6.竜神様と心に響く声
「紅玉の主よ、おまえが所望した娘をつれてきたぞ。さあ受け取れ、さあ、さあ、すぐ嫁にしろ」
ナマズ翁の鼻が詰まったような声は、高揚して、プスープスーと荒く息が漏れる。
竜神様は私を上から覗き込んでまじまじと観察している。
「これが人界から来た人間の娘か……」
彼は両手を差し伸べてきて、私の脇に差し込むと、ひょいと透明な泥の塊から引っ張りあげてくれた。
まるで子猫を持つように軽々と私を高く掲げた。
私は干された洗濯物のようになって、全身から透明な粘液のような汁がぼとぼと落ちていく。
竜神様は片腕に私を載せると、なんと彼の服の袖で私のベトベトの顔をぬぐってくれた。
なんと畏れ多いこと……
この方は竜神様で、それで私は抱えられているばかりか、竜神様の金糸が刺繍された雅な服を汚してしまった……
何か申し上げねばと思うのに、喉は震えるばかり、手にも足にも力が入らない。
「よく来てくれた人間の娘。おまえを待っていた。」
嬉しそうに微笑んだ口に2本の牙がちらりと見えた。
「私は緑雨だ。おまえの名は何という?」
答えようとしたが、ほくっほくっと変な音と共に息がでるだけで言葉にならなかった。
頭上でまた光がはじけた。見上げると、くるりと回転してもう一人青年が空から降りてきた。
「緑雨様、あんなに爆速で飛んでいったら追いつけません」
「ああ、仁永来たか。見てくれ俺の花嫁殿がきてくれた」
黒髪に黒い瞳、そして全身黒衣の青年は、太い眉の端が燃えるように上を向き、彫の深い顔立ちで威圧感があった。少し怖くて無意識に竜神様にしがみついてしまった。
「これは……その……ずいぶんと…………細い娘ですね」
黒髪の青年はじろじろと私を観察すると低い声で言った。
「そうなのだ、骨と皮のように細っこい。ナマズよ、この娘はこんなにやせ細って、着物までぼろ着ではないか。人界からこちらに来るのはそれほどまでに難儀な道なのか。」
竜神様が聞くとナマズは長いひげで水面を打つと不機嫌な声をだした。
「その娘は初めからそんなだ。着物もそれで来たのよ……気に入らないなら、肥えさせて、着飾らせてやればよい」
「なんだと初めからこんな体だったのか?」
こんな体と聞こえて、ひどく申し訳ない気持ちになった。姫様の代理がこんな私では軽んじられてしまうだろうか?
「緑雨様、この娘は袋を下げていますよ」
黒服の男性が、私の足に付いている縄に気付き、袋を持ち上げようとした。
「ああ、それは重りよ。この娘はその砂袋と一緒に水の中に落ちてきた」
足首から縄が解かれ、袋から砂がドロドロでてくると、二人は苦い物を噛んだような顔で黙ってしまった。
私を抱きかかえている竜神様が、また顔を着物でぬぐってくれた。顔を近づけ目を覗き込んでくる。どうしていいのか分からずにできるだけ顔を後ろに引いた。
「人の娘よ。もしおまえが望まずにここに送られてきたならば……俺は……」
竜神様は一度言葉を切ると大きなため息をついた。
眉間にしわが寄り、苦し気に目を伏せた後、頭を1度だけ振る。そして決心したように真っすぐに瞳を合わせてきた。
「元の世界に帰りたいなら、今すぐもどしてやるぞ? どうしたい」
バチンバチンと激しく水を叩く音に体がすくんだ。ナマズの翁の長い髭が狂った様にうねって水面を叩く。
「人界に帰すだと!! 駄目じゃ駄目じゃ!! そんなことをしたら実が食えなくなるだろうが!! 紅玉の主よ、この娘を早く嫁にしろ、ワシは実が食べたい。いいなすぐ嫁にしろ」
「だが、俺は花嫁となる娘に無理強いはしないと誓っているのだ」
竜神様は私の瞳をじっと覗き込んで返事を待っている。蛇のような虹彩をもう怖いとは思わなかった。私はまだ帰る訳にはいかない、それをお伝えしなければ。そう思った時、竜神様の体の向こうに、遠くへ続く小路が見えた。あたりを見渡すと、周りは一面青い水が広がって、何処までも湖面が続いている。
自分が、四方見渡す限り果ての見えない、青い湖の中の小島にいることがわかった。
細い小路は上り坂で、先は丘になっており、そこには見たことも無い異国の宮殿が見えた。
望まぬならば元の世界に帰してくれると竜神様は言ってくれた。無理強いをしないこのお方なら、姫様に無体を働いたりしないだろう。
『竜の国には大きな湖と夢の様に美しい宮殿がある。そして竜神様は花嫁を大切に扱う』
何もかもが神辺家で聞いた言い伝え通りだとわかり、驚愕に固まっていた体が解け、ほっと気が抜けた。
「帰りたいか?」
竜神様にもう一度問われたとき、私は必死で首を左右に振った。
「ここに居てくれるか?」
私が大きく何度も頷くと、竜神様の不安げに見開かれた目が細められ、嬉しそうに微笑んだ。
この方を喜ばせることができた。そう思ったら嬉しくも苦しいような感情が泉のように湧いてきて胸をいっぱいにした。
『そう……それでいい……』
誰かに話しかけられた気がした、声は聞こえない……まるで意志が心に直接流れてくるような感覚だった。
あたりを見ても、そこには陽の光を反射してキラキラと輝く青い水面が続いているだけだった。けれど何故だろう? 私には湖が微笑んでいるような気がした。
「おまえの名を教えてくれ」
竜神様の優しい声に、私が必死で声を出そうとすると、喉に張り付いている塊が咳と一緒にようやく取れた。荒く息を継ぎながら、なんとか声を絞り出した。
「まさご……」
私が告げると、竜神様の瞳が発光した。
神秘の虹色の光に心が吸い込まれる。驚く間もなく私は竜神様の頭上に高く掲げられた。
「真砂か!『美しき砂』とは湖の主である俺の花嫁に、誠にぴったりの名ではないか!」
猫の子のようにひょいと高く掲げられたまま全身からボトボトと透明な液体がこぼれていく。それが竜神様のお顔や体にこぼれ落ちるのに、彼は気にもしないで歯を見せて大きく笑った。
「俺はここ紅玉湖の主、緑雨だ。よろしく俺の花嫁殿!」




