表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/30

【20話】ニ゛ャゴゥ

小屋の中に一歩入った瞬間、フィオは小屋の中の空気がいつもと違うことに、まず肌で気が付いた。


だが、それよりも今は伝えたい気持ちが先に立つ。


「聞けよ、そのニャルのことなんだけどさ……!」


浮かれた声でその名を口にした途端、シャルドルートは慌てて席を立った。


そして次の瞬間、足をもつれさせながらフィオの元へ——

いや、玄関へと駆け寄った


シャルドルートの背後で、四本の脚に小さな歯形がいくつも残る木製の椅子が倒れ、耳の奥に刺さるような音を立てる。


シャルドルートはフィオの足元や背後、外にまで視線を送るが、そこに見慣れた白い姿はない。


「……ニャルは……?」

シャルドルートは、まるで熱に浮かされたかのような声で再び聞く。

「あ、いや……ニャルは……ここにはいなくて……」

「…………うそだ……」


「嘘?何が?お前の話がか?」


フィオにとって、それはただの軽口だった。


だがその一言が、シャルドルートの頬にわずかに残っていた血の気すらも奪い去る。


シャルドルートは何かいいたげにフィオの顔をしばらく見つめていたが、結局震えるその唇を開くことはなく、その場に崩れ落ちた。


指先で床を掴み、肩を小さく上下させ、浅い呼吸を繰り返している。


「おい?!どうしたんだよ……?!」

フィオも慌ててその場に膝をつく。

様子のおかしいシャルドルートを見て、ハッとした。


「も、もしかしてまた苦しいのか?!

そうか俺がニャル連れてっちまったから……!」


「……ごめんなさい……」


慌てるフィオの足元で、シャルドルートがなんとか喉の奥から絞り出したその声は、小さく、本人の乱れた息にすら紛れて消え入るようなものだった。


「……ごめんなさい……お願いだから……

連れて、行かないで……」


懇願するように、目の前のフィオに向けたシャルドルートの顔は、涙に濡れていた。


——泉のそばで、二人で話したあの夜。


フィオは、この顔が見たくなくて、

彼を抱きしめた。


今は震える指先一つ、泣きじゃくる彼の前に差し出せない。


「……すぐ、返すから……」


乾いた床に吸い取られるように、頬を伝った涙が同じ場所に何度も落ちる。


「すぐに、死ぬから……

ちゃんとフィオと森を守るようにって、ニャルにもしっかり伝えてから、いなくなるから……


……すぐだから……」


「…………」



「俺の最期を、一人にしないで…………」



***


夕暮れは、すでに沈みかけていた。


一日の終わり、世界でいちばん最後のオレンジ色の光は、この西の森に落ちる。


コカトリスの婆さんの遺跡もまた、そんな最後の光の中にあった。


「ニャ……」


毎日シャルドルートの瞳の中で見ていた、小さな白龍の姿を強く思い浮かべながら、ニャルは目を閉じていた。

その眼をゆっくり開けると、そこには見慣れた白い前足があった。

背中には、尻尾と翼の重さもある。


「ンニャッ!」

歓喜の声だって、ちゃんと出る。


「ンニャッ、じゃないのよヤモリちゃん。

元に戻れて喜んでるみたいだけど、結局あなた、人型のままじゃ一言も声を出せていないのよ?」


崩れた瓦礫の山の上に身を預け、筋張った足を組んだ女が言う。

足元まで流れる白髪混じりの黒いウェーブヘアは妖艶だが、細かな皺の刻まれた皮膚はその下の肉をなくし、もはや骨の上に頼りなく被さっているだけだ。


そんな女の、長いまつ毛に縁取られた重たい瞼は、間違いなくあの大蛇のものだった。


「あんたも面倒見がいいね。

そいつは神木の白龍様だよ。

ほっといたってそのうち立派な龍になるさ。

あんたの赤トカゲとは違ってね」


遺跡の冷たい柱にもたれ、ニャルと大蛇の様子を眺めていたコカトリスの婆さんは言う。


婆さんの言葉に、大蛇は目を細めて足元の小さな白龍を見つめた。


「その赤トカゲちゃんが、初めて嘘をついてまで私を頼ってきたのよ。

力になってあげたいじゃない」

「18年前、『でかい獲物を仕留めた』なんて言って嬉しそうに食おうとしてた奴がよく言うよ」

「あら。そんな私に、『それはいい眼をした龍だから食べるな』なんて甘いことを言ったのは、一体どこの誰だった?」

「さあ、知らないね」


婆さんは、干からびた鶏冠を揺らし、ぷいと横を向く。

大蛇はそんな婆さんに向けて「痴呆が進んでるみたいね」と軽口を向けたが、婆さんはそれには反応を返さなかった。


「食べて私の血肉にしてあげるのだって、愛なのよ」


大蛇は口を閉ざした婆さんの横顔に向かって言う。



異形の二人が話す間、ニャルは口を開け、ニャ、ニャ……と、何度も小さく声を出していた。


人の姿で鳴こうとした時は、この鳴き声が出なかった。


きっと音を出す場所が、違うのだろうとニャルは思う。

それが分かれば喋れるようになる、と、確かフィオが言っていた。


「ニャ……ニ゛ャゴ……」

「………」


ニャルが出したその音に、大蛇と婆さんの視線が集まる。


それは、二人がいつも喉の奥で聞いている、カエルの断末魔によく似ていた。


「……ヤモリちゃん、それはちょっと違うわ……」

「ニャウン……」

ニャルの白い瞼が斜めに下がる。

ニャルは思わず自分の太い尻尾の先を、こっそり掴んだ。


『ニャルすごい!』と、喋るニャルを見て喜ぶシャルドルートの顔はしっかり頭に浮かぶのに、肝心の声はまるで出ない。


「この辺、響かせなさいな」

大蛇は皮膚の弛んだ自分の首筋に細い指先をそっと添えて言う。

それを見たニャルも、尻尾から前足を離し、それを自分の顎下あたりにやる。


雪だるまのようにずんぐりとした幼龍ニャルの体に首はない。


「…………」

「ニ゛ャゴゥ……」

「それはおやめなさいって」


その時だった。


ここでは聞き慣れない、硬い足裏を石畳に叩きつけるような足音が、遺跡の通路側から響いていた。

何かに焦燥しているかのような、一人分なのにやけに騒がしい足音だ。


「……誰か来るね。どこかで嗅いだ匂いだ」


婆さんが呟く。



人間の足音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ