【11話】異常なし
フィオが帰った寝室では、いつものようにニャルと二人きりになった。
ニャルのか細い呼吸だけが聞こえる寝室で、シャルドルートはサヴァンの残した本を読み漁り、記録を追い、剥がれかけた鱗に触れては名前を呼ぶ。
ニャルの体から熱が静かに抜け、寝息が落ち着いたのを確かめたとき、寝室の格子窓の外はすっかり夜だった。
「…………」
シャルドルートはその窓の外をしばらく眺めてから、静かに寝室を出た。
***
小屋の裏手に回ると、木々に囲まれた小さな泉がある。
薬草を洗い、喉を潤し、ときには泥だらけになって森から帰ってきたニャルを清める場所だ。
今夜の泉は、鏡のように静まり返り、丸い月を淡く映していた。
そのほとりに、赤い龍が、まるで猫のように背中を丸めて座っていた。
「帰れって言ったのに」
シャルドルートがそこに向かって声をかけると、龍の背中に止まっていた何匹もの夜光虫が、黄緑色に光る4枚の羽を揺らして飛び立った。
夜空に、光の屑が残る。
龍……フィオは、そんなシャルドルートの声にぴくりと頬鰭を動かし、ひどく拗ねた様子で顔を上げる。
「今また来たんだよ」
そう言ってフィオは、泉の水面に視線を落とした。
「嘘つき」
「んだと」
シャルドルートの視線は、泉のすぐそばに立つ小屋の、大きな格子窓に向けられる。
この小屋の寝室は毎夜、泉に照り返す月の光で眩しかった。
「ずっと見えてたよ」
「………」
帰れと言われても帰れず、ニャルを楽にする方法も、シャルドルートを支えるすべも分からず、ただここで時間が経つのを待っていただけだった。
それを“見ていた“と言われて、フィオはひどく気恥ずかしくなり、再び背中を丸めた。
シャルドルートはそんなフィオの赤く大きな背中を見つめる。
「ニャルは……?」
背中を向けたまま、フィオが口を開いた。
「わからない……。
けど……熱は引いて、鱗も剥がれなくなったから……。
多分、もう大丈夫……うん。きっと…」
「……」
それはまるで、自分に言い聞かせるかのような口ぶりだった。
フィオの背後で、落ちた葉を踏み進める音がする。
フィオがそちらにチラリと目を向けると、すぐ近くまで近づいてきていたシャルドルートが、丸めた尻尾のそばに腰を下ろすのが見えた。
どこかで梟が鳴く。
明日は満月だと告げているのだ。
「……ストレス、なのかも」
フィオの太い尻尾の尾先まで生えた黒い鬣には森の草や蔦が絡み付いていた。
そんなフィオの、ごわつく鬣を指先でほぐし、雑草を取り除いてやりながらシャルドルートは言う。
「……ストレス……?」
聞きなれない単語にフィオが再び顔を上げる。
そこで初めて、自分の尾先に触れるシャルドルートの手に気がついた。
てっきり、夜風に揺れる野草が撫でているものだと思っていた。
フィオの顔が、人知れず赤くなる。
赤面の目立たない赤龍でよかった、と、フィオは思う。
「うん。心が、休めなくて、ずっと頑張って、体まで疲れてくる症状。
人間もそれが理由で時々熱を出したり、髪が抜けたりするんだけど……
今回のニャルの症状も、それに近いのかも知れない」
人型化した時の自分の手ともまた違う、ほっそりとした魔法使いの白い指先が、まるで手慰みのように鬣の間に何度も差し込まれ、そこから千切れた葉や花弁を取り除いている。
フィオはそこから目が離せなかった。
見ていると、喉の奥が妙に乾き、唾を何度も飲み込んだ。
無意識に翼の被膜はピンと張り、全身に力が籠る。
心臓は、まるで小動物かのように激しく高鳴っていた。
「こっ……心が、休めないって……。
あいつあんなに小さいんだから、まだそんなに悩むようなことなんかないだろ……」
「………」
自分の体に何が起きているのか、いまいち理解できない状況にどぎまぎしながらそう言ったフィオの言葉に、シャルドルートの表情が陰った。
ニャルには、もう何年も自分の勝手な嘘に付き合わせているのだ。
時には、捨てられていたことにしろ、と
時には、猫になりきれ、と
そして時には、妙な薬で産まれたことにしろと無理難題を強要され続け、素直なあの子の小さな心はもう限界なんじゃないかと、今日一日熱に喘ぐニャルの姿を見て感じていた。
「ニャルは……本当は俺の嘘に付き合うのなんて、嫌だったのかも知れない」
「嘘…?え?嘘?なに、何が嘘??」
「でも俺は、ニャルがどれだけ嫌だって言ってても、何も分かってやれないから……」
「………」
シャルドルートの声が小さく震えている。
それに気がつくと、それまで早鐘のように高鳴っていたフィオの心音も、泉の水面のように凪いだ。
「どこへ行ってもみじめで、だからっていまさら魔法使いの顔をして街で住むことなんか出来なくて。……ずっと寂しくて……
ニャルが大きくなるのを見るのだけが幸せだったのに……」
「……」
「俺のせいで、ニャルが死んだらどうしよう」
体を小さく丸め、自分の膝に顔を伏せてそう言ったシャルドルートが泣いているのは、声で分かった。
どうしていいかが分からずに、とりあえず自分の左右を確認してみるフィオ。
左右、異常なし。
月、異常なし。
ニャルが眠る小屋の窓、異常なし。
最後に、隣で震える“異常“を確認し、そっ…と尻尾の先で、シャルドルートの頭を撫でようとしてみたが、何かが違う気がして尻尾はおろした。
続いて、翼で身体を包んでやろうかと片方だけ被膜を広げてみるが、これもやっぱり違う気がする。
「……うう…っ」
フィオは喉の奥でくぐもった音を漏らした。
自分が何をすべきなのか、何をしたいのか、あと一歩で答えが出そうなのに、出ない。
胸の奥で渦巻いていた焦りと苛立ちが、ついに限界を迎えた。
フィオは眉間にぎゅっと力を込め、もう片方の被膜も大きく広げると、バサリと一度、強く翼で風を起こした。
生暖かい風が吹き、泉の水面に波を立てる。
草も、泉に映った二つ目の月も、一斉に乱れた。
「何、急に……」
春の嵐のような一陣の風に眉をひそめ、シャルドルートが顔を上げる。
その目元は、涙に濡れていた。
やがて風が止む。
揺れていた空気が静まり返ったその場所にいたのは、赤い鱗の龍ではなく、翼で風を起こし、人の姿へと変わったフィオだった。
フィオは何かの覚悟を決めるように鼻から息を吸い込み、両腕を広げる。
その頬は、耳たぶは、龍の姿の時には気づかなかったけれど、はっきりと赤い。
「え、ほんとに何……」
シャルドルートがフィオの行動に戸惑っていると、フィオは赤い顔のまま真剣な瞳を向け、
「いや…、あの、こう、したくて……」
と、そのまま広げた両腕でシャルドルートの体を包み込んできた。
「は?!?!」
「……龍のままじゃ、腕短くてこうしてやれねぇんだよ……」
照れ隠しのようにそう言ったフィオの心臓は、今にも壊れそうなほどに高鳴っていた。
「え、いや……そ、それはそうなのかも知れないけど……え?」
「やっぱ同じ形の方が、しっかり抱けるな」
フィオの腕に、改めて、ぎゅ、と力が込められる。
「同じ形……って。……ねえ、ちょっと苦しい」
感じたことのない圧迫感に、息が詰まる。
シャルドルートがそう言うと、フィオは
「あ、ああ、ご、ごめん」
と、慌てて腕の力を少し緩めた。
「や、優しく、だよな……」
フィオも緊張しているのだろう。
まるで独り言のようにそう呟いた後、ふーっ、と一つ、自分を落ち着かせるような深いため息をついた。
そうして、少し落ち着いたフィオはシャルドルートの肩に、胸に、自分の重みを少しだけ預けながら、心の底から得意げな声でこう言った。
「ほら………言っただろ。
俺は、ちゃんとお前を抱いてやれるんだよ」
「……いや、抱くって………」
フィオが満足そうなので、シャルドルートは、それ以上はもう何も言わない。
サヴァンが森に還ってから、誰かの熱を、匂いを、こんなにも近くで感じたのは初めてだった。
フィオの腕の中は熱くて、湿っぽく、
この森の——苔の匂いがした。




