37.本当に守ろうとしているのは誰なのか
紅玉湖に雨が降り続ける。
リョクウ様はあれきり私の部屋に来ることは無かった。竜となり雲を集めて昼も夜も雨を激しく降らせ続けている。
リョクウ様は自らの力で紅玉湖の水をとりもどそうとしている。
私がずっと側にいてなどとお願いしてしまったために、姫様を花嫁にするのを諦めてしまったのだ。
いくら神竜といえど、休まずにいたら彼の体がどうなってしまうか心配でたまらなかった。窓辺から見上げる暗雲の中に、緑銀の帯がうねるのを胸が潰れる思いで見続けた。「リョクウ様」と何度叫んでも届かず、いくら懇願しても侍女達は私を外に出してはくれなかった。
10日が経ち、涙も声も枯れるほどに彼の身を案じたが、雨が止むことはなかった。リョクウ様が今この時も冷たい雨の中にいるのだと思うと、食べることも眠ることも苦しかった。
何という無情か……これほどまでに激しく雨を降らせているというのに、紅玉湖はそれを拒絶するかのように増々水を減らしていく。
岸近くで赤く色づいていた紅玉の実は、水が引いて陸地に顔を出すと、砂が崩れるように消えていく。刻々と紅玉湖が浅く小さくなっていく様をリョクウ様は空からどんな思いで見ているのか……
初めは毎日ほんの数刻だけでも帰ってきて休んでいたリョクウ様は、とうとう休む間を一瞬も置かずにひたすら雨を降らせ続けるようになった。
シンエイ様がナデシコさんを連れて部屋に会いに来てくれた。
顔を見るなり駆け寄って「リョクウ様を止めてください」とすがって頼んだが、シンエイ様は深いため息をつきながら首を振るだけだった。
「本気の神竜に麒麟の私では近づけないのです。あんな無茶苦茶なことを続けていればいずれ体力が尽きる」
シンエイ様が窓に目をやり、高い空に立ち込める黒い雲の中の稲光を見た。目を凝らしてもリョクウ様の竜の姿は見えなかった。
「体力が尽きたら、どうなるのですか」
「分からない……ここに戻って来るだけの体力を残してくれるといいのだが……」
リョクウ様の身になにかあったらどうしよう。
立っているのも苦しくてその場に座り込むと、ナデシコさんが駆け寄って肩を抱いてくれた。
「主様がこんなにも必死で紅玉湖の水を戻そうとしているのは、あなたを帰したくないからでしょう? 真砂様、もう帰るなんて言わないでここでリョクウ様の花嫁になってください」
ナデシコさんの優しい言葉に私は俯いたまま辛い思いに耐えた。
「できません。だって、花嫁は姫様です。姫様が来れば湖の水ももどるのです」
「本当に?」
鋭い言葉が頭の上から降ってきた。見上げるとシンエイ様の、怒りを奥底に宿した燃えるような黒い瞳が私を詰問していた。
「そのあなたが信じる姫とやらは、本当に紅玉湖の水を戻す力をもっているのですか? 真砂様の目の前で特別な力を証明して見せたことがあるのですか?」
「それは……」
私は返事に窮して、たった1度だけ御簾の向こうに見た姫様の姿を頭に描く、私が知るのはあのお顔だけ。私は姫様のことをほとんど知らない。年齢も……お名前さえも……
「でも……リョクウ様が神辺の姫が湖の水を戻すと、神竜の長老様からお導きを受けたと聞きました。姫様は間違いなく神辺家の姫なのです……だから」
シンエイ様が片膝を付いて、視線を合わせるとなおも厳しく問いかける。
「だったらどうして彼女は自ら来ないのだ。あなたに重りを付けて水底に沈めるような女が本当に人界を救う聖女なのか? そのカンナベの姫を私は信じない」
「違います。私を湖に沈めたのは当主の神辺道綱で……姫様ではありません」
私の答えに、シンエイ様は悲し気に顔を歪めた。
「そうですか、あなたの姫は何も知らなかったと言いたいのですか。真砂様が、満足に食べさせてもらえず、崖に生える薬草を一日中採らされていることも知らなかった。倉庫の床で1人で寝かされていることも知らなかった。誰とも話せず独りぼっちで虐げられて、10歳から6年間も奴隷になっていることを知らなかったと、あなたをそう信じているのか!」
「それは……」
私はもやもやと胸から広がる、今まで1度も持ったことがない姫様に対する不信の芽生えを感じて、心底恐ろしくなった。姫様を疑うことは自分自身が根底から壊されるような、ゾッとする感覚だった。
「だって私は罪人の子で、死ぬしかなかったのを生かされて……だから……だから、それは仕方が無いことで……でも、姫様が、姫様だけが私の命を救ってくださったんです!」
私はシンエイ様に怒りを感じた。私の姫様を悪く言う人は許せない!
「それが何だというのです。崖から落ちそうな少女を救うのは当たり前のことだ。真砂様、よく考えてごらんなさい。もしアオが死にそうになっていたらあなたは助けるでしょう?」
シンエイ様の問いかけに、私は頭がぐらぐらしたけれど、頷いて「もちろん助けます」と返した。
「それでその後、あなたはアオになにか返してもらいたいですか? 命を救ったお礼に冷たい水の中に重りを付けて飛び込んでほしいですか?」
そんなこと……
何かを言わねばならないのに言葉が出てこない。
アオちゃんの命を助けることは当たり前で、助けた見返りになにかして欲しいなんて、ほんの少しも思わない。ただアオちゃんが生きているだけでいい……
「アオが独りぼっちでご飯ももらえずに、崖で毎日働かされても真砂様は平気ですか?」
頭がぐらぐらして上手く考えられない、どうしてこんなことを聞くのだろう? そんなの決まっている、アオちゃんにそんなこと絶対してほしくない。すぐに抱き上げて守ってあげたい。でも……でも……
だったら私は?
「そのカンナベの姫とやらは、全部知っていた。でも真砂様を助けなかった。眼を開けて真実を見るのです。その姫は本当にあなたの命の恩人なのですか?」
シンエイ様の言葉の意味を考えようとすると絶望に似たとてつもない恐怖が襲い掛かって来る。
もし姫様が私の救いでないのなら、だったら私は誰からも必要とされていない。
ああ、私が消えてしまう。姫様が私を見ていてくれなかったのなら、何のために私は薬草を採っていたの? 何のために生きていたの?
私が生きる意味がどこにあったの?
天井がぐるぐる回り出して、床に手をついて身を支えるのに私は上も下も分からなくなって倒れてしまった。ナデシコさんが支えてくれるのを感じて彼女の肩に手を伸ばしてつかまろうとすると、すぐにぎゅっと抱きしめてくれた。
「シンエイ様、もうこれ以上は責めないで。真砂様の顔が真っ青だわ」
「私が責めているのは真砂様ではない。姫の方だ! 真砂様を虐げてきたその女の本当の姿を、真砂様は見るべきなんだ!」
違う! 違う! 姫様は私を救ってくれた。
私はこれ以上聞きたくなくて、ナデシコさんに抱きついて目をきつく閉じた。
「あなたを本当に守ろうとしているのは誰なのか、もう分かっているのでしょう?」
閉じた瞼の向こうに、リョクウ様の笑顔が見える。
手を繋いで猫じゃらしの丘を何度も歩いた。水色の銀に輝く髪の中に私を入れて、竜になって大空を何度も飛んでくれた。心の中に響いてくる「真砂」と呼ぶ優しい声。
お店を巡って、色んな異国の甘いお菓子を一緒に食べた。甘いとしょっぱい、甘いと辛い、いろんな甘い味を探しては「真砂これが旨いぞ!」と子供みたいにはしゃぐ。私の好きをいつでも探して「ああ真砂が笑った」と牙をみせて豪快に笑って喜ぶ。
『真砂の気持ちは、俺にとってはこの世のなによりも大切だ』
ナデシコさんの胸から顔を離し、目を開けた。雷光に部屋が白くなり、ドーンと大きな雷が近くに落ちた。私はよろめきながら立ち上がり、窓辺に歩いていくと高い雲の中に彼の姿を探した。
『おまえを守りたい』
リョクウ様の声が胸の中で何度も響いて消えない。
雲間に緑に発光する銀色の竜が泳いでいる。大きく八の字を描いて、ぐるり、ぐるりと同じ場所で回りながら、次第に低く降りていく。銀の光がひときわ強くなった刹那、竜の動きがピタリと止まった。
「リョクウ!!」
シンエイ様の叫び声が空気を切り裂くのと同時に、銀色の光はしぼむように弱まり、竜はクタリと風に舞う帯のように力を無くした。
そして落ちた。




