鼻の下を指でこすりながらそう言った。


そんなフィオの後ろには、まるで『褒めて』と書かれた旗が大きくはためいているかのようだった。


「メロンの方がよかったな」

シャルドルートは華麗にスルーする。

「んだとこら」


とはいえ、大蛇は森では貴重なタンパク源だ。

特にドラゴン族のニャルにはご馳走である。


シャルドルートはフィオから受け取った時点ではまだ尾先を動かしていた、自分の足ほどもある大きさの蛇の首を手慣れた仕草できゅっと絞めると、それを家の裏の軒先に吊るした。


「ニャル……だっけ。…あの白龍は?」


シャルドルートの後ろをまるでひな鳥のようについて来て、食料を保管するという、ドラゴン族にはない習慣をしばらく珍しそうにじっとみていたフィオだったが、急にソワソワした様子でそう聞いて来た。


窓から漏れる家の明かりが、そんなフィオの横顔と赤い髪をオレンジ色に染めている。


昨日は周りが暗くてよくわからなかったけれど、あらためて見るとずいぶん若いんだな、とシャルドルートは思った。


頬には微かに乾いた皮膚の荒れがあり、口元の皮も少しだけ剥けている。

手入れを怠ったというより、そうする余裕のない生活が透けて見える。


ただ、無造作な擦り傷も、荒れた頬も、この青年には妙に似合っていて、シャルドルートはしばらくフィオの横顔を見つめてしまっていた。


「……中にいるけど」

「……そっか……」


フィオの目線が、チラチラと窓を見る。

窓の、向こう側を見ている。


「……ニャルに、会ってく…??」

「いいのか?!」

そう聞き返すフィオの声は食い気味だった。


「いいも何も、ニャルに会いたくて、わざわざ土産まで持って来たんだろ」


なにせこの男、3年間も諦めずに白龍を探し続けていたのだという。


ドラゴンにとっての3年間がどのくらいの年月なのかはピンとこないけれど、自分のように短命な魔法使い族にとってそれは、とても長い年月だ。


フィオの若く貴重な時間を、自分のせいで棒に振らせていたのかと思うと、流石のシャルドルートも良心に苛まれる。


とはいえニャルをフィオに渡すことはできない。

したくない。

ならせめて、顔を見せるくらい……


そう思ったシャルドルートは、すぐ近くにあった台所へと繋がる勝手口のノブに手をかけて振り向き、フィオに言った。


「掃除、半年以上してないんだけどさ……」


シャルドルートが、ドアを開く。

室内灯の灯りがフィオの全身を包んだ。

不慣れな人工の光に、フィオは思わずその赤くどこか頼りなげな眉を顰める。

夜目に慣れたフィオには、人の家の灯りは眩しすぎた。


「どうぞ」


「え…あ……」

土に汚れ、擦り切れた皮のブーツを履いたその爪先は、前に進まない。


「………?なに?入りなよ」

シャルドルートはそんなフィオの様子に軽く首を傾げた。


フィオは2、3度瞬きをしてから、どこか覚悟を決めたように言う。


「…お……お邪魔……します……???」



赤龍フィオ。

人間の住処に入るのは、これが初めてだった。


***


台所ではニャルが夕食を食べていた。


深い木皿に、香草の浮かぶ乳白色のシチューがまだ半分ほど残っている。


座っているのは座面に3つのクッションを重ねてテーブルの高さに合わせた木の椅子。

前足でスプーンを器用に包むようにして握り、スプーンを木皿の底にカツカツと叩きつけながら夢中でシチューを食べている。


「よ、よう」


フィオは全身を包む知らない生活の匂いに緊張しながらも軽く片手を上げ、今の心情をできるだけ気取られないように意識して、ニャルに声をかけた。


ニャルはスプーンを口に差し込んだまま数秒固まり、


「ニャ………ニャーン……」


と、まるで猫のような声で返事をした。

夕べシャルドルートから、白龍の存在を隠すため、「お前は猫だ」と強要された事をこの幼龍は覚えている。


ニャルまで巻き込んでついた自分の無茶な嘘を思い出し、シャルドルートは今更少し恥ずかしくなった。


「ニャル…、ごめん。猫はもういいんだよ……」


ニャルの、シチューでベチャベチャに汚れていた口周りを乾いた綿の布で拭ってやりながら、シャルドルートが言う。


フィオはそんな様子をじっと見ていた。


光に満ちた室内も、テーブルに乗った暖かな食事も、壁一面の薬草も、誰かに世話を焼かれる風景も、何もかもが、彼にとっては珍しいのである。


「……何?フィオも食べる?シチュー。芋しか入ってないけど」

フィオがニャルのシチューをじっと見ていることに気づいたシャルドルートが、かまどにかけられた黒い鋳鉄の鍋を覗き込みながら言う。

中にはまだほんの少し、煮詰まってどろりと重たくなったシチューが残っていた。


「え?!……あ、や……大丈夫。…食って来たから……」

「…?ああそう」


フィオは、“シチュー“が何かもよくわからない。


おそらく今ニャルがとうとうスプーンを放棄し、木皿ごと抱えてガブガブ飲み始めたあれが“シチュー“なのだろうけど、守護龍は森の命を食べ、森に還しながら生きるのだ。


あんなものは食べない。


…食べたこともない。


「ンニャッ!」

スープを飲み干したニャルは、空になった木皿をテーブルに置いたあと、満足げに両方の前足をパチンと合わせる。


“ご馳走様“の合図である。


「ニャル、食べ終わったらお皿こっちにちょうだい」

流し台で、テーブルに背中を向けて後片付けをしていたシャルドルートは、その音を聞いて手だけを後ろに伸ばす。


ニャルは前足と太い尻尾を使って器用に席から降りた後、シチューでドロドロになった木皿をシャルドルートに手渡し、未だに勝手口の前にぼんやりと立っていたフィオの姿を見上げた。


その視線に気づいたフィオは、ニャルと目線を合わせるようにその場にしゃがみ込み、シャルドルートがこちらに背中を向けていることをさりげなく確認してから、ニャルに向かって優しく微笑む。


——今、目の前にいるこの白龍は、自分が探し続けていた王ではなく、あの妙な魔法使いが産んだ龍だ。


頭ではそうわかっていても、その白く神々しい翼や鱗を見ていると思わずかしずきたくなる気持ちを抑えるのが、今のフィオにはやっとだった。


「ニャーゥ」

フィオの笑顔を見て安心したニャルも、その金色の瞳を三日月型に細める。


そうしてニャルは勝手口の前にしゃがみ込んだフィオのそばまで、ポテポテと歩み寄ってきた。


見た目は、少し幼いとはいえ想像していた王そのものである。


さらに、同族の、幼児だ。


フィオの全身は、あまりの愛おしさと、まだ見ぬ王への思いを重ねて打ち震えている。


「だ……抱っこしていい……??!」


フィオは蕩けそうなほど目尻を下げ、もう我慢できないと言わんばかりの声で、夕食の後片付けを進めるシャルドルートの背中に向かって聞いた。


皿同士がぶつかる音と、それを洗う水音が聞こえる。


「ご自由に」


そんなあっさりとした返事を受け、一度ニャルの全身をじっと見つめてから、震える両手をニャルの小さな前足の脇にゆっくりと差し入れるフィオ。


幼龍の鱗はまだ柔らかく、しっとりとしていた。


その下の皮膚は暖かくてもちもちだ。


まだ飛べない薄い翼、


邪魔なばかりの大きな尻尾、


ピンク色の血管が浮いた白く柔らかな皮膚を、何一つ守ってくれなさそうな透けた鱗……


小さくて頼りないその生き物の熱と質感を両掌に感じながら、フィオはそっとその重みを優しく胸に抱き上げる。


べちゃり。


暖かいぬめりが、2人の間で音を立てた。


「?」

「にゃ……」

「ああっ!!お前の腹!!さっきの白いドロドロまみれじゃねぇか!!!」

いや、腹どころか、ニャルは全身が食べこぼしたシチューでベチャベチャだった。


ニャルは身体中どこもかしこも白いので、白いシチューの汚れが見た目だけではわかりにくい。


一方で、フィオの着古してくすんだ赤い服の上ではシチューの汚れはよく見えた。


「ああああもう……どうすんだよこれ、俺までドロドロだぞ!?」

「ンニャ」

「あ、こら舐めんな!!」

「ニャウ、ニャウ…」

「やめてくすぐったいごめん舐めないで!!」

そんな様子を、皿を洗う手をふと止めてシャルドルートが見つめる。


……ドラゴン同士、楽しそうだな、と思うと、また少し胸が痛んだ。


もしかしたらニャルだって自分といるよりフィオと森で育つ方がいいのかもしれない…


昨夜フィオと会ってからずっと頭の中をぐるぐると渦巻いていた思いが再び思考を支配しかけるが、流し台の淵に添えた手にぎゅっと力を込め、そんな思考に蓋をする。


「ニャル、汚いから舐めちゃだめ」

流し台の水を止め、先ほどニャルの口周りを拭いた布を手に2人のそばまでやって来たシャルドルートが言った。


「拭くから、じっとして」

ニャルを止めた後、その布でフィオの胸についたシチューの汚れを拭き取る手は、水仕事で濡れて赤くなっていた。


洗い物くらい、魔法使いなのだから魔法で手早く済ませることはできないのだろうか、と思いながら、フィオは自分の胸元を擦るシャルドルートの手を見つめていた。


袖口から覗いた手首は細く、骨の稜線が影となって浮いている。

シャルドルートが拭う手を動かすとその影も動く。


今触れられているのは、ただの体に纏った布なのに、他人から体に触れられること自体が不慣れなフィオは、体のもっと深いところを直接撫でられているような気になってひどく緊張した。


どうしてだか、閉じた手のひらに汗をかく。


「あ…や……も、大丈夫……」

目線を下に向ける。

シャルドルートの伏せた目元が見える。

まつ毛の影が、白い頬に落ちていた。


その柔らかそうな肉に触れてみたい、と思ったけれど、勝手に触れてはいけない気がして、せめて直前に聞いたシャルドルートの声を思い出す。


——汚いから 舐めちゃだめ


「…??…おい待て、汚いから?!?!馬鹿にすんなよ、ちゃんと毎晩水浴びしてるからな?!」

「え、なに、急に?」

突然スイッチが入ったかのように声を上げたフィオに、いつも特になにも考えず発言しているシャルドルートは目を丸くする。


「いや……まぁ、毎晩ではないかもしれないけど……まぁでも割と頻繁に……まぁ確かに昨日は興奮しちまったからそのまま寝たんだけど……」

勢いよく反論し始めたものの、後半は現状を思い出し尻窄まりになってしまい、1人でぶつぶつ言っているフィオを無視して、シャルドルートは続いてニャルの体の汚れを拭っている。


「聞けよお前は!」

「なんで突然龍の風呂事情についてなんか聞かなきゃならないんだよ」


ニャルは、シャルドルートが拭きやすいように、ぽっこりとしたお腹を突き出し、短い前足でバンザイをしている。


シャルドルートは慣れた手つきでそんなニャルの鱗の隙間や、腿の付け根あたりについたシチューの汚れを布で拭う。


その間、白い尻尾はずっとパタ、パタ、と板張りの床を叩いていた。


安心し、身を委ねているのがわかる。


滅多な事では他人に懐くことなどない、ドラゴン族の子供が、だ。


「……」

ああ、親子だからか、と、フィオはまた一つ腑に落ちた。


「………まだお前がどうやって龍の卵を産むのか、理屈はよくわかってねぇんだけどさ……本当にお前の子なんだな……」

シャルドルートとニャルの生活の様子を見つめながら、フィオが呟く。


シャルドルートの胸は、どきりと跳ねる。


「う、うん……」

出来るだけ、フィオと目が合わないようにして頷いた。

自分でも、目が泳いでいることはよくわかる。


「お前、そんな細くて小さい魔法使いのくせに……。ドラゴンの卵産むのなんか辛かっただろ……」


「え?!あ、ああ……そうね……。うん、もう、あの時は想像を絶する激痛で……」

あの時拾った卵はたしか大人の頭くらいの大きさはあった。


あんなものを一体自分のどこから、どうやって産むことを想定して言っているのやら、自分の言葉のイメージすら湧かないが、シャルドルートは産卵のイマジネーションを限界まで膨らませ、語る。


——ニャルは俺が産んだ


今更この嘘に関してだけは引き下がれない。


ニャルは、すごい目でシャルドルートを見ている。


「マジか………」

激痛と聞いて、フィオは頭を抱えてため息をついた。


「ごめんな……俺は雄だから、そればっかりはどうしようもなくて……

でも、お前だけに辛い思いはさせないから……!

お前が卵を産む時は…俺…絶対そばでいるから……

手を、握るから!」


次にフィオが顔を上げた時、その深い真紅の瞳は、確かな覚悟を固めていた。


シャルドルートは喉を鳴らす。


さて、困ったことになってきた。


「2人で、立派な森の王を作ろうな……!」

「こっ…子供だけ目当てみたいなのは俺あんまりよくないと思うんだけど?!?!」


ニャルのいつもこぼれ落ちそうなほど大きな金色の瞳は、いつのまにかチベットスナギツネのように、細く、乾いて、ただ虚空を見つめるだけのものへと変化していた。


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