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41.どうして

 どれくらい姫様と呼び続けていたのか分からない。

 力なく足を動かし、元来た道を歩いていくと、里の集落があった場所に戻り着いた。奥の方の一軒に炊事の煙が上がっているのが見えて、よろよろと近づいていくと、軒先に出ていた中年の女の人が気づいてくれた。


「あんたどこの娘だい? どうしたのそんな恰好でフラフラして」

「あの……あの……神辺の姫様はどこに?」

 私が尋ねると、女の人は目を丸くして「どこの姫様だい?」と奇妙な顔をした。

「神辺の姫様です。この地を治める神辺元綱様のご息女の姫様です」

 私の必死な思いとは裏腹に、女の人は「はあ?」と呑気な声を出した。

「あんた何を言ってるの? 神辺家なんてとうの昔にいなくなった人たちだ。私の生まれる前のことさ、知ってるわけないよ」


 どう見ても40歳は過ぎているであろう目の前の女の人が、自分の生まれる前と言った……

 時が……もしかして、信じられない程に過ぎている……の? 


 鼓動が速くなり、ドクドク音をたて始める。私はもっと神辺家のことを聞こうと思うのに、体がガクガク震え出して、口を開けたけれど、震えた息がでるだけだった。

「あんたよく見たら、まだ子供みたいじゃないか。顔が真っ青だ、ちょっと中へお入り。私の爺さんならその神辺家のことも知ってるかもしれないから」



 血のような真っ赤な夕焼けが空に広がっている。

 竜神湖の中心に降りていくと、薄い闇の中で浅い湖面は真っ赤に空の色を映していた。


「50年……」

 あまりの喪失感に、踏みしめる地も、崖にぐるりと切り取られた赤い空も、ぐにゃりと混ざり合って、自分がどこを歩いているのかも分からなくなって視界がぐるぐる回る。


 先ほど会った老人が告げた話を、信じられそうもない…… 

 けれどあるはずの屋敷は跡形もなく消えて……

 どうやって階段を降りたのか気づくと竜神湖の底に辿り着いていた。真っ赤な雲を背した大鳥居の前でしばし呆然と立ち尽くした。


 みるみる暗くなっていく水面に、ひときわ濃い暗闇が見えた。目を凝らすと巨大なナマズが浅い水の中で身じろぎせずに浮かんでいる。

 二つの黒い瞳が冷酷に、じいっとこちらを見つめ妖しくヌメヌメと光っている。


「ナマズ様……」

 絞り出した僅かな声にナマズの鼻が水面に大きく開いてプスッと生臭い空気を放った。


「花嫁はどこじゃ」

「いないのです。どこにも姫様がいないのです」

 黒い瞳が細くなり、あたり一帯に闇が一瞬で広がった。


「里の老人に会いました。彼が言うには神辺家の人々は50年前にこの地を去ったと……姫様は今どこにいるのか、もう分からないのです」


 先ほど出会った女性の祖父だという老人は、私の顔を見るなり目を丸くして「真砂」と呼んだ。

 彼は数カ月前まで毎日一緒に薬草を採っていた罪人の1人だった。

 言われてみれば面影はあるが、彼は20代の若者だったはず。それなのに、もう寝たきりの枯葉のようにやせ細った老人となっていた。


『真砂は竜神の生贄として50年前に湖に沈められたはず。それが、その時の姿そのままに戻ってくるとは、なんたる奇跡!』

 彼は泣きむせび、私を神様の使いだと手を合わせた。


 私を生贄として竜神に捧げたが、竜神湖の水は年々減っていき、それと同時に雨も降らなくなって国中が干上がりだした。国主様が竜神湖の守りである神辺家の責任を問い、家は取り潰しとなり、神辺家は離散したのだと老人は語った。


 それらは全て50年前のできごとなのだと……

 私が紅玉湖に行っている間にそんなにも時が経っていたなんて……


 ナマズの黒い眼は妖しく光り、何も返事をしなかった。

「ナマズ様お教えください。どうしてこんなに時が過ぎてしまったのでしょう?」

「新しい花嫁はどこじゃ」

「姫様はいないのです。あまりに時が過ぎて、もう生きていらっしゃるかもわかりません…… どうしてこんなことに」

 ナマズは問いには答えてくれない。もう一度「どうして」と言いかけたとき、長い髭が恐ろしい速さで伸びると、バチンっと水面を叩いた。


「これほどの苦悶の道を進ませながら、花嫁がいないとほざくか。50年など瞬きするような時間ではないか。なんと面倒な、だから人間は好かん。水底の藻よりも早く枯れる、何と寿命の短い生き物か!」

 バチン、バチンと荒々しく髭がのたうっては水面を叩く。


「すべては娘、おまえが愚かだったからだ。おまえのせいで紅玉湖が気分を損ねた」

「わたし……の……せい?」

「あれほどに湖の底一面に、紅玉を実らせ神竜への嫁入りを祝福しておったのに、おまえはそれを跳ねのけた。紅玉湖は口惜しかったのであろう、だからおまえを懲らしめたに違いない。時間も場所も捻じ曲げて貼り付ける。あの気分屋の湖が何をするのか誰にも計り知れぬ、おまえは紅玉湖の怒りに触れたのよ」

「そんな……ナマズ様私はどうすれば……」


 薄い刃が肉を削ぎ落すように、シュッと冷徹な怒りが空気を断ち切った。人が発する気ではない。神の怒りに圧倒されて息もできない。畏れに全身が硬直した。

「悔いて悔いてのたうつがよい。紅玉湖が開いた世界が妖の巣だったならば、今頃おまえは四肢をちぎられ食われていただろう。元の世界に帰してもらっただけでもあり難しことじゃ」


 もうここには誰もいない。

 姫様に会えぬのなら、約束も果たせない。ならばここにいてもしかたがない、だったら……


「ナマズ様、どうか私を緑雨様の元にもどしてください」

 ビンっと針のようにナマズの髭が天を指した。

 ビリビリとした怒りが大気に満ちる。黒い瞳は暗黒の穴のように渦巻いて、絶望の闇に引きずり込もうと心臓に食い付いてくるようだった。 

 あまりの恐ろしさにしゃがみこんで両目を塞いで震えた。


「もどしてくれだとう? この愚か者があああああ」

 バチン、バチンと髭が水面を叩いて荒れ狂う。

「おぬしだけは2度と紅玉湖に運ばぬ。もうけして紅玉の主に会えぬようにしてやる! 神との約束を違えた罪じゃ、その身が朽ちるまで別離の悲しみの中で苦しみ続けるがよい!!」


 そんな!

 どうか私を戻してと叫ぼうとした瞬間、バチャンと大ナマズが跳ね上がり、船のように大きな体が空を舞い、夕日の最後の光を受けて真っ赤に染まった。 

 ドオーンと水面に落ちて、大飛沫があがり、その水滴の一粒ずつが血の様に赤く弾けた。

 水の輪がいくえにも広がって湖の果てに向かっていき、やがて消えて水面は静まりかえった。ナマズの姿は暗闇の水中に溶けて、もうどこにいるのか分からなくなった。


「ナマズ様!」

 暗い湖の水面に何度呼びかけても、もう返事をする声は2度と無かった。


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