39.婚礼の儀
姫様がお召しになるはずだった橙色の輝く打掛が、己の体に掛けられて、侍女達に婚礼の化粧を施されていく。鏡の前には自分とは思えない、見たことも無い姫が白い顔に紅をさし、黒い瞳で物憂げにこちらを見ていた。
緑雨様は湖に落ちた日、私に花嫁になって欲しいと告げた後また意識を失った。何日も眠り続け、目を覚ましても3日ほど起き上がることができないほどに憔悴していた。けれどやっと、歩けるほどに回復すると私との『婚礼の儀』を執り行うと宣言した。
私が伏せる緑雨様の隣で看病していた間、知らないうちに婚礼の準備は万端整えられており、緑雨様が宣言した翌々日には婚儀の朝となっていた。私は侍女に取り囲まれなされるがままに、あっという間に花嫁としての支度を終えた。
緑雨様の花嫁となる覚悟はできない。
……されど、神辺の地に帰る覚悟もまたできなかった。
あれほどまでに求めてくれた緑雨様を置いて、私は去ることがどうしてもできない。迷いの中にいるうちに、周りが目まぐるしく動いて、気が付けばもう花嫁衣裳の中にいる。覚悟はできないのに、されど脱ぎ捨てる力はどうしても出ない。促されるまま私は立ち上がり、震える体からなんとか息を吐いた。婚礼の儀に向かうため、とうとう一歩を踏み出した。
「とても美しいですよ真砂様」
撫子さんの穏やかな声に、侍女達が満足そうに微笑む。
大鳥居の丘に繋がる大扉を目指して、ゆっくりと回廊を歩む。
幾重にも重ねた着物と雅な打掛は体に酷く重く、撫子さんに手を取られながら足を動かすのに苦労した。回廊の両脇には緑雨様に仕える者達が大勢並んで私を見守り、満面の笑顔で祝福してくれている。私は幸せな花嫁なのだと、その微笑に囲まれて思った時、胸に刃が刺さるように痛かった。
あまりの胸の痛みに私は立ち止まり、撫子さんに救いを求めるように視線を向けた。
撫子さんは今日の婚礼の儀に相応しく、美しい着物をきて天女様のようだった、何処までも優しい眼差しで私が何も言わないのに「いいんですよ」と許しの言葉をくれた。
俯いて大きく首を振った。髪に飾られた金の飾りがシャラシャラと音をたてた。
「これは……いけない事…… 私が花嫁になるのは許されない……」
そうだと言って私を止めて欲しい。もう自分ではどうしていいか分からないの。
「こちらに来るとき、真砂様は死んでもいいと覚悟して湖に飛び込んでのでしょう?」
静かな問いかけに私はその通りだと深く頷いた。すると撫子さんが優しく笑った。
「死ぬ覚悟ができた人が、どうして幸せになる覚悟ができないのです。湖に飛び込むよりずっと簡単ですよ、緑雨様の胸に飛び込んだらいいのです。自分を傷つけることはできるのに、自分を幸せにすることができないなんて、可笑しいでしょう?」
撫子さんの言葉の意味が、上手く頭の中に入ってこなかった。手を引かれまた歩きだすと、扉に近づくほどに、自分を断罪する声が頭の中で鳴り響いてどんどん大きくなっていく。
『本当の花嫁は姫様だろう? おまえは姫様を裏切るのか!』
扉の前では仁永様とアオちゃんが待っていてくれた。アオちゃんの礼服姿は凛々しく、どうだと言わんばかりに胸を張っている。
「真砂様、婚礼の日にそんな悲しそうな顔をするなんて。ようし、決めました! 緑雨様との結婚がそんなに不安なら、僕が真砂様をお嫁さんにするですです!!」
堂々と大きな声が回廊に響き渡った。私と撫子さん、仁永様は目を大きくさせてしばしあっけにとられた。
ふん! と鼻から荒く息を吐いて、アオちゃんが手を差し出した。
私はその様子が可愛くて、ようやく気持ちが解けて微笑んだ。
「アオちゃん、私を緑雨様の元へ連れて行ってください」
小さな手に己の手を重ねると、アオちゃんは満足そうに頷いてくれた。仁永様が扉を開く、明るい陽の光の向こうに、若草の草原が広がっていた。まだ真冬であるのに、春の神でもある青竜の緑雨様が、歓喜の神気を振りまいたために丘の草花は目を覚まし春の息吹に若葉を輝かせる。
アオちゃんに手を引かれて、進んでいくと大鳥居が見える場所に竜の姿の緑雨様が待っていた。
丘を埋め尽くすような巨大な体は初雪のように銀色に輝き、その光の先は眩い若草色に包まれている。2本の角は雄々しく天を指し、流れる水のような髪が草原のように風に揺れる。神々しさに圧倒されるのに、同時に心から安心してその髪に触れたかった。竜でも人の姿でも、緑雨様の魂は同じで、どちらの姿も愛おしかった。
これから私を誰よりも必要だと求めてくれる緑雨様に抱きしめられて、守られて、与えられて生きていく。
きっと私は幸せになるだろう。
姫様に命を救ってもらった恩義を返せるならば、私の全てをかけてやりとげようと決意してこの地に来た。私がしようとしたことは何であったのだろう……
1歩、また1歩と緑雨様に近づいていく。
結婚して竜神の妻となり幸せになったら、私がやろうとしたことの意味が分かる日がくるだろうか……
緑雨様の隣に辿り着くと、アオちゃんは後ろに下がり、仁永様や撫子さん、そして私達を見守り祝福する者達の列に並んだ。丘の上で私と緑雨様は見つめ合った。
竜の緑の瞳は緑雨様そのもので、優しい眼差しに彼の深い愛情を感じた。
愛する人に求められる苦しい程の幸せが胸に込み上げる。
けれど……胸の痛みは消えなかった。
愛しい人と婚礼の儀を迎えるこの瞬間も、姫様を裏切る途方もない罪悪感が胸を締め上げ、あまりの痛みに笑うことはできなかった。
これからどんなに幸せになっても……私は悔いて生きていくのだ。姫様を裏切った罪を背負い、苦しみながら生きていくのだろう。それでも私は緑雨様を置いて行くことはできないと思った。
大きな竜の頭が降りてきて、水色に透き通る銀の髪がサラサラと頬に触れた。
緑雨様の声が頭の中に直接響いて来る。
「これから紅玉の主が花嫁を迎える婚礼の儀式を行う。俺は真砂を頭に乗せて飛び、上空から湖に飛び込んで水底まで潜る。真砂はしっかりと俺につかまっていてくれ。底に着いたら俺は人型にもどり、紅玉の実を口に含んで、真砂に口移しで食べさせる。その時俺の神気を吹き込むから、真砂は水の中でも息ができるようになる。そうしたら水の中でたくさん紅玉の実を食べような」
竜の身で表情は変わらなかったが、緑雨様が嬉しそうに微笑むのが分った。
「水の中に入って、真砂が最初に息を吸う時だけ、きっと息ができなくて苦しいと思うが堪えてくれ。心配しなくてもいい、俺がずっと抱きしめているから怖くないぞ。すぐに息ができるようにしてやるから」
緑雨様がいてくれたら怖くなどないと返事をしたかった。大きく頷いて、彼の髪につかまり、頭に登ろうとした。されど体が動かなかった。何かとても大事なことを忘れている気がした。
何かが頭の中で引っかかって、どうしても思い出したかった。
「息が……苦しい……」
先ほど緑雨様が言った言葉が、急に己の心を神辺の里に戻した。崖に張り付いて苔を探していた感覚が生生しく蘇る。
そうだ……姫様は毎夜咳が出て息が苦しくなるのだと……
だから私は毎晩寝る前は、姫様が苦しくないようにと、私の採った薬草が咳を鎮めてほしいと……必ず願っていて……
はっと気づいて目を見開いた。
私は忘れていた。
ここに来てから姫様のことを思い出さない日は無かった。いつでも姫様のことを考えているつもりだった。それなのに……私は今この瞬間まで、姫様の咳のことを忘れていた。
緑雨様の髪を掴んでいた手の力が抜けて、だらりと腕を降ろした。
愕然として大鳥居を見やった。
『ああきっと……私は忘れる』
父と母のことさえ、辛い現実に耐えられずに私は忘れたのだ。
私に耐えられるだろうか。姫様の代わりに己が花嫁になることで人界の全てが干上がって、人々が乾いて飢える地獄が起きるのを。
そして……誰よりも大切だった姫様を裏切る罪の呵責を背負って生きる苦しみを……
そんな辛さを抱えることなどできずに、私はきっと姫様を忘れるのだ。
人界の人々のことも、姫様のことも忘れて、百年、千年と緑雨様に幸せにしてもらって生きるのだ。
そして裸足で崖に登り、飢えていた10歳の真砂のことも忘れるのだろう。
私は静かに緑雨様から一歩下がった。
「真砂? 俺の頭に乗ってくれ」
ゆっくりと大きく首を左右に振った。
「できない……私……どうしてもできない……」
御簾の向こうで、真っすぐに私を見つめる姫差が見える。
『真砂、待っています』
姫様だけが私の名を呼んでくれた。
あの日……あの時……
暗闇の中でたった一人、崖で死を待つしかなかった。
姫様だけが私を助けてくれたのだ。
今この瞬間、この命があるのは、この体があるのは、そして緑雨様を愛する心があるのは……
「姫様が私を救ってくれたから」
何もない私に、姫様の為に薬草を採る喜びを与えてくれた。だからあの過酷な地獄を1日ずつ生きることができたのだ。
その姫様を忘れたくない。
でも私はあまりに弱くて、きっとすべてを忘れてしまうのだ。
「ごめんなさい緑雨様。私どうしても……姫様との約束を破ることができない……」
待っているの、姫様が……姫様だけが私を待っていてくれるの……
だからここに来れた。
だからあなたに会えた。
1歩、また1歩と私は緑雨様から離れた。
遠くに私達を見守る大勢の者達の前列に、仁永様と撫子さんの顔が見えた。驚きに揺れる瞳が、馬鹿なことを考えるなと訴えている。分かっている己が愚かなことをしようとしているのを……
それでも、私は……
「真砂様だめー」
アオちゃんの叫び声が響いたが私は拳を握りしめ、その声を振り払うように大鳥居に向き直ると駆けだそうとした。数歩走り出したところで、私はすぐ、銀色の光に包まれ後ろから強い両腕に捕えられた。
「真砂、お願いだ……」
人型に戻った緑雨様がきつく抱きしめながら泣き出しそうな苦しい声で乞うた。
「お願いだから行かないでくれ。俺の全てを捧げるから。何ものに代えても幸せにすると誓うから。だから俺の花嫁になって欲しい」
何も言えずに、彼の腕の中でただ首を振った。
違うの、幸せにするというあなたを心から信じられる。私は、幸せになることを選べないの。
弱い私をどうか許して……
緑雨様が腕を解くと、私を振り返らせ両手を握った。顔を上げると切なく求める緑の瞳があった。
「俺は無力で紅玉湖の水を戻すことができない。それでも諦めたくはない。真砂の故郷の干ばつを止めるために、できることを探して生きていきたい。何の変化も無い1日かもしれないが、それでも諦めずに1日、1日を努力して積み重ねていくから、だから真砂、俺の側にしてほしい。何も無い1日が、いつか実を結ぶ日に繋がっていると教えてくれたのは真砂だろう?」
私は右手を緑雨様の胸に当てた。初めてあなたのここに頭をくっつけた時、どれほどの安らぎを得ただろう。あなたが私に与えてくれたものを、私も返せるならばどれほど幸せだろう。
私が必要だと緑雨様はこれほどまでに求めてくれるのに……
「緑雨様が大好きです。でも私のこの心が今ここにあって、緑雨様に大切にしてもらえたのは、姫様がいたから…… 姫様との約束がなければ、私はあなたに会えなかったの。その姫様を裏切ったら私が消えてしまう。姫様を忘れてしまったら、独りぼっちで生きてきた私を、私自身さえも捨てて忘れてしまったら、もう私が無くなってしまう」
震える体でほんの少しだけ、最後だから、ほんの少しだけ……触れることを許して。
頭を緑雨様の胸にくっつけた。
大好き、あなたが大好き。
でも私はどうしてもあなたの花嫁になれない。
「ごめんなさい……」
告げた瞬間強く抱きしめられた。
ゆっくりと緑雨様の腕の力が抜けて、私が顔を上げると、泣くのを堪えるような苦し気な緑の瞳に見つめられた。
緑雨様の腕が私から離れて、ゆるく片手だけが私の手に掛けられた。
「真砂、行かないで欲しい。でも俺はけして花嫁に無理強いはしないと父上と約束をした。俺も同じだ、大切な人との約束は破れない。だから…… 俺は心の底から真砂に願うしかできない。お願いだ、側にいて欲しい。真砂の苦しみも一緒に背負うから、だから……行かないでくれ」
「緑雨、その手を離しては駄目だ!」
後ろから仁永様の大声が響いた。けれど緑雨様は私の目を見つめたまま、ゆっくりと手を離した。
彼は私の意思を守ってくれた。
「お願いだ……真砂行かないで」
震える声は、あの雨の日に見た、砂の様に崩れて消えていった紅玉の実のように儚く……胸を締め上げる痛みと悲しみを帯びて……空に消えた。
私は何も言葉を残さず、彼に背を向けると大鳥居に向かって走った。
「まさごー!!」
私の名を絶叫する緑雨様を、振り返らなかった。
打掛を脱ぎ捨てて、草履もすぐにぬかるみ置き去りにした。走って、走って、頭で揺れる髪飾りも乱暴に握って投げた。
「ナマズ様、ナマズ様!」
大声で呼ぶと、鳥居の前にぬるりと黒い翁が現れた。
「ナマズ様、どうか私を人界に戻してください。本当の花嫁を、今度こそ本当の花嫁をこちらに送ります」
翁は心底嫌そうに顔を歪めた。黒目だけの瞳が光って、口の髭が木の根のように伸びて湖面をバチバチと打ちつけた。
「紅玉の実を熟させることができぬなら、おぬしは用無しだ。婚儀の日に紅玉の主を拒むとは、なんと愚かな。ああ愚か、まっこと愚か、紅玉湖もさぞ気分を害しただろう。とっととこの地から失せるがよい」
眩い銀の光が体を照らし、叩きつけるような暴風が背中から吹き抜けた。竜となった緑雨様がこちらに向かって飛んでくるのだと、振り返らずとも体が感じた。
私は大鳥居に向かって、水の中をかき分け進んだ。腰の高さまで水がきたとき、ぬるりとした手にぐいと引っ張られ体は水の中に入った。湖水の中で、揺らめく大鳥居の土台がぼんやりと目に入った。あすこへ行かねばと両手を掻いたが、どろりとした物に囚われて上手く動かない。
姫様の元へ帰るのだ。
それだけを思って水を掻き続けているうちに、息は続かなくなりゴボリと吐いた空気が泡になってはじけた。そして意識を失った。




