【14話】コカトリスの婆さん
西の森の最奥……神木のすぐそばに、木々に埋もれるようにして古い石造りの遺跡が残っている。
崩れた柱は苔に覆われ、蔦が絡み、壁に刻まれたエルフ文字はもうほとんど風化して何も読めない。
「遅い」
赤龍・フィオが遺跡の中に姿を見せると、円柱の柱に寄りかかり、遺跡に転がった小石を口慰みに食べていたコカトリスの婆さんが、そういって濁った琥珀色の瞳でフィオを睨んだ。
「……仕方ねぇだろ、
なかなか良い獲物が見つかんなかったんだって……」
婆さんの、蛇のようにとぐろを巻いた尻尾のそばに、ここまで咥えてきた巨大沼ガエルをベチャリと落としながら言う。
石畳が沼ガエルの体に残っていた沼の水で色濃く濡れた。
「沼ガエルかい。
気が利かないねぇ。
あたしゃメロンスネークの方が好きなんだよ
……あいたたたた」
年季の入った鶏の体を重たそうに柱から持ち上げ、腰の痛みに嘴を歪めながら婆さんは言った。
婆さんの目は、値踏みするようにひっくり返った沼ガエルを見ている。
「無茶言うなよ。あれ捕まえようと思ったら蛇岩渓谷まで行かなきゃならねぇんだぜ。
遠いし、岩場は痛いし、ろくな場所じゃねぇ」
「愛がないねぇ」
「あるか」
「……あいたたたた。
ああ痛い。
こりゃ常湧の泉にでも湯治に行かなきゃなかなか治らないね……。
暇ができたら連れて行っておくれ」
「愛ができたらな」
崩れた壁の隙間から差し込む木漏れ日が、婆さんのそばの石畳を淡く照らしている。
フィオはそこに腰を下ろし、鼻から息を吐いて朝一番の狩りで疲れた巨体を休ませた。
石畳はひんやりとしているのに木漏れ日は暖かく、心地がいい。
「そういえば……朝からどこへ行ってたんだい?」
痛む腰を庇うようなヨタヨタとした動きで沼ガエルに枯葉をかけながら、婆さんは言う。
「?それ取りに、泥鳴湿原までだよ」
「その前さ。お前から、人間の匂いがするよ」
婆さんは、沼ガエルを見ていた時と同じ目付きでフィオを見た。
フィオは思わず、すん、と一度だけ鼻を動かす。
「……するわけねぇだろ。あんな沼地に人間なんかいねえよ」
フィオがそう言うと、婆さんは「そりゃそうだ」と体を揺らして笑い、そのせいで再び襲った激しい腰の痛みに、そんな笑顔のまま不気味に固まった。
フィオはその間、こっそりと自分の翼を嗅いでみていたが、そこからシャルドルートの匂いがするかどうかまでは分からなかった。
少し期待した自分に、人知れず頬鰭の下が赤くなる。
「何ニヤニヤしてんだい」
「してねぇよ!」
婆さんは、所々羽の抜け落ちた灰褐色の翼で腰を撫でている。
痛みに耐えるその姿は、昨日一昨日見たシャルドルートの酷い喘息の姿と重なった。
「……なあ婆さん」
「何だい」
「黒くなった肺を戻す方法って、ねぇのかな?」
「黒くなった肺?……さあ。聞いたこともないね。
何年か前にも黒煤の風がこの森に吹いたことがあったけど、あの時だって風で肺をやられた奴らはほとんど死んじまったよ」
「……」
そこまで言った婆さんは、ふと、腰を撫でる翼を止めて「……ああ、でも……」とひび割れた嘴の奥でつぶやいた。
わずかな希望が光るその声に、俯いていたフィオもパッと顔を上げる。
「神木の白龍様が、なんとかしてくれるかも知れないね」
ヨタヨタと蛇状の尻尾を引き摺りながらカニ歩きで元いた柱のそばへと戻っていく婆さんの言葉に、フィオはガックリと首を落とした。
「とっくにいねぇんだよ……そんなのは」
「いない?」
俯いたまま、フィオは続ける。
「婆さんは、もう何年もここに引きこもってっからしらねぇんだな……
白龍の卵はさ……無くなっちまったんだよ」
センチメンタルな様子で自分の体に落ちる木漏れ日を見つめ、ふっ、と諦めたように笑うフィオを、婆さんは不思議そうな目で見つめる。
そして、こう言った。
「何言ってんだい。とっくに産まれてるだろ」
と。
「は?!?!」
フィオは思わず前のめりになり婆さんを見た。
婆さんは、「どっこいしょ」とため息と共に言いながら再び柱にもたれかかっている。
「うううう、産まれてるって、どう言うことだよ?!神木には、もう卵なんかなかったんだぞ?!」
「どこで産まれてるかまでは知ったこっちゃないよ。
ただ、最近吹いてくる風がやけに綺麗だ」
「………」
「浄化の白龍様が、何処かでお産まれになってるはずさ」
***
——夜。
シャルドルートの小屋の小窓からは柔らかい風呂場の湯気が漏れ、闇夜に溶けている。
風呂から上がったばかりでまだ全身の鱗がしっとりと濡れたニャルは、同じく風呂上がりでまだ濡れ髪のシャルドルートに抱えられ、洗面の水台の前に立たされていた。
目の前には鱗汚れで真っ白にくすんだ鏡。
その鏡の前にも、大きなクリスタルの塊や謎の液体の入った瓶がいくつか埃にまみれて並んでいた。
「ほらニャル。やってみて」
シャルドルートは言う。
ニャルは目の前の、自分の姿すらまともに映してくれない、真っ白な鏡を不安げな目で見つめた。
それでも、ぎゅうっと目を閉じ、短い前足を前に伸ばす。
「ンニャッ……!!!」
——数秒後、おそるおそる瞳を開けたニャルの前には、相変わらずいつものくすんだ鏡と埃だらけの小物があった。
「………やっぱ無理か。浄化の龍っていうなら、パッと掃除くらいできたら良いのに」
「ニャウ……」
期待していた結果が得られず、唇を尖らせているシャルドルートの姿に、ニャルもしょんぼりしてしまう。
水台から自分を下ろすためにもう一度抱き上げてくれたシャルドルートのバスローブの胸元を掴む。
それはガッカリするほどに龍の前足なのに、期待されるようなことは何もできなかった自分が不甲斐なかった。
龍の力で掃除ができないのならせめて、フィオのように人の姿になって『腕』があれば、シャルドルートを抱きしめてやることくらいできるのに——
「大きくなったらできるかな?掃除」
「ニャーウ……」
——そんなすごいこと、ニャルには出来ないかもしれない。
ニャルは答えるが、シャルドルートに伝わっているかどうかはわからない。
「別に何もできなくても良いけどさ」
シャルドルートは抱えたニャルの湿った鬣を少しだけ撫で、おでこにキスをしてやった後、ニャルを抱えたまま寝室へと向かった。
今日は大切な仕事があるので、先にニャルを寝かせるためだ。
白いシーツを張ったベッドの上にニャルの体を沈め、掛け布団をかけてやる。
「おやすみ、ニャル」
そう言ってシャルドルートがニャルの背中を軽く叩くと、ニャルは布団の中で背中を丸め、自分の尻尾を抱いて目を閉じた。
——いつもなら、それだけで眠れるのに……
今夜は太く短い前足や、掛け布団の下でゴワゴワと邪魔な翼が気になって、うまく眠れなかった。
月明かりが、外の泉に反射して寝室全体を黄色く染めている。
もうすっかり良くなったはずの鱗全体がムズムズとして、ニャルは夜中に何度も寝返りを打った。
いつもなら、シャルドルートの「おやすみ」から「おはよう」までは、まるで一瞬のように感じられるのに、今夜はなかなか「おはよう」が訪れない。
ようやく朝日が昇り、いつものように寝室から出ていくと、かまどの前にはシャルドルートが立っていた。
昨夜は忙しかったのか、結局朝まで寝室には来なかった。
近づき、あくびまじりに一鳴きしようとしたが声が出ない。
「……?」
そんなニャルの代わりに、「おはよう」と言いかけながら足元のニャルを見下ろしたシャルドルートが、自分の服の裾を掴む小さな5本指を見て、思わず叫び声を上げた。




