【12話】食べると言うこと
——翌朝。
「ニャイっ!!」
日々、食卓の下でサンドバッグ代わりに後ろ足で蹴られ、噛まれ、転がされ……
すっかりくたびれたクッションを三枚重ねた椅子の上で、ニャルは胸を張る。
前足には空になった皿が器用に掴まれ、誇らしげに高く掲げていた。
おかわりの合図だ。
朝になり、ようやくベッドから出てきたニャルは、体のあちこちで鱗が剥がれ、白く艶やかだった背中がまだらになっていた。
3年間、何不自由なくとは言えないけれど、愛情を持って育てた真っ白な龍が、なんだか少しみすぼらしくなってしまった。
それでも……
今朝は目を開けて、息をして、温かいスープで腹を丸くさせている。
シャルドルートには、それだけで充分だった。
「……おかわりっつってるけど……」
呆れるほどによく食べるニャルの姿を、向かいの席から見つめながらフィオが言う。
昨日丸一日煮込んだキノコとアマルナのスープは絶品らしく、朝からニャルのスプーンは止まらない。
「いやニャル、もう五杯目だよ?」
「ニャイっ!」
「……おかわりだって」
二度目はもう、そんなフィオの通訳も必要がないくらい、シャルドルートにもニャルの言葉の意味がはっきりと分かった。
「………これで最後だよ」
シャルドルートはニャルから空になった皿を受け取り、そこに渋々鍋からスープを注ぐ。
——気持ち、少なめに。
「なぁニャル、そのアマルナさ、俺が取ってきたんだぜ。うめぇだろ??」
「ニャ」
正直、今のニャルにはフィオとの会話より目の前の食事だ。
狩りの手柄を得意げにしているフィオには目もくれず、シャルドルートから差し出された皿を抱え、忙しくスープを口に運んでは適当な返事をしている。
ニャルはフィオが持ってきたアマルナを夢中で頬張る。
肉厚な白身に噛みつき、よく煮て柔らかくなった皮も、骨も、小さな牙で噛み砕き、飲み込む。
そうやって、森は森のまま、ニャルの中へと移っていく。
——この森の食事とは、命を取り込むことだ。
シャルドルートはカップに自分の分のお茶を注ぎながら、そんなニャルと、それを眺めるフィオを横目でチラリと見た。
頬杖をついたフィオの表情は柔らかい。
病と戦い抜き、剥がれた体で懸命に命を取り込むニャルを、愛おしげに見つめている。
…昨夜だ。
泉のそばで、あの腕で抱きしめられて知った彼の熱を思い出す。
背に回された腕の重み。
首筋に感じた吐息の湿気。
龍であるフィオの体温は、人のそれよりもわずかに高く、思いのほか穏やかだった。
……あれは慰めだったのか、衝動だったのか…。
はっきりとした答えを出せないまま、視線だけがまたフィオへと戻る。
彼の体温がまだそこにあるようで、シャルドルートはフィオの吐息を感じたうなじのあたりを、そっと指先でなぞった。
何故だか、耳が熱かった。
「……まだ、調子悪いのか?」
赤い顔をして俯いていたからだろうか。
心配そうな顔をしたフィオからそう声をかけられた。
「え?!あ……いや……。
なんか、その…あ、ほら、痒くて。
泉の周りにさ、いるんだよ、人の血を吸って、置き土産に痒みだけ残していく悪魔みたいな虫が」
うなじに触れていたのはそのためだと装うため、指先で痒くもない箇所を掻きむしりながら言う。
「あそこにそんなのいたか?」
「いるんだって。たまに!
ああほら、そんなことよりせっかくキノコもアマルナも持ってきてくれたんだから、フィオも食べなよ、スープ。よく煮込んだから美味しいよ」
「あ……ああ……」
フィオには“よく煮込んだから美味しい“という感覚がいまひとつわからなかった。
魚は、採れたてをその場で頭から食べるのが一番美味しいと思っているからだ。
むしろそれ以外の食べ方などしたことがない。
フィオは、新しい皿を一枚戸棚から取り出しているシャルドルートと、“最後“と言われ、そろそろ皿の底が見えてきた一杯を名残惜しそうにちまちまと食べているニャルとを交互に見た。
鍋からは、柔らかな湯気が白く立ち上っていた。
「じゃあ……ちょっとだけ……。」
フィオは緊張しながら、そう答えた。
龍はそんなものは食べない、と、この小屋に初めて入ったあの日、意地を張った自分を思い出し、少し可笑しかった。
「はい。熱いよ」
シャルドルートが、手際よく温かいスープを皿に注ぎ、それをフィオの目の前に差し出す。
自分のために用意された、生まれて初めての一皿をフィオはしばらくじっと眺めた。
煮込まれ、見慣れない姿になったアマルナの身を少しだけスプーンで掬い、ちょんと舌先で舐めてみる。
複雑で、豊かな塩の味がした。
「スプーン、使うのうまいね」
かまどにもたれて温かいお茶を飲み、そんなフィオの様子を見ていたシャルドルートが言った。
「え……そうか…?」
突然思いもよらぬ箇所を褒められ、肩がわずかに跳ねた。
それから静かに、「そうなのか…」と噛みしめるように呟き、スプーンを持った自分の手を見つめる。
ニャルもフィオの手を見つめ、それからスプーンを巻き込むように掴む自分の前足を見ていた。
「そ、そんなことよりさ」
フィオは、まるで慌てて話題を変えるように、少し綻んでいた口元を整えて切り出した。
左手の指先は小さく衣服の端を摘まみ、落ち着きなく撫でている。
「なんだっけ……ほら、お前が昨日、ニャルの鱗が剥がれた原因はそれなんじゃないかって言ってた、心が疲れる病気…」
「ストレス?」
「それだ。俺、昨日あれからずっと考えてたんだけどさ」
今度はスプーンで汁も具も掬い、皿の中身を食べ進めながらフィオは言う。
「多分な、それが原因じゃねぇよ」
フィオはそう言って、赤い瞳でスープの水面を見つめた。




