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『盤上の100M』――AI時代の将棋界に失われた「喧嘩」と「ハッタリ」を求めて

映画『ひゃくえむ。』を観終えたとき、私の脳裏に浮かんだのは陸上のトラックではなく、静寂に包まれた将棋の盤面だった。 たった10秒、100メートルという短い距離に人生のすべてを懸け、才能とコンプレックスをガソリンにして走り抜ける「狂気」。私が今の将棋界に決定的に欠けていると感じたのは、まさにこの、なりふり構わぬ「泥臭さ」である。


作中に、今の将棋界を射抜くような鋭い台詞があった。 「飛び抜けたトップランナーでいることは、最後尾にいるのと同じだ」 残酷な真理である。どれほど速いランナーも、競う相手がいなければ、それは「レース」ではなく単なる「独走タイムトライアル」に過ぎない。現在、将棋界には藤井聡太という歴史的な天才が君臨している。しかし、彼がAIの導き出す「正解」を描き出し、後続がそれをただ眺めるだけならば、そこに勝負の熱狂はない。天才を孤独にさせないためには、理論を無視してでも足を引っ張り、泥に引きずり込んで噛みつく「小宮」のような狂気的なライバルが必要なのだ。


かつて、将棋は「ポーカー」だった。 盤面は単なる計算の場ではなく、生身の人間同士が魂を削り合う「心理戦」のリングだったからだ。 昭和の棋士たちには、江戸時代から続く「下駄を履かせて戦う男気」があった。「俺とお前では格が違う」とハンデを背負い、それでもねじ伏せる。あるいは、理論上は悪手であっても、相手の目を見て自信満々に盤に叩きつけ、「この手が読めるか?」と問いかける。 そこには「ハッタリ(ブラフ)」が通じる余地があった。相手の心を折り、疑心暗鬼にさせ、ミスを誘う。その盤外戦術も含めたドロドロとした人間臭さこそが、将棋を「魔性のゲーム」に仕立て上げていたのだ。


しかし、現代の将棋はどうだろう。 それはもはや、誰がより正確に事前準備をしてきたかを競う「AI研究の発表会」になってはいないか。 画面には常に「評価値」という絶対的な正解が表示され、指し手は即座に採点される。「正しさ」が可視化された世界では、ハッタリも、怪しい手も、息をする場所がない。ミスをすれば潔く投了し、スマートに感想戦を行う。そこに「喧嘩」の匂いはなく、ただ清潔で、美しい「答え合わせ」があるだけだ。


だが、人生は違う。 我々の生きる現実に、AIの評価値など存在しない。間違った手でも堂々と振る舞えば正解になることもあれば、正論を吐いて孤立することもある。人生とは、正解を探す作業ではなく、不条理な状況を意志の力で突破する「心理戦」そのものだ。 だからこそ、我々はかつての大山康晴や、破滅的な真剣師たちの背中に魅せられた。彼らが指していたのは、将棋というゲームであると同時に、割り切れない「人生の縮図」だったからだ。


今、私が見たいのは、評価値という神の視点を否定するような、野蛮な勝負師だ。 「AI的にはマイナス300点? 知ったことか。俺が指したんだから、これが正解だ」 そう言い放ち、涼しい顔をして座る天才の対面に、下駄を履いてドカッとあぐらをかく男が現れることを願ってやまない。 整地されたトラックを綺麗に走るのではなく、荒野の泥道をがむしゃらに駆け抜ける。そんな『ひゃくえむ。』の熱量が盤上に戻ってきたとき、将棋は再び、我々の魂を揺さぶる「ドラマ」になるはずだ。

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