40.神辺の里
長い長い眠りについていた気がする……
まどろみながら、幼子が泣きわめくような、苛立ちと悲しみが爆発するような叫びを聞いていた。
ああ悲し
どうして、どうして
幼い女の子が崖に張り付いている。風に吹かれて今にも落ちそうだ。
ああ、危ない
両手を広げて受け止めてやりたいのに
腕が無い
あの子を受け止める腕が無い
もどかしい苦しさが、頭の中に感情の塊になって流れ込んでくる。
「あの子は幼い日の私……では私を崖の下から見上げていたのはだあれ?」
崖の下には青い湖
澄んだ水は青い瞳、私をずっと見守っていた眼差し
「竜神湖? あなたなの?」
眠りの中で問うた声に返事は無かった。
目覚めてすぐに息苦しさに咳き込んだ。倒れた身を起こすと、膝の高さ程の浅い水たまりの中にいた。
明るい陽の中で、あたりを見渡すと切り立つ崖にぐるりと囲まれている。広大な景色だったが「狭い」と思った。果ての見えない紅玉湖を毎日見ていたから……
立ち上がると、ヌルヌルした透明な泥が体からボトボト流れて落ちた。
「ここは竜神の湖、私が生まれ育った神辺の里。私は帰ってきたのだ」
振り返ると巨大な石の鳥居があった。驚きに目を見張る。鳥居はほとんど全ての姿を地上に出し、水はほんの膝丈ほどしかない。己は竜神湖の底に立っているのに、湖はほとんど干上がって、中心に小さな沼のような水たまりがあるだけだった。
あたりを見回しナマズの翁を探したが姿はどこにも無い。
天上から照らす太陽は頂点にあり昼なのだろう、日差しは強く夏のようだった。じりじり肌を焼く暑さとは対照的に足元の水は冷たい。だが……竜神湖の水はもうこれだけしか残っていないのかと驚きは恐怖に変わった。
「ここはもう干ばつが始まっているのだわ」
姫様を早く紅玉湖に送らなければ。
崖肌にある階段に向かってザブザブと進んだ。重ねられた衣を出来る限り脱ぎすてて、一刻も早く姫様に会うために、階段に辿り着くと懸命に登った。
崖の頂に辿り着くと、竜神を祀る祠があるはずだった。しかし何故だろう、祠はどこにも見当たらない。不思議に思いつつも先を急いだ。
見慣れた大岩を目印に、薬草倉庫を目指した。
「どうして無いの?」
そこは乾いた土にしがみつくように短い草が生えているだけだった。ここに自分が毎晩眠っていた薬草倉庫があるはずなのに見つからない。
この数カ月の間に取り壊されたのだろうか?
理解ができない気持ち悪さを抱えたまま、ひたすら駆けた。
気持ち悪さは、不気味さへと変わっていく。里の集落へと続く道の途中にあるはずの罪人の牢小屋が無かった。いよいよおかしいと思い、立ち止まり小屋があった辺りの雑草が絡まる中に入ってみた。
「どうして? どうして何もないの!」
薬草倉庫は取り壊されたのかとも思った。だがここは違う、草が覆い茂って初めから牢小屋など無かったかのよう。
ここは神辺の里ではないの?
恐ろしさに耐えながらなおも進むと、里の集落に辿り着いた。そこに家はあったが、自分が知っている集落は姿を消していた。
なんてこと!? 里が消えてしまった!!
かろうじて見知らぬ小さな家が3軒ほどあった。「誰かいますか」と声をあげてみたが木戸は閉まっており返事は無かった。
ここは自分の知る場所ではない。
これは夢なのだろうか?
全力で裸足で駆けていくと、小石が足裏を傷つけた。鋭い痛みと肺が潰れるような苦しさが、これは現実なのだと突き付ける。
泣き叫びたい恐怖とともに、懸命に走った、走って、走って今見た奇妙な出来事を振り払おうとした。これ以上は走り続けられないほどに息が上がってゼイゼイと喉が鳴る。汗が全身から噴き出して、夏の太陽が頭をぼうっとさせた。
神辺家の大屋敷があるべき場所に立った。
夏の熱気の向こうに見えるのは、蔦が絡まる藪。あるはずの神辺家大屋敷も、武士たちが暮らしていた家屋も無く。都に似せて神辺家元網が造らせた大庭園の樹木は枯れてもどこにも無い。
自分が場所を間違えているのだと思いたかった。しかし今にも獣が飛び出してきそうな藪の中に、はっきりと石垣が見えた。神辺家を取り囲んでいた石垣だけが、数カ月前と同じ場所で、同じ姿で並んでいる。ここが神辺家の大屋敷なのだと、姿を変えぬ石だけが教えていた。
「無い、神辺のお屋敷が無い……」
汗が顎を伝い地面に落ちる。暑さに意識が朦朧とする中でよろよろと藪の中に入って屋敷を探した。
「姫様、姫様……」
大声で姫様を呼ぶと茂みにいた鳥たちが驚いて飛び立った。
「ひめさまー!!」
私の呼び声に応える者は何も無かった。




