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5.ナマズの使者 

 重りの砂袋が体を暗い底に引きずり込んでいく。

 沈んでいく……湖の底に深く深く。


 何もかもが冷たい、真っ暗で何も見えない、私は救いを求めて手を伸ばす……

 ああせめて、一目でいいから父と母の顔を思い出したい。


 怖いの。

 死にたくないの。

 誰か、誰か助けて……

 死ぬのが怖かった、そしてそれよりもっと……淋しい、ただ……淋しい……

 誰も私を……


 意識が朦朧としてゴボッと息を吐いた時、柔らかいものに足が触れた。

まるで巨大なカエルを踏んだかのような感触、そのままヌメヌメとした塊の中にずぶりとめり込んだとき、苦しさに耐えきれず口を開いて息を吸いこんだ。

 生臭い空気、何故か水の中なのに呼吸ができた。


「なんとも貧相(ひんそう)なのが来たものだ」

 老人の声が耳元でした。鼻が詰まっているような、なんとも不快なべっとりとした声だった。


 暗い水の中、目の前にゆらゆらと黒服の男が揺れている。顔は(しわ)で覆われた恐ろしい程に年老いた男性だ。 

 痩せた翁は枯れ枝のような手に光の玉の提灯(ちょうちん)を下げ、あたりは驚くほど明るい。

 翁の真っ黒い目には白目がなく、さらに鼻の横から2本伸びている髭は人間のものではない。ナマズのようなぬるりとしたヒゲが長く長くどこまでも伸びていて先はどこなのか分からなかった。


 人間とは思われない姿に畏れを抱き、ひいぃと声をあげて縮みあがった。

 私は死んだのか? 夢を見ているのか?

 しばらく恐怖に縛られて、体を硬直させていたが、目の前の不思議な翁は黙って私を見ている。

 ようやく辺りを見渡すと、体を包み込むぶよぶよとした塊の中には空気が満ちている。自分が翁と2人で大きな泡玉の中にいることが分った。なんと本当に竜国からの使者はいたのだ。


「まあ、娘であれば誰でもよい……」

 翁は独り言のように呟くと、光玉(ひかりだま)の提灯をかざして歩いていく。付いていくのは怖かったが1人で置いていかれるのはもっと怖い。急いで彼の背を追い、長く続く階段をまた降りはじめた。崖を削った階段は湖の奥底へ向かって伸びていく。一段一段と降りていくと遂に湖底に辿り着いた。


 大木のような石の柱が見えた。ナマズの翁が提灯を掲げると、あたりが眩しく照らされた。大きな石柱が2本、見上げると大きな船が通れるような巨大な鳥居だった。

「ここをくぐる」

 ナマズの翁が初めて目を合わせて話しかけてきた。

『湖が光るとき、花嫁をくぐらせよ』

 昨日神辺家で聞いた契約の言葉が思い出された。私は行くのだ竜の国へ。


 水中を歩き鳥居をくぐった刹那、(まぶ)しい光が見上げる湖面に見えた。

 しばらく湖底を歩いていくと、水天上の光はいよいよ眩しくなり、水かさが減っていき遂には陸地に上がった。

 ぐいと体に力を込めると粘りのある膜が割れた。とたんに体を取り囲んでいたヌメヌメとした塊が、ドボドボ体に降って来て、透明な泥の中に体が埋まってしまった。ドロドロした塊のなかでじたばたしていうると、なんとか鼻と口が外にでて、息を吸うことができた。けれど仰向けに倒れたまま起き上がることはできなかった。


 見上げると青い空に陽が照っている。

 どうして? さっきまで夜だったのに。

 ここが竜の国?


 バシャン、バシャンと水面を叩きつける大きな音と水飛沫が舞う。ナマズ翁が長い髭をくねらせ水面を叩いている。翁の持っていた光の玉が空に向かって飛んでいき、遥か高くでパンと弾けた。

「おおい、おおい、紅玉(こうぎょく)(あるじ)よ! おまえの花嫁を連れて来てやったぞ!」

 翁の大声が響き渡った。


 蒼天の空に何かが(きらめ)いた。倒れたまま見上げていると、光るものはぐんぐんと大きくなり、銀色に発光しながら帯のように風になびいている。


 竜だ、竜が飛んでいる。

 なんて大きいのだろう。


 胸が潰れるような、恐怖と憧憬が混ざり合った言葉にならない感情が沸き上がった。近づいてくると初めに大きいと思ったさらに10倍も大きくなった。

 視界の全てが竜の体になり、このまま食われるのかと思うほどに顔が近づいたとき、銀の光の粒が眩く霧散したかと思うと、中心に青年が現れて、くるりと宙を回転すると、ふわりと降りて着地した。


 竜だったはずのものが、男性の姿となり、倒れている私を上から覗き込んできた。

 光彩は蛇のように縦長で人の形ではなかった。


 興味津々で私を見つめる緑金の瞳は炎のように揺らめき虹色が混ざる。

 額の中心に大きな緑の石が1つ、目じりから頬にかけて彼の瞳の緑色を映すように、濃淡様々な緑色の薄い宝石が顔を飾っている。


 後ろ髪は短く、前髪は長く額を隠してうねっており、絹のように細いのに、その1本ずつに水が流れているかのように透き通った銀色をしていた。

 何もかもが整ったあまりの流麗さに魅入られて目が逸らせない。大きな目を縁どる長い睫毛は瞬きすると、先端から光の粒が舞う。


 ああ、この方は人ではない……竜神様だ。


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