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44.竜神の花嫁

 神辺の里で催された大きな祭りに、大勢の人々が集まって、雨の恵みを感謝して歌い踊った。その噂が国中に広がって、各地でも祭りがあり、竜神を祀る祠も社も次々に建てられていると知らせが届く。


 国主がそんな民達を罰することは無く、そして神辺の地にも兵士が送られることは2度と無かった。父が願った大社の建設が始まって、毎日は忙しい。緑雨様を想うと、胸が千切れるように寂しいけれど、忙しさに身を置くことで1日ずつ生きることができた。


 竜神湖の水かさは、日に日に増していく。夜が明けて山頂の祠にいなり寿司を供えにいく度に、今日はどれほど水が増えたかしらと竜神湖を眺めるのが嬉しい。

 ある日崖の際に立って見下ろすと、昨日まで見えていた大鳥居の頂点が、とうとう水に沈んで見なくなった。


 秋も終わりの頃、いつものように山頂の祠に向かうと、岩の影に猫じゃらしの穂が揺れていた。何気なく1本摘んでフルフル揺らしていると、ふと名を呼ばれた気がして振り返った。


 静かな山頂に秋風が吹き抜ける。手に持つ猫じゃらしと一緒に草が揺れる。


「真砂」


 確かに聞こえた。

 これは空気を震わせて耳に届く声ではなかった。心に直接響いて来る……この声……


「緑雨様!」

 手から猫じゃらしが滑り落ちる、気づいたら駆けていた。すぐに岸壁に辿り着き立ち止まる。眼下に広がる深く青い湖が、まるで瞳のようにこちらを見て微笑んでいるよう。


「真砂、真砂」


 胸に声が広がって、苦しいほどに愛おしさが心臓を掴んで締め上げる。

 誰も呼んでいない、何処にも声は聞こえない、けれど胸に響いてくる。寂しさのあまり、私はついに正気を失ってしまったのだろうか。ああでも、聞こえる、緑雨様の声が……


 たまらず、私は崖の階段を降り始めた。風に吹き上げられながら1段、1段と歩を進める。

 長い時間をかけて水際の一番下まで降りた。陽の光を反射してキラキラときらめく水面の中に、紅色がチカリと光った。


「紅玉の……実?」

「まさごー」


 はっきりと緑雨様の声がして、私の胸を射抜いた。水底から紅い光が眩く放たれる。


「緑雨さまー」


 声の限りに叫んで、私は紅い光に向かって身を投げた。


 世界が冷たい水に包まれる。青い青い水は奥に向かって群青となり闇のように黒くなっていく、懸命に手を掻き足を動かし潜り続けた。


 見える、紅い光が……あああれは……なんて可愛らしい。

 小さな赤い実が稲穂のように実を垂れて、水底に揺れているのが見えた。


 苦しさに口からゴボリと息を吐いた。

 もう少し、もう少しで手が届く……


 ゴボゴボと最後の息が口から出て行って、これ以上はもう苦しさに進めないと悟った。意識がぼんやりしていく、けれどもう一度「真砂」と声がした。目を開けると私は大きな竜の渦巻きの中にいた。

 銀の光が辺りを覆い、私は安心して目を閉じた。


 逞しい腕が私を抱きしめる、知っているこの優しい腕も声も、温もりも……

 耐えきれず息を吸いこんだ、水が入ってきて死ぬ……そう諦めた瞬間、唇が柔らかく塞がれて息が吹き込まれて何の苦しさも感じなくなった。目を閉じたまま、深い口付けを受けながら愛しい人の体にしがみついた。


 どれくらいの時がたったのか、目を開けた。透明な水の中で銀の髪が揺れている。緑の瞳が私だけを見つめて、この上なく幸せそうに微笑むと「真砂」と呼んだ。


 水の中であるのに、もう苦しくない。私はあまりの嬉しさに名を呼びたいのに声がでなかった。緑雨様は私を抱いてゆっくりと水底に降りると、竜神湖の底に、一株だけ生えた紅玉の実を一房摘んだ。小さな紅い実を指で摘まみとると、口に入れた。竜の目が切なく虹色に光ると、彼は唇の先で、私の唇とツンとつついた。


 思わず微笑んで口を開けると、彼の舌が入ってきて初めての味が口の中に広がった。

「酸っぱい……けど……」

 私の言葉に緑雨様が優しく続けた。

「甘い……な」

 二人で笑い合い強く抱きしめあった。


「ああやっと会えた……」

 緑雨様の腕は震えていて、声は泣いているようだった。

「真砂を俺の花嫁にできた。もう離さない」

 緑雨様の大きな手が私の頬を優しく撫でて、ずっと見つめたいと焦がれていた緑の瞳が私をうっとりと見ている。


 私も手を伸ばしてその頬に触れようとして、あれ?と不思議に思った。

「緑雨様、なんだか急に大人になった」


 目の前の人は緑雨様で間違いないのに、2年前に別れた時は10代の後半ほどに見えた姿が、今はどう見ても20代中頃の大人の男性になっていた。かつて緑雨様の笑顔にあった幼さはもうどこにもない。

 少し頬がこけ、目元は鋭く憂いを帯びて彼が長い苦悩の中にあったことを教えていた。


「それはそうだ、50年も過ぎたのだから」

 彼が苦しさを思い出したかのように顔を歪ませて、私の頭を胸に強く押し付けた。


「真砂が去ったあの日から、毎日毎日真砂が帰って来るのを待っていた。けれど何も無いままに日々は過ぎて……苦しかった。俺は雨を降らせることしかできなくて……時が過ぎていって、真砂にとっての時間は、竜の俺よりずっと早く過ぎる。おまえが老いていき、いずれは死んでしまうのだと思うたびに、俺は……俺は……」


 彼に強く抱きしめられながら、私は驚きに声をあげた。

「私が人界にもどってから、あちらで50年が経ったのですか?」


 緑雨様が「そうだと」答えながら私の顔を両手で包んでまじまじと見つめてきた。

「どうして真砂は姿が変わらないのだ。少し大人になったが……とても60歳を過ぎた人間には見えない」


 私がナマズ翁に連れられてここに戻った時にはすでに50年が過ぎていたことを告げると、緑雨様は目をぱちぱちさせて、驚きにしばらく何も言わなかった。

「私にとっては2年間の月日が過ぎたのです。その間少しずつ竜神湖の水が戻って、雨も降るようになりました。緑雨様のお陰です。あなたが雨を降らせ続けてくれたから、人界は干上がらずに済んだのですよ!」


 緑雨様は目を閉じ苦し気に50年の月日を思い返しているかのように眉根を寄せた。

「50年は長かった」

「私も……この2年間は永遠のように長かった。緑雨様ごめんなさい、私は愚かでした」

「俺も……己の力で何でも成し遂げられると奢っていたのだ。愚かだったのは俺のほうだ」

 切なく見つめ合って、私達は少しだけ大人になったのだと思った。


「俺はただ、無力に雨を降らせることしかできなかった…… どうして紅玉湖は水をとりもどすことができたのか分からない」

 彼は答えのないままに、それでも諦めずに雨を降らせ続けてくれた。どれほどの虚しさがあっただろう。ずっとあなたに抱きしめられたいと願っていた。けれど今は傷つき疲れ果てたあなたを私が抱きしめてあげたいと強く思った。


「緑雨様、ここに戻って知ったのですが、私が神辺家の姫でした。私の父は神辺家当主でしたが、叔父に謀られて死んだのです」

 彼の瞳が大きくなり真ん中の瞳孔が縦長にぎゅっと引き絞られて、怒りを露わにした。

「では真砂は初めから『カンナベの姫』で俺の正しい花嫁だったということか?」

 私は水の中でゆっくりと首を左右に振った。


「花嫁は誰でもよかったのですよ。神辺家の娘である必要はないのです。この2年間、竜神の巫女として生きて分かったのです。大切なのは人間達の想いなのです」

「想い?」


 水中にふわふわと漂いながら、緑雨様の両手を握る。水の天上は網目のように模様をつくり、陽の光を映して黄金に輝いている。紅玉湖と魂を共にする竜神湖が微笑んで頷くのを感じた。


「この恵みの水を与えてくれる湖と、そしてここを守ってくださる竜神様に「ありがとう」と感謝する想いです。この人間の感謝の念こそが紅玉湖の力の源なのだと私は知りました。だから、私は1日、1日をあなたに感謝して生きたんです。周りの人も私の言葉を聞いてくれました。緑雨様、わたしね……」

 言葉を繋げようとして、込み上げる喜びに胸がいっぱいになった。緑雨さまが「ん?」と首をかしげる。ああ、この声と仕草が大好き、私の言葉を待ってくれるあなたのこの優しい顔が。


「今はもう独りぼっちではないの。私の言葉を聞いてくれる人がたくさん、たくさん、国中にいるの。童達は雨降りの歌が大好きよ。若者も、お年寄りも、男の人も女の人も……竜神様への感謝の心を取り戻しました。私はみんなに伝えたんです。この雨はあなたが降らしてくれているのだと、どんなに苦しくても、悲しくても、人間のために緑雨様が毎晩降らせてくれる尊い雨なのだと」


 緑雨様は耐えるように、息を止める。でも押し込めようとしても、どうにもならない苦しさが溢れ出るように、唇を震わせて必死に泣くのを堪えているように見えた。

「苦しかった、苦しくてもう消えて無くなってしまいたかった……それでも、真砂が教えてくれたから、何も無い日が続いてもいつか、いつか…… ああでも果てしなく遠くて、何も変わらなくて…… 俺は何も……できなくて……」


 彼の手が私の頬を包み優しく撫でる。苦しみの年月が彼の全身から溢れでてくるように、唇の形だけで「真砂」と呼んだ。


「あなたの雨が私達を救ってくれたんです」

「真砂が俺を信じてくれた。この地で、たった1人で、もう会えない悲しみの中で、それでも俺の側にいてくれたのだと、今分かった」


 私が大きく手を広げると、緑雨様が子供が泣き出す前のようにくしゃりと顔を歪ませると、私の胸に飛び込むようにしがみついた。彼の頭をかき抱いて、もう絶対に離れない、そう強く願って頬を押し付けた。

水の中で銀の髪は水色に光って揺れる。胸の中で真砂、真砂と泣きながら呼び続ける彼をなだめるように、頭を優しく撫でてあげた。


 長い事、甘えるようにしがみつく彼を抱きしめていた。お互いの安堵の息が虹色の玉になり、輝きながら水天上に登っていく。

それから手を繋いで竜神湖の中を歩いた。1株だけ生えた紅玉の実を摘んでもう一度お互いの口に入れ合って食べ、口付けを繰り返し、強く抱きしめ合ってこれは夢では無いのだと確かめた。


「紅玉湖の紅玉の実は枯れてしまったのですか?」

 私が尋ねると緑雨様は、50年かけてあの広い湖の湖面一面に広がって実っていると答えたので驚いた。紅玉湖は正に紅色の湖になっているという。

「俺が真砂に会えない現実にくじけて自暴自棄になりそうになると、紅玉の実が紅くなるのは、紅玉の主が花嫁を得ている証だから、真砂様は必ず生きていると仁永がいつも励ましてくれた。だから50年生きられた」


 青く澄んだ水に、天から黄金の光が差し込んで、白い砂が柔らかく続いている。

 二人で砂を踏んで歩いていくと石の大鳥居の前まで来た。


「ここを通ってきたのですか?」

「ああ、最後の2年で、紅玉湖の水かさが急激に増して、大鳥居が水の中に全て沈んだ。だから俺は竜の姿であちらの大鳥居を潜り、人界に来ることができた。なあ真砂、これからどうしたい? おまえがこちらに留まりたいならば、俺はあちらに戻らず一緒にいる」


「でも、緑雨様には紅玉の主としてのお役目が」

 緑雨さまは穏やかな目でゆっくりと首を振った。


「紅玉の主になるには、俺はあまりに若く未熟だった。自分でも分かっていたが、陰で母を期待外れとそしる者達に我慢ができなかった。優しい母を否定されている気がしたんだ。でも湖に必要だったのは、人界に暮らす人々の想いたっだのだな……異国で火の巫女だった母には初めから手の届かぬことだったのだ。俺は自分の力でなんでも成し遂げられると気ばかり大きくなって…… 己の愚かさ故におまえを失った。でもこうしてまた奇跡のように再会できた、今度は間違えたくないんだ。己の未熟さを今は知っている、あるがままの俺で真砂の側にいたい。もう紅玉の主の位は父上に返上してもいいのだ。もともと俺なんかができることではなかったのだ」


「そんな……俺なんかなんて言わないで。緑雨さまは誰よりも努力されてきたでしょう? あなたは紅玉の主に相応しいお方だと心から信じています」

 私が思いを込めて見つめると、緑雨様がふっと思い出したように笑った。


「そういえば、真砂も私なんかが……とよく言っていたな。いつも思っていた、そんな風に自分を卑下しないでほしい、真砂は誰よりも頑張っているのだからと……そうだな、俺なんかがとはもう言わない。今はただ、真砂と一緒にいたいのだ。それが人界でも紅玉湖でも、おまえさえいれば俺はどこでもかまわない。だから真砂が選んだ場所にいる」

 私は手を繋いだまま緑雨さまを見上げて微笑んだ。


 緑雨様は私の気持ちを変わらず大切にしてくださる。あの別れの日も緑雨様が私の気持ちを大切にして手を放してくれた。長い別離は苦しかったけれど、私はあなたから去ったからこそ自分で立つことができるようになった。助けてもらうことだけを願って、守ってもらうだけの私では無く、あなたの隣に立ち一緒に歩いて行きたい。


「私は緑雨様と一緒に紅玉湖に戻りたいです。紅玉の主の妻として隣であなたをお支えしたい。こちらには私の意思を継いでくれる人々がたくさんいますから、私が居なくても、きっと竜神様への感謝を忘れずにいてくれると信じています」

「そうか、ありがとう真砂。紅玉の主として生きれば、時には大きな苦難があるかもしれない。でも真砂が一緒にいてくれるなら乗り越えられる。ああ、嬉しいな。向こうで待っている者達も大喜びするぞ」

 緑雨様が大きな口を開け牙を見せて笑った。少年みたいな可愛らしさは、大人になってもやっぱり変わらずあったので、ふふふと笑ってしまった。


「向こうに帰る前に、1つしたいことがあるのです」

「なんだ、何でも言ってくれ」

「この里の者達に、毎日のように緑雨様のことをお話してきましたから、ぜひ皆さんに緑雨様を紹介したいです。竜のお姿で里の空を飛んでくれませんか?」


「俺も真砂の世界を目に焼き付けよう。湖を救ってくれた人々の想いに応えられるように、できるだけカッコいい姿で飛ぶからな、任せてくれ」

 思わず吹き出して、小さな泡粒が口からこぼれて水面にキラキラと登っていった。

「緑雨様はどんなときも素敵ですよ、そのままでいいです!」


 くすくす笑いが止められずにいると、そうかな、と緑雨様は困った顔をしたが、やがて一緒にふふふと笑った。

 何も無い1日が、優しく愛しい日々にこれからなるのだと、乾いた砂に水がゆっくり沁み込むように幸せが心に広がる。


「紅玉湖が喜んでいる気がする」

 私が今正に思ったことを緑雨様が言葉にした。

 私は大きく頷いた。


『ありがとう竜神湖、私をずっと見守り幸せに導いてくれて』

 伝えきれない感謝の気持ちが心に溢れた。


「では竜神湖の竜に相応しく、雄々しく飛んでみせよう!」

二本の牙を見せて大きく笑顔をつくると緑雨様の睫毛から光の粉が水に溶けていく。


「それでは竜になるので俺の頭に乗ってくれ。真砂が満足するまで里を飛んだら、そのまま竜神湖に飛び込んで、大鳥居を潜るから落ちないようにしっかりつかまっていてくれよ。向こうでは仁永と撫子が待っている。ああそれから、アオに叱られるのは覚悟してくれ」

 私は大好きな銀に光る水色の髪に手を差し込んだ。

「可愛いアオちゃんに早く会いたいです」

「いやいやアオはもうおじさんだぞ」

 私がびっくりしてええ!っと声をあげると彼はいたずらっぽい顔で片目をつぶった。

「冗談だ。でもなかなかの青年になったぞ。子だくさんの父親だ」


 二人の間に長い月日が経ったのだと実感する。

でもこれからは、もっと長い年月を、あなたの隣で、もうけして離れずに生きていきたい。


 緑雨様が竜になり、2本の角が水中で虹色に発光する。銀色の体をうねらせて、水の中を登っていき水飛沫とともに地上に飛び出た。

 神辺の里の大空を巨大な体が埋め尽くすように雄々しく銀色の光を放ちながら泳いでいく。

 人々が畏れに震えながらも、頭に乗る私の姿を見て「巫女様!」と叫んでいる。

 私は大きく手を振って、皆に別れを告げた。


 里を大きく何度も旋回した後で、いよいよ緑雨様と竜神湖の底にある大鳥居を目指し飛んでいく。

 私は緑雨様と共に行くのだ。


 もう迷わない、私は竜神様の花嫁だから。


最後まで読んでくださりありがとうございます。これからの励みになりますので評価してもらえるとうれしいです。

仁永と撫子のその後の物語と緑雨の父と母の物語も書く予定です。

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