影の正体
落ちる、と思った瞬間。
結の体は硬い床に叩きつけられた。
痛みはない。
代わりに、凍るような静寂があった。
目を開けると、そこは図書館ではなかった。
巨大な円形の空間。天井は見えない。壁一面に無数の“名前”が刻まれている。彫られた文字は淡く光り、時折、ひとつずつ消えていく。
結は息を呑んだ。
その中に、花山の名前があった。
光が弱く、今にも消えそうに揺れている。
「ここが……影の部屋……?」
足音が響いた。
振り返ると、闇が人の形を取って立っている。
顔はない。輪郭だけが曖昧に揺らいでいる。
だが、不思議と“視線”を感じる。
『ようこそ』
声は、頭の中に直接響いた。
結は震えながらも叫ぶ。
「あなたは何? どうしてみんなを消すの?」
闇はゆっくりと近づいた。
『消してはいない。保存している』
「保存……?」
壁の名前が、一斉に強く光る。
『忘れられた者たちを』
結の心臓が大きく鳴る。
『人は忘れる。簡単に。事故も、過去も、存在も。忘れられた瞬間、世界から零れ落ちる』
壁の光が、ひとつ消えた。
名前が完全に消失する。
『私は回収する』
結ははっとする。
「花山は……忘れられたの?」
『違う』
闇がわずかに揺らぐ。
『“忘れられる未来”を持つ者だ』
結の手の中の日記が、ひとりでに開く。
そこに、新たな文章が浮かび上がる。
――影は未来の“欠落”を喰らう。
――消える可能性の高い者から。
結は理解する。
事故、孤立、誰にも気づかれない変化。
花山は小さな違和感の中で、少しずつクラスから浮いていた。
この影は――
「未来の“孤独”を奪っているの?」
闇が、初めて動きを止めた。
『正確だ』
「じゃあ、助けられるってことだよね? 未来が変われば!」
一歩踏み出す結。
闇が低く震える。
『未来は収束する』
壁の奥に、もうひとつの名前が浮かび上がる。
――結。
血の気が引く。
『君もまた、忘れられる未来を持つ』
頭が真っ白になる。
『日記は予言ではない』
影の声が重く落ちる。
『あれは、観測装置だ』
「観測……?」
『未来を読む者がいる限り、未来は固定される』
結の呼吸が乱れる。
日記を読んだのは、自分だ。
『君が読むたび、可能性は狭まり、消失は確定に近づく』
「そんな……じゃあ私が……」
花山を、消した?
闇がさらに近づく。
『選べ』
壁の光が強く揺れる。
『日記を閉じ、観測をやめるか』
『あるいは』
闇が巨大化する。
『最後まで読み、世界を確定させるか』
日記の最終ページが、ゆっくりと開き始める。
そこには、まだ白紙のはずの場所に、文字が浮かびつつあった。
――影の正体は。
文字が、結の目の前で完成する。
――君だ。
空間が凍りつく。
闇が、微かに笑った。
『私は、可能性の残骸』
『君たち人間が生む“見捨てられた未来”の集合体』
結の手が震える。
もし、自分が未来を固定しなければ。
もし、誰も観測しなければ。
影は存在できない。
だが、日記を閉じれば――
花山の名前は、完全に消える。
闇が最後の一歩を踏み出す。
『どうする、観測者』
結の指が、最終ページに触れた。
その瞬間、壁の名前が一斉に点滅する。
世界が、どちらかに傾こうとしている。
――読むか。
――閉じるか。
闇の中で、誰かの声がした。
「結、気づいて」
聞き覚えのある声。
それは、消えたはずの花山だった。
空間に亀裂が走る。
そして――
日記のページが、燃え上がった。




