第16話 名前を拒否する者
その夜、
クラウスは眠らなかった。
正確には――
眠れなかった。
◇
机の上には、紙が並んでいる。
線。
矢印。
円。
因果の流れを書いたものだ。
いつもなら、
ここまで書けば安心できる。
だが、今夜は違う。
「……囲われ始めてる」
クラウスは、小さく呟いた。
昼間の“再定義”。
あれは、分類じゃない。
柵だ。
分からないものを、
分からないままにしておく勇気を、
世界が失い始めている。
◇
特に危険なのは――
ガルドでも、
コムギでも、
フィーでもない。
トンヌラだ。
何もしていない。
定義もできない。
だからこそ、
一番先に囲われる。
◇
クラウスは、鞄から
木製の人形を取り出した。
今まで使わなかったもの。
人の形をしているが、
顔がない。
「……これ以上、
中心に触らせるわけにはいかない」
一本、糸を張る。
ほんの少し。
因果の外側に。
見えない壁。
◇
その瞬間。
――遠くで、
何かが軋んだ。
音ではない。
世界の手応えだ。
◇
同じ頃。
宿の別の部屋で、
ガルドが目を覚ました。
「……?」
理由は分からない。
だが、
前に立たなければならない気がした。
何もない廊下に、
一歩、出る。
◇
コムギも、
鍋を見つめていた。
「……明日の量、
足りない?」
計算は合っている。
それでも、
不安が消えない。
◇
フィーは、
自分の指を見ていた。
再生していないのに、
違和感がある。
「……これ、
直せないやつかも」
◇
ミラは、
ギターの弦を鳴らした。
音が、
いつもより遅れて返る。
「……ノリ、
引っかかってる」
◇
そして――
ぽめ。
毛玉は、
丸まったまま、
目を開けていた。
起きない。
動かない。
ただ、
見ている。
◇
クラウスは、
最後にもう一本、
糸を張った。
今度は、
“名前”に繋がる線を
避けるように。
「……拒否する」
それは宣言ではない。
選択だ。
◇
翌朝。
ギルドに、
一枚の通達が届いた。
《活動分析課より通知》
《再定義作業、一時保留》
理由は、
書かれていない。
書けなかったのだ。
◇
「……保留?」
ミラが紙を覗き込む。
「世界、
日和った?」
「違う」
俺は、そう言った。
「……怖くなったんだ」
誰が、とは言わない。
◇
その時。
ぽめが、
小さく欠伸をした。
それだけだ。
だが、
張り詰めていた空気が、
少しだけ、戻る。
◇
クラウスは、
何も言わない。
誰にも、
何も説明しない。
それでいい。
手品師の仕事は、
観客に気づかれないこと。
今回は、
世界そのものが観客だった。
◇
だが――
これで終わりではない。
囲えないと分かった存在を、
世界は次にどう扱うか。
それは、
敵として扱う
という選択だ。
ぽめは、
まだ何もしない。
だが、
終わりは、
確実に近づいていた。




