【20話】ニ゛ャゴゥ
小屋の中に一歩入った瞬間、フィオは小屋の中の空気がいつもと違うことに、まず肌で気が付いた。
だが、それよりも今は伝えたい気持ちが先に立つ。
「聞けよ、そのニャルのことなんだけどさ……!」
浮かれた声でその名を口にした途端、シャルドルートは慌てて席を立った。
そして次の瞬間、足をもつれさせながらフィオの元へ——
いや、玄関へと駆け寄った
シャルドルートの背後で、四本の脚に小さな歯形がいくつも残る木製の椅子が倒れ、耳の奥に刺さるような音を立てる。
シャルドルートはフィオの足元や背後、外にまで視線を送るが、そこに見慣れた白い姿はない。
「……ニャルは……?」
シャルドルートは、まるで熱に浮かされたかのような声で再び聞く。
「あ、いや……ニャルは……ここにはいなくて……」
「…………うそだ……」
「嘘?何が?お前の話がか?」
フィオにとって、それはただの軽口だった。
だがその一言が、シャルドルートの頬にわずかに残っていた血の気すらも奪い去る。
シャルドルートは何かいいたげにフィオの顔をしばらく見つめていたが、結局震えるその唇を開くことはなく、その場に崩れ落ちた。
指先で床を掴み、肩を小さく上下させ、浅い呼吸を繰り返している。
「おい?!どうしたんだよ……?!」
フィオも慌ててその場に膝をつく。
様子のおかしいシャルドルートを見て、ハッとした。
「も、もしかしてまた苦しいのか?!
そうか俺がニャル連れてっちまったから……!」
「……ごめんなさい……」
慌てるフィオの足元で、シャルドルートがなんとか喉の奥から絞り出したその声は、小さく、本人の乱れた息にすら紛れて消え入るようなものだった。
「……ごめんなさい……お願いだから……
連れて、行かないで……」
懇願するように、目の前のフィオに向けたシャルドルートの顔は、涙に濡れていた。
——泉のそばで、二人で話したあの夜。
フィオは、この顔が見たくなくて、
彼を抱きしめた。
今は震える指先一つ、泣きじゃくる彼の前に差し出せない。
「……すぐ、返すから……」
乾いた床に吸い取られるように、頬を伝った涙が同じ場所に何度も落ちる。
「すぐに、死ぬから……
ちゃんとフィオと森を守るようにって、ニャルにもしっかり伝えてから、いなくなるから……
……すぐだから……」
「…………」
「俺の最期を、一人にしないで…………」
***
夕暮れは、すでに沈みかけていた。
一日の終わり、世界でいちばん最後のオレンジ色の光は、この西の森に落ちる。
コカトリスの婆さんの遺跡もまた、そんな最後の光の中にあった。
「ニャ……」
毎日シャルドルートの瞳の中で見ていた、小さな白龍の姿を強く思い浮かべながら、ニャルは目を閉じていた。
その眼をゆっくり開けると、そこには見慣れた白い前足があった。
背中には、尻尾と翼の重さもある。
「ンニャッ!」
歓喜の声だって、ちゃんと出る。
「ンニャッ、じゃないのよヤモリちゃん。
元に戻れて喜んでるみたいだけど、結局あなた、人型のままじゃ一言も声を出せていないのよ?」
崩れた瓦礫の山の上に身を預け、筋張った足を組んだ女が言う。
足元まで流れる白髪混じりの黒いウェーブヘアは妖艶だが、細かな皺の刻まれた皮膚はその下の肉をなくし、もはや骨の上に頼りなく被さっているだけだ。
そんな女の、長いまつ毛に縁取られた重たい瞼は、間違いなくあの大蛇のものだった。
「あんたも面倒見がいいね。
そいつは神木の白龍様だよ。
ほっといたってそのうち立派な龍になるさ。
あんたの赤トカゲとは違ってね」
遺跡の冷たい柱にもたれ、ニャルと大蛇の様子を眺めていたコカトリスの婆さんは言う。
婆さんの言葉に、大蛇は目を細めて足元の小さな白龍を見つめた。
「その赤トカゲちゃんが、初めて嘘をついてまで私を頼ってきたのよ。
力になってあげたいじゃない」
「18年前、『でかい獲物を仕留めた』なんて言って嬉しそうに食おうとしてた奴がよく言うよ」
「あら。そんな私に、『それはいい眼をした龍だから食べるな』なんて甘いことを言ったのは、一体どこの誰だった?」
「さあ、知らないね」
婆さんは、干からびた鶏冠を揺らし、ぷいと横を向く。
大蛇はそんな婆さんに向けて「痴呆が進んでるみたいね」と軽口を向けたが、婆さんはそれには反応を返さなかった。
「食べて私の血肉にしてあげるのだって、愛なのよ」
大蛇は口を閉ざした婆さんの横顔に向かって言う。
異形の二人が話す間、ニャルは口を開け、ニャ、ニャ……と、何度も小さく声を出していた。
人の姿で鳴こうとした時は、この鳴き声が出なかった。
きっと音を出す場所が、違うのだろうとニャルは思う。
それが分かれば喋れるようになる、と、確かフィオが言っていた。
「ニャ……ニ゛ャゴ……」
「………」
ニャルが出したその音に、大蛇と婆さんの視線が集まる。
それは、二人がいつも喉の奥で聞いている、カエルの断末魔によく似ていた。
「……ヤモリちゃん、それはちょっと違うわ……」
「ニャウン……」
ニャルの白い瞼が斜めに下がる。
ニャルは思わず自分の太い尻尾の先を、こっそり掴んだ。
『ニャルすごい!』と、喋るニャルを見て喜ぶシャルドルートの顔はしっかり頭に浮かぶのに、肝心の声はまるで出ない。
「この辺、響かせなさいな」
大蛇は皮膚の弛んだ自分の首筋に細い指先をそっと添えて言う。
それを見たニャルも、尻尾から前足を離し、それを自分の顎下あたりにやる。
雪だるまのようにずんぐりとした幼龍ニャルの体に首はない。
「…………」
「ニ゛ャゴゥ……」
「それはおやめなさいって」
その時だった。
ここでは聞き慣れない、硬い足裏を石畳に叩きつけるような足音が、遺跡の通路側から響いていた。
何かに焦燥しているかのような、一人分なのにやけに騒がしい足音だ。
「……誰か来るね。どこかで嗅いだ匂いだ」
婆さんが呟く。
人間の足音だった。




