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【29話】帰ろっか。


月のない夜だった。


赤龍フィオは、背中に魔法使いを乗せ、どこまでも続く深緑の絨毯の上を飛ぶ。


やがて闇の中に神木が見え、その傍らの遺跡の前に降り立つと、フィオは翼をひと振りした。


巻き上がった穏やかな熱風の中で赤い巨体が揺らぎ、次の瞬間に赤龍は若い青年の姿へと変わる。


今にして思えば、フィオが起こす風は、いつも春風のように暖かかった。


服の裾や袖の中にはらんだ空気の温もりを感じていると、フィオは暗闇の中でも赤く光る目で、シャルドルートを見つめた。


月光花の蔦が覆う遺跡の壁に、フィオの手が静かに触れる。


その腕と石壁の間に、シャルドルートは閉じ込められた。


……視線が合う。


言葉はない。


ただ、確かめるように、フィオはゆっくりと顔を寄せた。


草の匂いを運んだ風が吹き、シャルドルートの頬を、濡れたフィオの赤い髪が撫でた。


「……鬣が湿ってると、人になった時の髪も濡れてるんだね」


唇に熱と柔らかな感触を残してフィオの顔が離れた後、シャルドルートはそう言って少しだけ笑った。

ここまでの道中、空の上でずっと掴んでいた赤龍フィオの鬣は、地底湖の湯でじっとりと湿っていたからだ。


「龍のままでも良かったのに」


もう一度、フィオの荒れた頬に手を添え、唇を寄せながらシャルドルートが言う。


「それだと俺がいまいち感覚わかんねぇんだよ……」

「鈍感ドラゴン」

「変な二つ名ばっかつけんな」


フィオはシャルドルートを軽く睨みながら、腰に腕を回し、強く抱き寄せる。


シャルドルートがフィオを見上げ、少し唇を開いた時……


遺跡の石壁に何度も反響した静かな声が、2人の耳に届いた。


「ンニャーーー………」


「…………」

「…………」



2人は再び言葉もなく、視線を合わせた。


***


「ンニャーーーーッ!!!」

2人が遺跡の奥に足を踏み入れた瞬間、張り裂けるような声が、空間いっぱいに轟いた。


中央で、小さな白い龍が大きな口を開けて全力で泣いている。


壁際では2人の老婆が、心底うんざりとした様子でそんなニャルを眺めていた。


崩れた壁のそばに立つシャルドルートの姿を見つけ、

「ほら、お待ちかねが来たわよ」

と、疲れの滲んだ声で言ったのは、長いウェーブの髪の女だ。

老いた見た目に似合わず艶のある髪はあちこちに跳ねている。


女が指差す方向を見て、シャルドルートの姿を確認したニャルは、

「あーっ……」と力なく叫び、石畳に尻尾を引きずりながら、転びそうな足取りでシャルドルートのもとへよたよたとやってきた。


涙と、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で必死にシャルドルートにしがみつくニャルを見て


「……どこが、『ニャルは1人でもう平気』だよ」

と隣のフィオが言った。


その赤い目は、ニヤニヤと笑っているようだった。

シャルドルートはそんなフィオを軽く睨み返した。


「ああもう、そこの魔法使い、早くそいつを連れて帰っておくれ。

そいつの鳴き声は腰に響くんだよ」

パサついた短い銀色の髪を乱した小太りの老婆が言う。

琥珀色の眼球は深い皺の奥で落ち窪みながらも、なお強い。


コカトリスの婆さんだった。


婆さんの周りには、赤や、黄色や、オレンジの鈴の実が幾つも転がっていた。


シャルドルートが子供の頃も、サヴァンが、色や大きさで違う音の鳴るその実を鳴らし、遊んでくれていたのを思い出す。


よく見ると、ニャルの手にも赤い鈴の実が一つ、大切そうに腕の内側の肉で挟み込むようにして握られていた。


「ご飯食べてお昼寝するまでは、ずっとそれで遊んでいい子にしてたんだけど、起きてもなかなか迎えに来ないから、心配になっちゃったのよね」

「ンニャッ!ンニャッ!」


女の言葉に、ニャルは泣いているのか、鳴き声なのかもわからないような声で答え、何度も頷く。


足によじ登ろうとしたり、シャルドルートの服の裾から中に入ろうとしたり、軽いパニックだ。


シャルドルートは少しだけため息をつき、以前と違い、持ち上げようとすると軽くよろつくほど重くなってしまった幼龍を足元から抱き上げた。


柔らかで、ずっしりとした重さが、肩と胸に乗り掛かる。


慣れた重さだ。


ニャルは、シャルドルートに持ち上げられると、ようやく安心した顔で肩に顎を乗せ、そこに体をぴったりとくっつけて抱かれた。


「……帰ろっか」


シャルドルートのその一言にニャルは濡れた瞳を細め、首筋にぐりぐりと白い頬鰭を擦り付ける。


「ニャル、おうち、すき」

「俺も好きだよ」

「シャルも、いるし、ごはんも、べっども、あるもんね」


腕の中で、白く太い尻尾を振り子のように揺らすニャル。

ニャルはそのリズムに乗せて突然幾つも言葉を続けて喋りはじめた。


シャルドルートは思わずニャルを見て、その後、2人の老婆に目を向ける。


コカトリスの婆さんはニヤリと笑い

「年寄りのスパルタ教育は、凄いだろ」

と、得意げにあたりに転がっていた石ころを口に放り込み、噛み潰した。


「ニャル、俺は?!俺も好きか?!」

突然ベラベラと喋り出したニャルを見て、フィオは目を輝かせ、シャルドルートの肩に向かって聞いた。


「フィオも、すき」

ニャルは答える。

今のフィオに尻尾はないが、見えないそれが背中でバタバタと揺れているのが目に浮かぶ。


シャルドルートは、そんな2人を見て、穏やかにため息をついた。


そのため息で、ずっと心の中に張り付いていた重たいものが全部流れ出た気がした。


「ニャルちゃん、バイバーイ。

またきてね♡」

女が艶めかしく、細い指先を振って言った。

婆さんは、シッシっと、皺だらけの手を翼のようにして、追い払うように振っている。


ニャルは鈴の実を持ったままの手でそれに小さく振り返した。


シャルドルートは、手を振るために動いたせいで腕の中で収まりの悪くなったニャルを重たそうに抱き直してから、チラリとフィオを見る。


「……?何だよ?」


フィオは、シャルドルートの視線に少しだけ首を傾げた。


「今日は『送っていく』って言ってくれないのかと思って」



それを聞き、シャルドルートの腕の中でまったりと幸せそうにしていたニャルの顔が固まり、くしゃりと歪む。


またあれに乗るのか、と思うと気が重かった。

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