【13話】浄化の龍
「こいつ……ニャルはさ、多分、浄化の龍なんだよ」
アマルナの背骨を奥歯で噛み潰しながらフィオが言う。
「浄化?」
食事を終えて椅子から降りたニャルの手から使い終わった皿を受け取り、シャルドルートは聞き返した。
皿の中は最終的に舐めたんじゃないかと思うほど綺麗だが、ニャルが食事を終えたテーブルや机の下は食べこぼしでメチャクチャだ。
せめて椅子の下の食べこぼしくらいは拭き取ろうと、布巾を手に床にしゃがみ込むと、古い板張りの床のあちらこちらで、長年の怠惰の末、蓄積した埃が窓からの朝日に照らされてキラキラしていた。
「……浄化ぁ?」
立ち上がり、一度床を拭いただけで真っ黒になった布巾の表面をフィオの前でひらひらと見せつけながら、再び訝しげにその二文字を口にする。
「いや……浄化の龍がいると家ん中まで綺麗になるかどうかまでは知らねぇんだけど……。
……お前さ、裏の泉に、時々ニャルのこと入れたりしてねぇ?」
フィオは片頬をスープの具で膨らませながら、手にしたスプーンの持ち手で泉がある方向を指して言う。
「?そりゃ……どこで何してるのかは知らないけど、時々泥だらけで帰って来るから、あそこに放り込んで洗ってやったりはするけど……それが?」
シャルドルートが答えると、フィオは口のなかの具を飲み込みながら納得するように2、3度頷いた。
「だからだな。
あの泉さ、いくらなんでも綺麗すぎるんだよ」
「……綺麗すぎるって?」
「ここってさ、どちらかって言うともう森の出口に近いだろ?
それなのに、あの泉の水だけ、森の奥の神泉にも負けねぇくらい、やたら綺麗なんだ」
フィオのそんな言葉に、シャルドルートも思わず泉のある方角を見る。
「お前、あの泉の周りには人の血を吸う虫がいるとかなんとか言ってたけど、夜光虫だって飛んでるだろ?
綺麗な水のある場所じゃないと棲めないあいつらがあんなに飛んでるのなんて、ここらじゃこの家の周りだけだ」
シャルドルートは思わず何かを考えるように、手のひらで口元を覆った。
そういえば、子供の頃はこの家の周りに夜光虫なんて飛んでいなかった。
サヴァンが砂になり、森に還った日、その砂を生前彼がよく竪琴を弾いていた泉のそばに撒いたので、今までずっとそのせいかと思っていたけれど、
どちらかというとニャルが来てからと言う方がしっくりくる。
黙って考えるシャルドルートに、フィオは続ける。
「空気もだよ。
この家の周りだけやたら澄んでんだ。
お前がここ数日やたら黒い咳をしてたのだって、理由はきっと、祭りで長くここを離れてたってのと、雨だ。
雨の日は、この辺を覆ってたニャルの浄化が届かなくなるからな」
それまで口元に添えられていたシャルドルートの手は、そんなフィオの話を聞き首や鎖骨を撫でるように胸元へと下ろされる。
まさか、と言い返そうと思ったけれど、出来なかった。
今のフィオの話にだって心当たりがあるからだ。
昔はしょっちゅう起きていた、息ができなくなるほどの喘息は、ニャルの卵を拾ってから極端に回数が減っている。
そして今も時々思い出したようにそれが起こるのは、大抵今回のように森の外や街へ出かけた後か、雨が降り、周囲の空気が変わった日だけだった。
「ニャルは多分、真っ黒になったお前の肺をなんとかするために、あの日は無意識で浄化の力をフルで使ったんじゃねぇかな。
でもまだガキだから、雨に負けちまったんだよ。
で、出せなかった力はニャルの体ん中で暴走して、鱗の方に負担が回ってああなっちまった……
……て言うのが、俺の考え」
『ああなっちまった』と言われたニャルは、ハゲハゲの体で、開けた窓から入る風で揺れるカーテンをうずうずした様子で眺めている。
時々前足でカーテンを叩くと風の揺れがかわる。
それが面白いようだった。
「俺のせいで……」
そう呟くシャルドルートにフィオは被せるように
「お前のため、な」
と言い換えた。
「……」
シャルドルートはそれ以上、もう何も言えなかった。
フィオはスープを食べ進める。
それまでカーテンにじゃれつき、風と遊んでいたニャルが、二人の会話が途切れたのを気にしてチラリとテーブルの方を見た。
視線に気がついたシャルドルートは、慌てて背筋を伸ばし、唇をきゅっと結ぶ。
込み上げかけたものを無理やり押し戻し、短く息を吸った。
「フィオにも、何か特別な力はあるの?」
特に、赤龍の力に興味があったわけではない。
あそこで話を聞いているニャルが気にしないように、話の矛先を少しだけ逸らす。
そんなシャルドルートに、フィオは『よくぞ聞いてくれた』とばかりに、ぱっと表情を明るくした。
「俺か?!俺はさ……!」
完食したスープの皿にスプーンを置き、勢いよく顔を上げたフィオの目に、ニャルが遊ぶカーテンの向こうの木々の隙間から覗く太陽が見えた。
「やっべ!!もう太陽あんなとこにあるじゃん!!」
思いがけない太陽の高さに、フィオは青い顔をして勢いよく立ち上がる。
「……何?」
「コカトリスの婆さんが腰やっちまって動けねぇから、昼飯持って行く約束してんだよ。
あの婆さん、適当なもん持ってったら文句しかいわねぇからな。
……いや、何持ってっても結局文句は言われんだけどよ。」
そういってバタバタと椅子も食器もそのままに、慌てて家を出て行こうと玄関へと向かうフィオ。
「……普段そんなことしてるんだ」
どうせ日がな一日、祠で食べて寝て、遊んでいるものだとばかり思っていたシャルドルートは、フィオの意外な行動に紫色の瞳を丸くしてまるで独り言のようにそう呟いた。
「おう。いつ、神木の白龍が帰ってきてもいいように、俺が森を守っとかなきゃな!」
そんなシャルドルートに、フィオはまた遠く未来を見つめる目をして爽やかに言った。
シャルドルートはフィオから目を逸らすために、かまどにもたれたまま手にしたカップを傾け、すっかり冷めたお茶を飲む。
フィオからこぼれ落ちてくる希望の光が全身に刺さり、痛い。
シャルドルートは、自分でも知らず知らずのうちに相当苦痛の表情をしていたのだろう。
そんなシャルドルートを見て、フィオは何かにハッと気づいたような顔をした後、赤い眉を下げた。
「あ、お前は……あんま……無理すんなよ……
そりゃ白龍は早く欲しいけど……
お前の体が、治ってからでも充分だから……
ごめんな、俺、お前が体悪くしてんのなんか知らなくて……」
「え??……あ…ああ……」
「………」
椅子を立ち、一旦は慌てて外へ出て行こうとしていたフィオだったが、曖昧な返事をするシャルドルートの様子を見て、再び台所の方へと戻ってくる。
目の前のフィオの顔だけを見あげれば、そこにはまだ少年が立っている。
それなのに、その首筋から肩へ落ちる線は驚くほど厚く、薄布の下で静かに息づく胸郭には、森を駆ける獣のような力強さがあった。
無邪気な赤い瞳と、熱を帯びた体躯。
その生々しいチグハグさに、シャルドルートは手にしていたカップをかまどの上に置き、思わず息を呑んだ。
「な……なに……?」
「昨日の……もう一回していい……?」
フィオは言う。
「昨日の??昨日のってなんだっけ…?!」
聞き返すよりも先に、大きな腕で抱きしめられた。
「?!」
その熱に、シャルドルートの肩も跳ねたが、窓辺でニャルも、目を丸くして大きく跳ね上がっている。
「やっぱりだ……昨日も思ったけど、お前すげえいい匂いするんだよ…」
「え?!い、いや、最低限の洗濯くらいしかしてないけど?!?!」
それどころか、洗濯すら面倒な時はそれこそ裏の泉で適当にまとめてザブザブやって、適当に干していただけだ。
まさかあれも、ニャルの浄化の加護を受けていたのだろうかと今ふと思ったが、今はそれどころではない。
「それにこうするとさ……体と体がぴったりくっついて……一つになったみたいですげえ気持ちいいんだよ」
「気のせいなんじゃない?!?!」
シャルドルートは叫ぶ。
ニャルは、震える。
「気のせいかな……。
でも、すげぇやる気出る。
……行ってくるな」
フィオは、シャルドルートの体から腕を解くと、その大きな手をシャルドルートの頭の上にポンと乗せ、顔を覗き込むようにして柔らかく微笑んだ。
シャルドルートは言葉を失い、フィオが出ていき閉まった扉を呆然と見つめる。
ニャルは自分の手を、腕を
——じっと見ていた。




