【28話】俺がお前を食べるから
丸く世界を切り抜かれた洞窟の中に、水音が響く。
ときどき、結露になった湯気が天井から水面に落ちて、あちこちで静かな波紋を広げている。
天窓のように開いた穴から差し込む光芒は、もう日暮れなのか角度を変え、淡いオレンジ色に色付いてきていた。
「贅沢だね。……入ってもいい?」
しばらく、そんな洞窟の様子を眺めていたシャルドルートが、サンダルの蔓紐に手を伸ばし、言った。
「お……おお、入れよ。
時々深いとこもあって危ねえから気をつけて……」
自宅の風呂の使い方を説明するように、視線を地底湖の奥の方へと向けて言うフィオの前で、シャルドルートは服を脱ぐ。
人前で肌を見せることに抵抗の強い魔法使いたちとは違い、エルフに育てられ、森で生きてきた彼には、服を脱ぐことへのためらいはほとんどない。
細い指が留め具を解くと、麻のローブはするりと肌の上を滑り落ちて、冷えた岩盤の上に広がった。
あっさりとフィオの目の前に華奢な背が現れる。
骨の線が、日暮れの光の中でやけにくっきりと影を落としていた。
そういえば、初めて出会ったあの夜も、シャルドルートは風呂上がりで、こんなふうに白い肌をあらわにしていたことを思い出す。
あの時はなんて破廉恥なやつだろうかと見ていられなかったが、今はその肌から目が離せない。
フィオがぼんやりと見とれていると、最後の布を肌から解いたシャルドルートは
「えい」
とだけ小さく口にして、勢いよく地底湖に飛び込んだ。
水しぶきが跳ね上がり、洞窟の床とフィオの全身を濡らす。
「?!
危ねぇっつってるだろ飛び込むなよ!!」
それを見たフィオも、慌てて飛び込む。
さっきとは比べものにならない水量が持ち上がり、大きな水音を立ててあたり一面に暖かな雨を降らせた。
案の定、底に足のつかない場所では、魔法使いの小さな体は沈みかけている。
フィオは慌ててそんなシャルドルートの肩を甘噛みし、そのまま浅い岩場に連れて行った。
「お前な!?
そういや、すぐ死ぬとか何とか言ってたけど、俺んちの水場のせいでだけは死ぬなよ?!」
濡れてぺたんこになった黒く硬い鬣から水を飛ばしながら、息を切らしたフィオがシャルドルートを睨む。
「信用ないな。泳げるよ、俺」
シャルドルートは口を尖らせ、そう言って、岩場に腰掛けたまま水の中で細い足を人魚の下半身のようにゆるく揺らして見せた。
「………」
「あったかいね」
シャルドルートの体が、小さな波を立て、再び泳ぐように岩場を離れる。
「……だろ」
それを見たフィオも、後を追いかけるように岩場から離れ、全身の力を抜いて仰向けで湯に巨体を預けた。
シャルドルートはそんなフィオの様子をじっと見つめる。
ふう、と、心地よさそうに湯に浮かび、全身でため息をついている大きな龍。
シャルドルートは湯の中で手足を揺らし、揺蕩うフィオの体に近づき、硬い龍の胸に上体を預けた。
フィオは一瞬ギョッとしてそんなシャルドルートを見たが、濡れた瞳で微笑み返され、それ以上何もいえなかった。
「ニャル、今頃何してるかな」
暖かな湯の心地よさにまどろんでいると、どうしてもその金色の瞳が脳裏に浮かび、名前を口にしていた。
ニャルもいつも、湯に浸けてやると今のフィオのように仰向けになって、丸いお腹を突き出して気持ちよさそうに浮いている。
こんなに広い風呂があると、きっと喜ぶだろうなと思った。
「……さぁ……。
なんか美味いもんでも食わせてもらってんじゃねぇかな……」
フィオは天井を見上げたまま、答える。
「…………」
シャルドルートは、フィオの顔と、空から水面を照らすオレンジ色の光芒を見て、そっと目を閉じた。
この森の、神木のそばで2匹の長老に囲まれ、安心して森の恵みを口にしているニャルの顔が浮かぶ。
ああ……。
全身を包む湯の温度と、耳に届くフィオのゆったりとした心音を聞いていると、ずっと1人で抱えてきた、神木の龍を奪った罪の後悔と、抱えきれない胸の奥の不安が、ゆるゆると解けてしまった。
「ねぇ……」
「……うん?」
「……俺がこのまま、いなくなったらいいのかな」
そんなシャルドルートの呟きは、静かに、湯気と共に洞窟の中に広がった。
「……え?」
「ニャルはもう、1人でもちゃんとどこかでご飯を食べてるし、1人で歩いてどこにでも行けるから……。
俺が戻らなかったら、きっとニャルも森で、フィオと一緒に神木の龍として生きていけるよね」
フィオは、地底湖に浮いたまま、視線だけでシャルドルートを見る。
白い湯気の向こう、目を閉じたシャルドルートの白い頬には濡れた黒髪から滴る雫がポタポタとこぼれ落ちていて、今彼がどんな顔をしているのかはわからなかった。
「……お前はどうするんだよ」
「だからずっと言ってるだろ。
俺は魔法使いで、エルフ育ちのスーパー薬剤師なんだって。
行くところも、やれることも沢山あるよ」
「…………」
そう言ったシャルドルートの頬を、赤龍の短い前足が、ちょんと突く。
「……でも、嘘つきなんだろ?」
「………」
シャルドルートはわずかに目を逸らした。
そんな様子に、フィオは唇の端を少しだけ緩め、湯の中に沈んだ翼をゆるりと動かす。
大きな龍の体は、まるで船のように湯の中をあてもなく進んだ。
「お前は聞こえてなかっただろうけど……。
ニャルはさ、声が出ない頃も、ニャーニャー言いながら、ずっとお前を呼んでたぜ」
「…………」
「お前のために頑張ってんだよ。あいつ。
まだ飛ぶところも、力を使うところもろくに見てやってねぇだろ。
ちゃんとそばにいて、最後まで見てやれよ」
「最後までって…………」
龍の一生は長い。
短命な自分にはそんなの全て関係のない話だと思ってきた。
だからこそ、その言葉を受け止めきれず、シャルドルートは笑おうとして言葉に詰まった。
「……最後はさ、腐っちゃうんだよ。俺」
「………」
シャルドルートを乗せた、龍の船は地底湖の対岸へと辿り着く。
そこは天井に穿たれた穴の真下だった。
西の森に沈む夕日の、最後の光がキラキラと、2人の体についた水滴をオレンジ色の宝石のように照らす。
「腐んねぇよ」
フィオは対岸に濡れた体を上げ、湯の中に残るシャルドルートを見つめた。
「最期は、俺がお前を食べるから」




