傘を忘れた火曜日
「やっべ、傘忘れた」
僕、田中ケンタは今日も遅刻ギリギリで家を飛び出した。
時刻は午前7時52分。始業まであと8分。家から学校まで自転車で12分。つまり、どう考えても間に合わない。これが算数ってやつだ。僕は算数が得意なんだ。特に、遅刻の計算においては天才的だと思う。
「ケンタ!お弁当!」
母ちゃんの声が背中に突き刺さる。振り返ると、2階の窓から身を乗り出した母ちゃんが、僕の弁当を振り回していた。
「いらない!購買で買う!」
「お金ないでしょ!」
「ある!300円!」
「足りないでしょ!」
この不毛な会話をしている時間がもったいない。僕は手を振って、全力で自転車を漕ぎ出した。
空を見上げる余裕もなかった。だから、雨雲に気づかなかった。
天気予報?見るわけない。だって、どうせ当たんないし。
いや、正確に言うと「当てられない」んだけど。
日本において、天気予報は2種類ある。
普通の天気予報と、記憶予報だ。
普通の天気予報は、まあ、普通だ。「明日は晴れ」とか「台風が接近」とか、そういうやつ。これは昔からある。
問題は記憶予報だ。
正式名称は「降雨記憶予測情報」。略して記憶予報。
これが始まったのは、僕が小学3年生のときだった。あれは忘れもしない。ある日突然、雨に打たれた人たちが「知らない誰かの記憶が頭に流れ込んできた」って言い始めたんだ。
最初はみんな「集団ヒステリーだ」「新手の詐欺だ」って言ってた。でも、すぐに本当だってバレた。だって、雨に打たれた人たちが語る記憶が、実在する人物の過去と一致したから。
科学者たちは大騒ぎした。
「水分子が量子レベルで情報を保持している!」
「集合無意識が雨を通じて伝達されている!」
「これは人類史上最大の発見だ!」
でも、普通の人たちの反応は違った。
「マジかよ。傘持ってこ」
それだけだった。
人間って、意外と順応性が高い。
今では、傘を持つのは「濡れたくないから」じゃなくて「他人の記憶を受け取りたくないから」だ。天気予報では「明日午後、関東地方に昭和30年代の主婦の記憶エリアが接近」とか、普通に流れてる。
で、僕は今日、その傘を忘れた。
学校まであと5分ってところで、降ってきた。
「マジか」
最悪だ。
雨粒が顔に当たる。冷たい。
そして、次の瞬間。
ドクン
頭の中に、何かが流れ込んできた。
暗い。
すごく暗い。
土の匂いがする。湿った、重たい匂い。
誰かが泣いている。
「お母ちゃん...お母ちゃん...」
遠くで爆発音。地面が揺れる。
怖い。
すごく、怖い。
「うわっ!」
僕は自転車ごと転んだ。
膝を擦りむいた。痛い。でも、それより頭が痛い。
いや、痛いんじゃない。誰かの記憶で埋め尽くされてる。
防空壕。
戦争。
1945年。
おばあちゃん。いや、知らないおばあちゃん。当時10歳くらい?母親と離れ離れになって、防空壕で一人で震えてる。
爆弾が落ちる音。
泣き声。
「もうやめて...もうやめて...」
少女の声が、僕の頭の中で響く。
気がつくと、通行人のおじさんが僕を覗き込んでいた。
「大丈夫か?雨、浴びちゃったな」
「...はい」
「記憶、きつかった?」
「...戦争、でした」
おじさんは同情するように頷いた。
「そりゃ災難だったな。俺も昨日、特攻隊の記憶もらってさ。一日中気分悪かったよ」
笑ってる。このおじさん、笑ってる。
いや、笑うしかないんだろうな。だって、誰もがこれを経験してるんだから。
「学生さん?遅刻するぞ。ほら、立った立った」
おじさんに助けられて、僕は自転車を起こした。
膝から血が出てる。でも、それより頭の中の記憶がしつこい。
「ありがとうございます」
「ああ。気をつけてな。今日は記憶予報、戦時中エリアらしいから」
「...最悪じゃないですか」
「ハハハ!まあ、受験シーズンよりマシだろ!あれはマジで地獄だぞ!」
おじさんは手を振って、傘をさして去っていった。
僕は、ずぶ濡れのまま学校に向かった。
頭の中では、まだ少女が泣いていた。
遅刻した。
8分遅刻。
担任の佐々木先生(通称:ササキング)は、僕を見るなり溜息をついた。
「田中。何回目だ」
「...今月3回目です」
「ダメだろ」
「すみません」
「で、今日の言い訳は?」
僕は正直に言った。
「雨に打たれて、記憶が...」
ササキングは即座に顔を変えた。
「記憶か。何の記憶だ?」
「戦争...です」
教室が一瞬、静まり返った。
みんな、同情的な目で僕を見てる。
ササキングは優しく言った。
「そうか。じゃあ、今日は無理すんな。保健室行くか?」
「いえ、大丈夫です」
「本当に?戦争系はキツいぞ」
「大丈夫です。多分」
ササキングは頷いて、僕を席に座らせた。
窓際の一番後ろ。僕の指定席。
隣の席の親友・タカシが小声で聞いてきた。
「ケンタ、マジで大丈夫?」
「...うん」
「どんな記憶?」
「防空壕」
「うわ。大ハズレじゃん」
タカシは心底同情している顔をした。
「俺なんか昨日、バブル期のディスコだぜ?めっちゃ楽しかった」
「...最悪」
「だろ?ジュリアナ東京!って叫んでるサラリーマンの記憶。超ハイテンションで逆に疲れたけど」
タカシは笑ってる。
記憶の雨は、ガチャなんだ。
当たりもあれば、ハズレもある。
僕は今日、大ハズレを引いた。
1時間目、国語。
先生が夏目漱石について語っている。
でも僕の頭には、10歳の少女の記憶がこびりついている。
お母ちゃん、どこ...
爆弾が落ちる
怖い怖い怖い
「田中!」
「はいっ!」
僕は反射的に立ち上がった。
先生が呆れた顔で言う。
「お前、聞いてないだろ」
「聞いてます!漱石です!」
「何の話してた?」
「...漱石の...話...?」
教室が笑いに包まれた。
先生は溜息をついた。
「今日、記憶もらったんだって?」
「はい...」
「なら、しゃあないな。座れ。でも次は許さんぞ」
「すみません...」
僕は座った。
タカシが小声で言う。
「お前、マジでヤバいな」
「...うん」
「保健室行けよ」
「...うん」
でも行かなかった。
だって、保健室行っても記憶は消えないから。
2時間目、数学。
3時間目、英語。
4時間目、体育。
全部、上の空だった。
頭の中で少女が泣いてる。
お母ちゃん...
お母ちゃん...
もう帰りたいよ...
体育の時間、バスケットボールが顔面に直撃した。
「田中!ボーッとすんな!」
「すみません!」
鼻血が出た。
保健室に強制連行された。
保健室のベッドで、僕は天井を見つめていた。
養護教諭の山本先生が、僕の鼻に脱脂綿を詰めながら言った。
「田中くん、今日、記憶もらったんだって?」
「...はい」
「キツい?」
「...はい」
山本先生は優しく微笑んだ。
「私も昔、戦争の記憶もらったことある」
「...そうなんですか」
「うん。沖縄戦。すごく辛かった」
山本先生は窓の外を見た。
「でもね、その記憶のおかげで、戦争について真剣に考えるようになった」
「...はい」
「記憶の雨、嫌でしょ?」
「嫌です」
「だよね。でも、悪いことばかりじゃないよ」
山本先生はそう言って、僕の頭を撫でた。
「その記憶、大切にしてあげて」
「...はい」
僕は、何も言えなかった。
だって、早く忘れたいって思ってたから。
昼休み。
購買でパンを買って、屋上で食べた。
タカシが隣に座った。
「ケンタ、元気出せよ」
「...うん」
「記憶、まだ残ってる?」
「うん」
「いつ消えんの?」
「知らない。個人差があるらしい」
タカシは自分のメロンパンをかじりながら言った。
「俺の友達、1週間残ったやついるぞ」
「マジで?」
「マジ。江戸時代の農民の記憶。ずっと『田植えしなきゃ』って言ってた」
「...最悪じゃん」
「だろ?」
僕たちは笑った。
笑うしかない。
だって、これが日常なんだから。
放課後。
雨は上がっていた。
僕は、いつものバス停でバスを待っていた。
頭の中の記憶は、少しずつ薄れてきている。でも、まだ残ってる。
お母ちゃん...
会いたいよ...
バスが来た。
僕は乗り込んだ。
座席に座って、窓の外を見る。
そして。
固まった。
向かいの座席に、おばあちゃんが座っていた。
いや、知らないおばあちゃん。
でも、知ってる。
この顔。
この人。
防空壕で泣いていた少女。
80年後の姿。
おばあちゃんも、僕を見ていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「あら」
僕は、声が出なかった。
おばあちゃんは、穏やかに言った。
「あなた...私の防空壕、見たでしょ?」
「...え」
「今日の雨、戦時中エリアだったから。もしかしたらって思ってたの」
おばあちゃんは、僕の隣に座った。
「ごめんなさいね。辛い記憶、見せちゃって」
「い、いえ...」
「大丈夫だった?」
「...はい。大丈夫、です」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
でも、そう言うしかなかった。
おばあちゃんは、僕の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。見ててくれて」
「...え?」
「私の記憶、誰かに見ててもらえて...嬉しいの」
おばあちゃんは、窓の外を見た。
「あの日のこと、誰にも話せなかったから」
「...」
「でも、雨が運んでくれた」
おばあちゃんは微笑んだ。
「記憶の雨、不思議でしょ?」
「...はい」
「私も最初は嫌だったわ。でも、今は...ありがたいって思ってる」
「...どうしてですか?」
おばあちゃんは、僕の目を見た。
「だって、忘れられないから」
「...」
「戦争のこと。あの日のこと。お母ちゃんのこと」
おばあちゃんの目が、少し潤んだ。
「お母ちゃんには、結局会えなかったの」
「...そうなんですか」
「うん。爆撃で...亡くなったみたい」
僕は、何も言えなかった。
おばあちゃんは、また微笑んだ。
「でも、記憶の雨があるから。誰かが、あの日のこと、覚えててくれる」
「...はい」
「ありがとうね」
おばあちゃんは、次のバス停で降りた。
僕は、呆然と座っていた。
頭の中の記憶が、急に大切なものに思えた。
家に帰って、母ちゃんに報告した。
「今日、記憶もらった」
「あら。何の記憶?」
「戦争」
母ちゃんは、心配そうに僕を見た。
「大丈夫?」
「うん。で、その記憶の持ち主に会った」
「え?本当に?」
「バスで。おばあちゃん」
「まあ!偶然ね!」
「うん」
母ちゃんは、僕の頭を撫でた。
「辛かったでしょ?」
「...うん。でも」
「でも?」
「大事な記憶だって、思った」
母ちゃんは微笑んだ。
「そっか。よかったわね」
「うん」
その夜、僕は久しぶりに日記を書いた。
20××年10月16日(火)
今日、雨に打たれた。
防空壕の記憶。
10歳の女の子が泣いてた。
その人に会った。おばあちゃんになってた。
記憶の雨、嫌だと思ってたけど。
悪くないかも。
でも、明日は傘持ってこ。
流石に毎日は辛い。
次の日。
僕は傘を持って学校に行った。
朝から雨だった。
タカシが声をかけてきた。
「おー、ケンタ。今日は傘持ってきたんだ」
「当たり前だろ」
「で?昨日の記憶、消えた?」
「...まだ残ってる。でも、薄くなった」
「そっか。よかったな」
教室に入ると、ササキングが言った。
「田中、今日は遅刻すんなよ」
「はい」
「で、傘は?」
「持ってきました」
「よし。偉いぞ」
ササキングは笑った。
1時間目、国語。
僕は、ちゃんと授業を聞いた。
でも、頭の片隅には、まだ少女の声が残っていた。
お母ちゃん...
お母ちゃん...
それは、もう怖くなかった。
ただ、悲しかった。
昼休み。
屋上でタカシと弁当を食べていたら、雨が強くなった。
「うわ、やべえ」
僕たちは屋根のある場所に避難した。
雨が、窓ガラスを叩いている。
タカシが言った。
「なあ、ケンタ」
「ん?」
「記憶の雨って、いつから始まったんだっけ?」
「俺たちが小3のとき」
「そっか。もう7年か」
「うん」
「慣れたよな」
「慣れた」
タカシは空を見上げた。
「でもさ、最近ちょっと変じゃね?」
「変?」
「うん。俺の姉ちゃん、昨日変な記憶もらったって言ってた」
「変な記憶?」
「人間じゃない記憶」
「...は?」
タカシは真面目な顔で言った。
「動物、らしい。犬の記憶」
「...マジで?」
「マジ。しかも、それだけじゃない。友達の友達、植物の記憶もらったって」
「植物?」
「木。光合成の感覚がしたって」
僕は笑った。
「それ、絶対嘘だろ」
「俺もそう思った。でも...」
タカシは、窓の外を見た。
「最近、記憶予報も当たらなくなってるらしいぞ」
「...え?」
「ニュースで言ってた。予測不能な記憶が増えてるって」
僕は、急に不安になった。
「...何それ」
「知らん。でも、なんか...嫌な感じする」
タカシは、そう言って黙った。
雨は、まだ降り続けていた。
放課後。
僕は傘をさして、一人で帰っていた。
タカシの話が、頭から離れない。
人間じゃない記憶
予測不能
なんか嫌な感じ
そんなことを考えていたら。
急に、雨が強くなった。
「うわっ」
傘を持ってるのに、雨が激しすぎて濡れる。
そして。
ドクン
また、記憶が流れ込んできた。
でも、今度は違う。
昨日の記憶とは、まったく違う。
暗い。
すごく暗い。
でも、怖くない。
誰かが泣いている。
遠くで。
すごく遠くで。
小さな声。
「痛いよ...」
誰?
誰が泣いてるの?
「誰か...」
少年?
少年の声だ。
「痛いよ...痛いよ...」
どこが痛いの?
「...体...全部...」
僕には、その少年が見えない。
ただ、声だけが聞こえる。
そして。
その声が、ゆっくりと言った。
「...もうすぐ、みんなに会える...」
「うわっ!」
僕は、その場にしゃがみ込んだ。
息が荒い。
心臓がバクバクしてる。
何だ、今の。
何の記憶だ。
少年?
誰?
僕は、震える手でスマホを取り出した。
タカシにメッセージを送る。
「変な記憶もらった」
すぐに返信が来た。
「マジで?どんな?」
「少年が泣いてる記憶。でも見えない。声だけ」
「...ヤバくね?」
「ヤバい」
「病院行く?」
「わかんない」
僕は立ち上がった。
雨は、まだ降っている。
でも、もう記憶は流れ込んでこない。
僕は、急いで家に帰った。
その夜。
僕は、ベッドで天井を見つめていた。
頭の中に、少年の声が残っている。
痛いよ...
痛いよ...
もうすぐ、みんなに会える...
何の意味だ。
みんなに会える?
誰に?
僕は、スマホでニュースを検索した。
「記憶の雨 異常」
検索結果がずらっと出てきた。
「記憶予報、的中率が急低下」
「謎の記憶が全国で報告される」
「専門家も困惑 - 発信源不明の記憶とは」
僕は、記事を読み進めた。
「最近、予測不能な記憶が急増している。従来の記憶の雨は、過去に生きた人間の記憶が主だったが、ここ数週間で動物、植物、さらには無機物の記憶と思われる情報も報告されている」
「気象庁の記憶予報センターは『原因を調査中』としているが、明確な回答は得られていない」
「一部の研究者は『集合無意識のシステムに異常が発生している可能性がある』と指摘している」
僕は、スマホを置いた。
窓の外では、雨が降り続けていた。
そして、僕は思った。
あの少年は、誰だ?
次の朝。
僕は、いつもより早く起きた。
窓を開けると、雨は止んでいた。
空は、どんよりと曇っている。
母ちゃんが声をかけてきた。
「ケンタ、朝ごはんできてるわよ」
「うん」
僕は、制服に着替えて階段を降りた。
テレビでは、朝のニュースが流れている。
「今日の記憶予報です。本日は関東地方全域で予測不能エリアが広がる見込みです。外出の際は、十分ご注意ください」
予測不能エリア。
また増えてる。
僕は、トーストをかじりながら、テレビを見つめた。
そして、ふと思った。
あの少年の記憶、また降ってくるのかな。
その答えは、まだ誰も知らない。




