観測者の選択
燃え上がった日記は、音もなく黒く焦げていく。
だが、炎は熱くない。
まるで“記録”だけを焼いているかのように、文字がひとつずつ消えていく。
『やめろ』
初めて、影の声が揺らいだ。
結は日記を握りしめたまま、叫ぶ。
「私は、読まない!」
ページに浮かびかけていた未来の文字が、形を成す前に崩れていく。
『観測をやめれば、可能性は拡散する』
影の輪郭が揺らぐ。
『だが、救えない』
壁の名前――花山の光が、今にも消えそうに明滅する。
結の胸が締めつけられる。
読めば、助けられるかもしれない。
だが読めば、未来は固定される。
「未来は、決められるものじゃない」
結は一歩踏み出す。
「変わるものだよ。自分で」
影が後退する。
『愚かだ』
「それでもいい!」
結は燃える日記を、床へ叩きつけた。
炎が一気に広がる。
壁の名前が、次々と揺れ始める。
『観測が消える……』
影の身体に亀裂が走る。
『私は、消失の集合体』
『忘却の記録』
『誰も見なければ、存在できない』
結は叫ぶ。
「じゃあ、もう誰も見ない!」
最後のページが灰になる。
その瞬間、巨大な振動が空間を走った。
壁の名前が、一斉に光を取り戻す。
花山の名前も、はっきりと輝いた。
影が崩れる。
黒い粒子となって宙に舞い、静かに溶けていく。
消える直前、影は小さく呟いた。
『観測者は……また現れる』
そして、完全に消えた。
次の瞬間。
結は図書館の床に倒れていた。
朝の光が窓から差し込んでいる。
夢……?
手元を見る。
日記はない。
階段もない。
ただ、いつもの静かな図書館。
結は立ち上がり、急いで学校へ向かった。
教室の扉を開ける。
ざわめき。
笑い声。
そして――
「結、おはよう」
花山が、そこにいた。
普通に。
何もなかったかのように。
結は言葉を失う。
「昨日さ、屋上で転んでさ。めちゃくちゃ恥ずかしかったんだけど」
花山は笑う。
その笑い方を、結ははっきり覚えている。
消えていない。
忘れられていない。
未来は、固定されなかった。
結は静かに息を吐いた。
そのとき。
ふと、教室の後ろの掲示板に目が止まる。
新しく貼られた紙。
そこにはこう書かれていた。
――旧館図書室、近日整理予定。
結の背筋に冷たいものが走る。
放課後。
恐る恐る図書館の奥へ向かう。
当然、階段はない。
……はずだった。
本棚の影が、わずかに揺れる。
床に、小さな焦げ跡が残っている。
そして。
誰もいない空間に、かすかなページをめくる音が響いた。
パタン。
結は、ゆっくり振り向く。
本棚の隙間に、見慣れない一冊が差し込まれている。
表紙には、何も書かれていない。
だが、うっすらと金色の文字が浮かび上がる。
――観測記録。
結は、手を伸ばしかけて。
止めた。
深く、息を吸う。
そして――
何も触れずに、その場を離れた。
背後で、微かに誰かが笑った気がした。
夜の図書館は、今日も静かに待っている。
観測者を。




