将棋における「賭け」の復権 ――あるいは、藤井聡太の二枚落ちを渇望する理由 「論理的な正解が見たいのなら、どうぶつしょうぎをやればいい」
「論理的な正解が見たいのなら、どうぶつしょうぎをやればいい」
このタイトルは、極論に聞こえるかもしれないが、これは現代将棋が直面している本質的な問いである。「どうぶつしょうぎ」は既に解析が完了し、後手必勝という「真理」が出ている。そこに迷いも、恐怖も、ドラマもない。あるのは冷徹な論理の積み重ねだけだ。
人間がなぜ、わざわざ広大な9×9の盤上で戦うのか。それは、そこが「論理の及ばない荒野」だからだ。先が見通せないからこそ、棋士は読みという名の「賭け」を行い、観客はその不条理なギャンブルに熱狂する。
しかし今、AIの進化と藤井聡太という稀代の天才の登場により、本将棋までもが「どうぶつしょうぎ」になろうとしている。序盤の数十手はAIによる事前研究の発表会と化し、中終盤はミスのない精密機械のような収束に向かう。そこに、かつて我々が愛した「泥臭い人間同士の殴り合い」はあるだろうか。
だからこそ、私はここに暴論とも言える提言を行いたい。 「タイトル戦におけるハンデ(駒落ち)の合法化」である。
具体的に言えば、藤井聡太竜王・名人のような突出した覇者には、防衛戦において「二枚落ち(飛車・角落ち)」、あるいはそれに準ずるハンデを義務付けるのだ。
「プロ同士で駒落ちは失礼だ」「競技としての公平性が損なわれる」という反論はあるだろう。だが、考えてみてほしい。現代の公平なルールの下で行われているのは、「誰が最もAIの論理に近いか」を競う答え合わせに過ぎないのではないか。
もし、藤井竜王・名人が飛車と角を奪われた状態で、トップ棋士と対峙したらどうなるか。 彼が頼りにしてきた「最善手」という論理の剣は、もはや役に立たない。ハンデ戦において、論理的に正しい手を選び続ければ、戦力差で確実に負けるからだ。
勝つために、彼はどうするか。 彼は、AIが決して評価しない「悪手」をあえて選ぶことになるだろう。局面を複雑にし、相手の疑心暗鬼を誘い、泥沼に引きずり込む。そこにあるのは、綺麗な論理ではない。「相手を迷わせる」という、人間特有の汚くも美しい心理戦である。
これこそが、将棋の原点ではなかったか。江戸時代、名人は実力差のある相手にハンデを与え、それでもなおねじ伏せることでその権威を示した。そこには「公平さ(Sport)」を超えた「見世物(Show)」としての凄みがあった。
我々(わたし)が見たいのは、予定調和な正解ではない。 神のような計算能力を持つ天才が、翼(飛車・角)をもがれ、地べたを這いずり回りながら、それでもなお人間に勝利しようとあがく姿だ。その時初めて、将棋は「論理のゲーム」という退屈な檻を破り、人間が愛してやまない「予測不能なギャンブル」へと回帰する。
藤井聡太に二枚落ちを。 それは彼へのペナルティではない。論理に支配された現代将棋を、再び人間の手に取り戻すための、最高の舞台設定なのである。




