42.この空の向こうに
夜の闇の中で、私はぼんやりと竜神湖の崖の階段に座っていた。
私が大鳥居を潜って紅玉湖に行き、境界の館で過ごしたのは4カ月間ほどの時間だった。しかし神辺の里にもどってみれば50年と言う信じられない年月が過ぎていた。
何のために私はもどってきたのか……
俺の側にいて欲しいと、あれほど切なく求めてくれた緑雨様の緑の瞳。あの澄んだ、若葉のような生命に溢れた美しい色をもう2度と見ることはできない。
緑雨様は私の本当の気持ちを受け止めて、花嫁にすると約束してくれた。紅玉湖をもとに戻す願いさえ諦めて彼は私を選んでくれたのに。
私は、全てを私に捧げると誓ってくれた緑雨様を捨てた。
己の幸せの未来の全てを捨てたのだ。
されど……私はそこまでしても 姫様との約束を守りたかった。
それなのに、姫様はいなかった。
50年の月日が過ぎ、もはや彼女が生きているのかさえ分からない。
自分がしたことは、いったい何だったのだろう……
今分ることは、もう緑雨様に会えないということ。それだけははっきりと理解できた。
何処に行くあてもない、そもそも、これから生きていく意味も無い……
岩に体を預けて、ぼんやりと空を見上げると雲に覆われて星も月も見えない。
何も無い……本当に私には何も無くなってしまった……
緑雨様をあれほど傷つけてまで、守りたかった約束が……50年の時の向こうであっけなく消えていた。
自分の愚かしさに涙も出ない。今すぐこんな自分は消えて無くなってしまえと思うのに、思い出すのは紅玉湖で過ごした優しい時間ばかり。大きな手が私を抱き上げて、竜の瞳がいたずらっぽく笑う。牙の見える大きな口が「真砂」と優しく呼ぶ。抱きしめられた時の温もりが、口付けられた時の愛おしさが、色鮮やかに胸に迫ってくる。
『ああ、あなたの隣で生きていきたかった』
私は幸せになるのが怖かった。
花嫁になったら自分が消えてしまう気がした。
……けれど私は、もうとっくに緑雨様に幸せにしてもらっていたのだ。
紅玉湖にいる間、まるで夢の中にいるようだと思っていた。でも気づいてみれば、夢の中にいた人は姫様の方だ。私は彼女のことを何も知らない。会えたのは1度だけ、あの時の姫様が何を思っていたか私には分からない。
姫様は私を待っていただろうか?
戻らぬ私をどんな思いで待っていただろうか?
裏切ったと思ったか……
溺れて死んだとすぐに忘れたか……
けれど、姫様はあまりに遠い時の彼方へ行ってしまった。
もう姫様の心を知ることは私には永遠にできないのだ。
姫様がいたから私は生きることができた。それは間違いのない事実だ。けれど、姫様を失った今、私の心の中の姫様を必死にかき集めてみても、真実であるのはお顔を見たただ1度、あの時の眼差しと声だけ。それ以外の姫様は私が心に創り上げた人なのだ。あまりに辛い現実を生きる私が夢の中で造り出した救いの天女様だった。
夢の中の人であっても……
私は姫様が大好きだった。
本当の姫様はどんな方だったのか、50年の時が過ぎた今はもう知る術もない……
私の姫様はもうどこにもいないのだ。
緑雨様にも姫様にも2度と会えないこれからを、私が生きることに何の意味があるのだろう……
体に力ははいらない。ここに座っていたらそのうちに飢えて乾いて朽ち果てるだろう。
それでいい……
もう、望むことなど何もないのだから……
ざー ざー ざあ ざあ ざあ
ざー ざー ざあ ざあ ざあ
雨が降り出した。
細い雨粒が掛かって、ゆっくりと髪が、頬が、腕が…… 私の体が雨に包まれていく。
ざー ざー ざあ ざあ ざあ
歌っている……
私は立ちあがり、竜神湖の中に入って行った。
何も見えない空に両手を広げ、全ての雨をこの体に受け止めたかった。
「緑雨さまー」
大声で叫んだ。
歌っている、緑雨様が歌いながら雨を降らしている。この空の向こうに、けして行くことはできないけれど、私の声は永遠に届かないけれど……
確かにこの空は紅玉湖に繋がっていて、緑雨様が今、雨を降らせているのだ。
緑雨様は人界を乾きから救うことを諦めていないのだ。
胸がかッと熱くなり、空虚な闇に火が灯った。
何も無い1日が、もう全て無くしてしまった何の変化もない1日が……
それでもいつか実を結ぶ1日に続くのだと信じて……
緑雨様はその1日を生きている。
ならば私も、この1日を生きていこう。
もう会えない。
けれど、あなたと繋がっているこの世界で、私が信じるものに向かって生きていこう。
『ちゃんと食べろ』
緑雨様の声がして、私の体に力が戻って来た。
「はい、緑雨様。私は餅になると約束しましたから、ちゃんと食べます」




