4.湖の光
真夜中の竜神の湖に霧のような雨が降る。空は雲に覆われて星も月も見えない……
湖水は黒くうごめいて、まるで1つの生き物のような不気味な気配がしていた。
神辺元網に竜の国に行くことを命じられ、不安に眠れぬ夜が明け出発の日となった。しかし私は1日薬草倉庫に1人で捨ておかれた。姫様の代理の使者として赴くのだ、もっと身綺麗にしてもらえると思ったのに何の準備もなかった。
夜更けになってようやく昨日の神官が現れた。怖い顔をした役人と厳つい武者が何人も後ろに控えており、まるで私が逃げ出すのを恐れるように、彼らはぐるりと私を取り囲んだ。いくら辺りを見渡しても当主様と姫様の姿は無かった。
神官の男は面倒だと顔をしかめ、付いて来なさいとボソリと言う。
竜神様に会うというのに、こんなぼろぼろの着物で薄汚いまま行ってよいものか、迷いながらついて行くと、山頂の竜神様を祀る小さな祠に連れて行かれた。
祠の後ろに崖に向かって小路がある、進んでいくとすぐに断崖絶壁、そして崖には岩を削った階段が下にどこまでも続いていた……
崖に階段があることは里に生まれた者なら皆知っているが、禁足地として近づくことを許された里人は今まで誰もいない。
「この先に竜国の使者が来ている。進みなさい」
闇の中の崖は昼間の比にならぬほどに恐怖を掻き立てる。吸い込まれていきそうな漆黒の世界。
崖を削った階段は人が一人進める幅しかない、右手を崖壁に沿わせながら、足を降ろす。がくがくと震えて体に力が入らず壁にしがみついて息を吐いた。
この暗闇の先に人が待っているというのか?
私を先頭にして、後ろに神官、そして役人と武者たちが続く。皆無言であるが、武者の鎧がこすれる音、そして荒い息遣いが聞こえてくる。屈強な男たちでさえ、この断崖の細い階段は恐ろしいのだ。けれど進むしかない。私が嫌だと泣いても後ろに続く男たちが帰してくれるとは思えなかった。松明の灯りに照らされながら1段、また1段と崖を下っていった。
いったい誰がどうやってこの断崖に階段を造ったのだろう?
いくら降りても階段は終わらず、遥か下の水面まで続いているようだった。初めは落ちることが恐ろしかったが、暗闇に向かって降りていくほどに、これから連れていかれる場所への恐怖が勝ってきた。
『使者は湖を通って、花嫁を竜の国へと連れて行く……』
昨日そう言っていた。どうやって湖を通るというのだろう?
チカリ
何か光った!
チカッ、チカッ
鋭い光が目を刺す。遥か下の方で稲光のような鋭い光が繰り返し発光している。
誰かがいる! 竜国の使者が下にいるのだ。
腹の中がぐうっと口まで登ってきて吐いてしまいそうになった。手足が痺れて、自分のものではないようだ……後ろから急き立てる男たちが怖いのか、得体のしれない光の待つ先が怖いのか、考えることもままならなくなり人形のように階段を降り続けた。
チカッ
繰り返し光るものはまだずっと下にあり遠い。ヒヤリと降ろした足に水が触れた。
「え?」
着いてしまった一番下に……足首が水につかった。
松明に照らされる水中には、階段がまだ湖の底に向かって続いているのが見えた。
湖面が風に吹かれ、波寄せて着物の裾を濡らした。
水面まで来たのに誰もいない。
チカ、チカと何かが水中の奥深くで光る。
…………音もしない、人の気配も無い。
「あ……の……使者は?………どち……ら?」
私は振り返り、震える声で尋ねた。
松明の下で不気味に影を深くする男たちの顔に身がすくむ。
誰も何も言わない。
役人が大きな麻袋を私の足元に置いた。訳が分か名ぬまま棒立ちになっていると、男は縄で私の片足首を結んだ、その先には袋が結ばれて……
しゃがんで袋に触ると、そこには砂が詰められている。
これは重りだ。
水の中に沈ませるための……
はっと神官の顔を見上げた。
「あそこへ行くのだ」
男が指さしたのはチカチカ光る水の中。
「使者というのはあの光のことだ。神辺家に古くより伝わる竜との契約『湖が光る時、花嫁をくぐらせよ』あの光に向かって行くのだ」
「そ……んな……こと……」
続く言葉をのみ込んだ。そんなことをしたら溺れて死ぬ。
「不気味よのう……こうして光が現れなければ、竜など誰も信じなかった。だが言い伝え通りに光っているのだ、何もしないという訳にもいくまい」
神官の独り言のような投げやりな物言いに、何か言わなければと息を吸う。けれどカラカラに喉は乾き、鼓動は爆ぜるように早打つ、歯の根が合わぬほどに震えが止まらない。
姫様の代わりに竜の国に行くのだと信じた。
だが、これは違う。竜の国ではない、湖の底に沈められる……
私は……殺されるのだ。
あ、あ、と言葉にならない声が出た時、男たちから異様な気配が立ち上った。死を悟った私を、けして逃がしはしないと鬼のような顔で睨みつけてくる。
私は生贄なのだ……
どうして私が殺されなばならないのか……
『真砂、待っています』
姫様の真っすぐな瞳を思い出した。
姫様は信じていた。私が竜の国に行くことを疑ってなどいなかった。だから今もきっと私が帰って来るのを待っているのだ。
「わた……しが……行かなければ…………姫様が?」
「そうだ、それが神辺の姫の務め。数百年の間、くり返し行われてきた儀式だ」
こんな冷たい水の中に、姫様をけして入れたりしない。
私は立ちあがり、振り返ると男たちに微笑んでみせた。
彼らは目を見開き、全員が目を逸らした。皆私を見たく無いのだ。ここにいる全員が私に死んでほしいと願っている。きっと里人たちも生贄を誰にするかと問われれば全員私を指さすだろう。
それでも、姫様は私を見て名を呼んでくれた。
あの方だけが、私が生きて帰ると信じて待っている。
「お願いが……あります。……真砂は……竜の国へ行ったと……姫様に伝えてください」
息を大きく吸い込み、目を閉じた。
ああでも……恐ろしい……
『おいで……』
それは声では無く、脳裏に浮かぶ不思議な残影……湖が大きく手を広げて私を待っている気がした。
覚悟を決めて目を開く。息を止め岩を思い切り蹴る。光に向かって飛び込んだ。




