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38.他の誰か

 竜の体は頭から、筆を落すように真っすぐに湖面に吸い込まれ、最後大きな水飛沫の白い泡が弾けるのが見えた。

「嫌ー!」


 窓に張り付いて、リョクウ様が落ちた場所を食い入るように探したが、突然凪いだ湖の湖面から出てくるものは何も無い。

 シンエイ様が部屋を飛び出して行く。ナデシコさんと急いで追いかけた。

 廊下に控える護衛達が私を止めようとしたけれど、シンエイ様が「リョクウ様が落ちた。真砂様が必要だ」と叫ぶと、護衛達は驚愕の表情でシンエイ様を追って一緒に走り始めた。


 大扉を開け、大鳥居の丘に出る。暗く空を覆っていた雲は溶けるように薄くなっていく。あれほど波打ち荒れていた湖面は、何事も無かったかのように静まって、美しい紅色に陽の光を反射してキラキラしていた。


「リョクウ様、リョクウ様」

 あらん限りの大声で呼び続けても、湖面は何も動かない。


 黒麒麟に姿を変えたシンエイ様が黒い炎のようにすごい速さで飛んでいく。小型の竜に姿を変えた竜族の護衛達が、次々と飛び立ち黒麒麟の示す場所に集まると、矢のように水の中に潜っていく。

 お願い、お願い、リョクウ様無事でいて。


 祈るしかできない自分が悔しい。今すぐリョクウ様を助けにいきたい。震える拳を握りしめて、ナデシコさんと見守っていると。小さな竜達が湖面に顔を出し、黒麒麟の背に何かが載せられるのが見えた。


 シンエイ様の背に乗せられて、リョクウ様は人型で戻って来た。意識を失っている彼は草の上に寝かされ、シンエイ様に頬を叩かれるときつく閉じている瞼が震え、口元が緩んで「うう」と微かに声を出したが目は開かなかった。

 蝋で固めたように顔も手も真っ白で生気がなく、私は胸に取りすがって揺さぶり「リョクウ様」と何度も呼んだ。

 濡れて冷たい体を温めたくて、胸に抱きついて自分の体温を移そうとした。


 怖い、リョクウ様を失うことが怖い。

 きつく抱きしめて名を呼び続けていると、頭に手が置かれた。そのままその手が私の頭を撫でようとゆっくり動く。弾かれるように顔を上げると、目を開いたリョクウ様が口を小さく開けて、何かを言った。

「何ですか?」

 急いで口元に顔を寄せて尋ねると、苦し気な呼吸を繰り返しながら、今度ははっきりと彼の言葉が聞こえた。


「……どこにも行かないでくれ」

 彼の震える指が頬に触れる。私は必死でその手を取ると両手で包んで、自分の頬に押し付けた。


「……知らなかったんだ……こんな気持ちがこの世にあるなんて……」 

 冷たい手、荒い呼吸、今にも意識を失いそうな苦し気な様子にもう喋らないでと言いたいのに、彼の瞳は発光し、虹色に力強く輝いた。


「真砂がこの世にいるなんて知らなかったんだ。だから誰でも花嫁にできるなんて馬鹿なことを……俺は……己のことを何も知らなかった。もう、知らなかった前には戻れない。真砂のいない世界に生きることはできない」


 彼の手が私の頬を撫でる。

 どうしようもなく愛おしいのだと、この人が好きなのだと、己の心が叫んでいる。


「真砂に会えなくなるなら、人界がどうなろうと、境界の館が消えようと、紅玉湖が枯れようともう……どうだっていいんだ」

 リョクウ様は言葉を続けようとして、悔し気に歯を食いしばり目を閉じた。彼の目じりから涙がこぼれた。

「軽蔑するだろう? 俺は何に代えても成し遂げると父上に誓ったのに、紅玉湖を元に戻せない愚かな竜だ。それでも……もうどうにもならない。どうあがいても、他の誰かじゃ駄目なんだ……」


 開かれた竜の瞳は泣いていた。

 彼は竜神様で……けして手の届かない存在であるはずなのに。今はただ、全力で挑み敗れて倒れた、傷ついた少年のようだった。

 気が付いたら彼の頭を撫でていた、どれほど彼が紅玉湖の水を戻したいと願っていたか知っていた。軽蔑なんてするはずがない。


 どうしてなのか次から次へと水玉が落ち、彼の頬を濡らす。リョクウ様の親指が私の目元を拭った時、それは私の涙なのだと分かった。

「お願いだ真砂、俺の花嫁になってくれ」


 私は「否と」首を振ることがどうしてもできなかった。

 されど……

「はい」と頷くこともできない。

 胸が両側から締め付けられて、つぶれていく痛みに耐えながら。リョクウ様の手を強く握りしめた。


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