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36.竜神の決意 

 雨音がする。

 雨粒が窓を激しく叩いている。遠く雷鳴が響いている。

 目を覚ました。


 寝具から身を起こし、隣を見る。そこに緑雨様はいなかった。けれど全身で感じた彼の温もりが、昨夜のことは夢ではないと告げていた。


 どれほど長い間焦がれていただろうか、父と母の腕の中で「もう大丈夫」と言ってもらえるのを。

 緑雨様がそれを叶えてくれた。心の底から安心して、私は独りぼっちになったあの日から初めて、深く眠ることができたのだ。


 父と母の優しい笑顔が脳裏に蘇る、懐かしさと安堵が胸に広がるのに、その笑顔はすぐに遠のいて、替わりに体の芯からぞわぞわと噴き出してくる黒い恐怖。

『嫌だ、思い出したくない』

 頭を強く振って、記憶を封じ込めようとするのに、もはやそれは叶わなかった……


 父と母は帰ってきたのだ。

 これが父母だと見せられたものは2つの(おけ)だった。あの大きく何ものにも負けない強い父の体が入りきるはずもない、こんな小さな桶が父? そしてもう一つが母? 意味が分からなかった。

 首が入っていると……

 あの言葉を聞いた瞬間から、私の世界はぼやけて、途切れて、心は何も受け入れることができなくなり、そうして……


 私の記憶は壊れたのだ。


父と母を失ったあの日以来、恐怖に押しつぶされて、自分の心の中に私は10歳のまま隠れていた。

 周りの大人が命令することに従って、泣きもせず怖がりもせず、私は時を止めて生きていた。

けれど……ようやく私は目を覚ました。


 私は自身に何が起きたのかを17歳の真砂として理解し始めた。私はご慈悲で生かされていたのではなく、悪意によって虐げられていたのだ。

 耐えがたい辛い記憶を消すことで私は正気を保ってきたというのか……なんて悲しいのだろう、私には何も無い。


 父母の記憶さえも失って。

 虐げられて独りぼっち生きていくのはもう嫌だ。

 緑雨様の力強い腕の中は、温かく溶けるように心地良い。この世にこれほど安心できる場所があるなんて、信じられないほどに心が満たされる。


 断崖にしがみつき、死だけが私の隣にいた。硬く冷たい倉庫の床で眠り、今日も、明日も、その先も、けして救われない、永遠に暗がりに続いていく絶望の夜を生きてきた。

 さみしくて、さみしくて、叫んでも泣いてもどこにも届かない。

 何もかもが冷たくて、暗くて、そして私が生きていることに何の意味もないのだ。明日生きても、死んでも、私はどうでもいい存在なのだ……


 手を伸ばして縋りつきたい。温かい胸、逞しい腕、大丈夫だと囁く優しい声。

 緑雨様の腕の中で眠りたい。

 緑雨様、私の大好きな緑雨様。ずっと、ずっとあなたの側にいたいの……

 私が笑うと喜んで、私の好きをいつでも探してくれる。真砂と名を呼んで……金緑の瞳が私だけを見つめてくれる。


 私が花嫁になれるなら……

 遠くで鳴っていた雷鳴が、いつの間にか近づいて鋭い雷光が走った刹那、稲妻が窓を震わせて館の近くに落ちた。

 まるで頬を殴られたように、私は目を見開いた。


 私は姫様を裏切るの?


 全ての大人に虐げられて、死ぬしかなかった私を、姫様が助けてくれた。

 あの崖から姫様が救ってくださらなければ、私は今こうして生きていないのに……

 絶望の1日、1日を風に吹き飛ばされそうになりながらも、それでもしがみついて生きることができたのは、姫様がいてくれたから。あなたの役にたつことができる。それだけが私の生きる意味だった。


 窓の外は嵐のように風が鳴り雨粒が窓を叩く。

『人界は百年の干ばつになる』

 私が花嫁になれば、人界は雨が降らなくなり、川の水源の湖も枯れてしまう。


『ずっと側にいる』

 耳元で囁かれた甘い声が胸の芯を震わせる。

 けれど冷たい大波が私の全身に襲い掛かって全ての体温を奪ってしまう。波に飲まれて流されて、私は一人冷たい水の中にいるしかないのだ。


 どうしても、できない。

 姫様との約束を破ったら、私が私で無くなってしまうようで、緑雨様の手を取る覚悟はできないと思った。


 昨夜、感情のままに彼に本当の気持ちを伝えてしまったことを後悔した。

 私に泣かれてずっと側にいてと頼まれたら、優しい緑雨様はきっと苦しむだろう。

 お母様のためにも、人界を救いたいという崇高な願いのために姫様を花嫁に迎えると決めていらっしゃるのだから、そんな彼の邪魔になりたくない。大好きな緑雨様のお役に立つ方法は、私が姫様をここへお連れすること。私は緑雨様に必要ないのだ。


 激しい雨で外が暗いので何時なのかもわからなかったが、侍女が食事を運んで来て昼時なのだと教えてくれた。昨日気を失って運ばれてきた私を侍女たちはとても心配してくれたようだ。元気をとりもどした私に喜んでくれたが、何故だろう、今日は部屋に控える侍女の数がいつもより多い。


 身支度を済ませて食事をとると、私はいよいよ時が来たのだと思った。

 アオちゃん、撫子さん、仁永さんの顔を見れば、決心が揺らいでしまうかもしれない。

 そしてもし緑雨様に抱きしめられたら……私はきっとその腕を振りほどけない。

 もう誰にも会わずにここを去ろう。


 緑雨様に包まれて眠った幸せな昨夜の思い出を宝物にして、緑雨様のことを想いながら神辺の里で生きていこう。

 窓の外の激しい雨が気がかりだったが、ナマズ翁に会えさえすればきっと帰れる。

 私は自室から出て行こうと、扉に向かった。


「花嫁様、お部屋から出ぬようにと主様からのお言いつけです」

 申し訳ございませんと侍女頭は丁寧に頭を下げてくれたが、それを合図にするかのように数人の侍女が扉の前に並んだ。「けしてあなたを出しません」と緊張した面持ちは告げていた。

「そんな……」

 出してくださいと何度も頼んでみたが、辛そうな顔をして「申し訳ございません」と謝るだけで、誰も私を部屋からは出してくれなかった。


「でしたら緑雨様を呼んでください、ここから出してくださいと彼に直接お願いしますから」

 侍女たちは首を左右に振ると、窓の外に目を向けた。私はその視線を追って振り返って窓の外を見た。

黒い雲が覆う天には、稲光が絶えず雲間に見える。ゴロゴロと鳴る雷鳴はひどい苛立ちと怒りを感じさせた。目を凝らしていると、遠くに小指の先ほどの小さな紐のような黒い影がうねるように揺れているのを見つけた。


 胸が締め付けられ、叫び出したくなるのを耐えて、窓辺に走った。

 両手をガラス窓について、必死で先ほど見た影を探す。

 あれは緑雨様だ、竜の姿になって飛んでいる!

 私は長い間窓に張り付いて、遠くに見える竜の姿を食い入るように追った。

 動かない私を気づかって、侍女の1人が私の肩を抱き「お身体が冷えますから」と座るように促した。

「この雨は……緑雨様が降らせているのですね」

「ええ、今朝は日の出前からずっと」


 私は窓から一歩も離れることはできず、ひたすら彼の姿を雲間に探し続けた。

 緑雨様は昼は第一層の改革で忙しく、夜は雨を降らせて休みなく働いているのだと仁永様が言っていた。そんな疲れた体で、彼はどうしてこんなにも激しく雨を降らせているのか。

 

 夜になり侍女達に寝支度を整えられ部屋に1人になった。1日中休まず雨を降らせ続ける緑雨様が心配で、眠ることなどできずに窓辺でずっと佇んでいると、深夜になりいきなり雨が止んだ。

 あれほど厚く空を隠していた雲は、霧が晴れるようにさらさらと消えて、星々の煌きが広がる。湖面は静けさを取り戻し、紅くぼんやりと光り出した。


 扉の向こうで男性の話し声が聞こえた。私の部屋の前には何人もの竜族の護衛がいて、今日からは私を守るだけでなく私をけして部屋から出さない命を受けているようだった。しばし間があった後、深夜にも関わらず侍女がやって来て扉を開け「主様がお越しです」と告げると、明るい廊下に背の高い銀色の髪が見えた。


 緑雨様だけが部屋に入って来て、暗い部屋に2人きりになった。窓から入る薄い紅色の光の中で、表情はよく見えなかったが、彼がとても疲れていることははっきりと分かった。

 緑雨様がゆっくりとこちらに歩いてくる。


 どうしていいか分からなかった。一日中心配していたから、すぐにでも駆け寄って労わりたかった。けれど、どうして私を部屋に閉じ込めたのか分からない。彼は怒っているのだろうか? 心配と不安と戸惑いが入り混じって、何も言えずにいると緑雨様は目の前に立ち、ゆっくりと右手を持ち上げて、私の頬を大きな掌で包んだ。


「冷たい! 緑雨様お身体がこんなに冷えて……」

 見上げると垂れた前髪は濡れているようだった。疲れ切った顔で優しく微笑んだけれど緑の瞳は力なかった。

「湯に入りましょう。すぐに体を温めないと!」

「ああ、寒いんだ。だから真砂が温めてくれ」

 言われた意味が分からずに、返事ができずにいると。緑雨様は私の手を引いて、寝台へ歩いて行く。

「もう眠っているのだと思っていた。心配して待っていてくれたんだな済まない。さあ、寝よう」

 当たり前のように、緑雨様が私を布団の中に入れようとする。どう見ても彼はこれから一緒に寝るつもりに見える。困ってしまい、私は後ろに下がって距離をとった。


「あの……あの……緑雨様はここで眠るの……ですか?」

 彼はどうしてそんなことを聞くのかと、不思議そうな顔をした。

「一緒に寝るに決まっている。昨日の夜、真砂が1人はもう嫌だと、ずっと一緒にいたいと俺に願っただろう?」

 竜の瞳の瞳孔が大きく開いて虹色を帯びる。妖しい輝きはあまりに美しく、目もそらせず息もできない。この獣に心臓を食われてもかまわない、何もかもこの人のものになりたいと思った。

「真砂?」

 低く吐息のように呼ばれると、喜びで体が震える。ああその腕の中に飛び込みたい。


 私の緑雨様。

 今すぐ抱きしめて温めてあげたいと切に思った。


 彼の指が私に触れるために伸ばされる。

『駄目』心の中で叫んだ。

 体を己の腕で抱くと、素早く後ろに逃げた。


「で……出て行ってください。一緒には寝られません」

「どうして! ずっと側にいると約束した」

 必死で首を振って目を見ずに、力を搔き集めて大きな声を出した。

「あれは、私の本心ではありません。幼い時のことを思い出して混乱しただけです。私は姫様のところへ帰りたい。緑雨様の側にはいたくありません」


 しばらく返事がなくて、どうしたのかとそっと視線をあげると苦し気に拳を握りしめる緑雨様がいた。

「真砂が、ようやく本当の気持ちを話してくれて俺は嬉しかった。どれほど辛かったか、どれほど頑張ってきたか…… でも俺は真砂の側にいてやれなかった。おまえが独りぼっちで怖い思いをしている時に助けることができなかった。それがどうしようもなく悔しい。おまえを虐げた何もかもが憎い」


 言葉の最後は息が震えて、緑雨様は苦し気に息を継いだ。

「もう、どこにも行かせたくない。真砂を守りたい」

「わ……私は、もう子供じゃありません。だから……守られなくても平気……です。緑雨様お願い……昨日の夜のことは忘れてください。私は少しだけ怖い夢をみたの。もう大丈夫なの。だから……姫様のところへ帰して……」


「帰さない」

 きっぱりとした拒絶の言葉は、恐ろしいほどに力を持っていた。この人は神様なのだ、人の身である自分が、神の決めたことに逆らえるはずもない。


 真っすぐな彼の瞳の中に強い怒りが見えた。

 緑雨様は怒っているのだ、何に対して? 私に怒っているの?


 けれど共にあった日々の中で、緑雨様は誰よりも私の心に寄り添おうとしてくださる方だとも知っていた。

「緑雨様は姫様を花嫁にすると約束してくれました。それに、姫様が花嫁にならなければ人界が百年も干上がってしまうと……それを防ぎたいと仰った。それは嘘なのですか?」

 緑雨様は震えるほどに拳を握り、口元に当てたまま答えなかった。苦し気に息を吐いては頭を振った。

「嘘ではない」

 絞り出すように言って、彼はきつく目を閉じた。


「それなら、私を人界に帰してください。今すぐに」

「だめだ……それはできない。おまえを傷つける者たちの所へなど帰せるものか……」

「だから私を閉じ込めるのですか? 私を姫様のもとに帰してください!」

「それが、おまえの本当の気持ちなのか?」

 静かに、けれど偽りは許さないという厳しい眼差しで緑雨様が私に問うた。


「私の……気持ち……」

 ぐっと湧き上がる思いを胸に押し込んで、私は真っすぐに緑雨様を見返した。


「私の気持ちなんて、どうでもいいのです!」

 姫様のご恩に報いるためなら、人界の水を守るためなら、私の気持ちなど何の価値があるのか。


「真砂の気持ちは、俺にとってこの世の何よりも大切なものだよ」

 ふっと微笑んだ愛おしむその眼差しは、狂おしく胸の芯を震わせてああと叫んで泣きたかった。


 そんなこと言わないで……どうしていいのか分からなくなる。

 怖かった、自分の信じるものが壊れて、甘えるだけの駄目な真砂になってしまう気がした。でも緑雨様は間違っている。私は生まれて初めて怒鳴った。


「緑雨様の嘘つき!」

 言ったと同時に、言葉が己の胸を刺した。胸の奥から悲しみが込み上げて、涙がこぼれそうになったが耐えた。


「嘘をついているのは真砂だ。帰りたくないのだろう? 俺の側にずっといたいと言ったではないか。おまえが欲しいだけいくらでも抱きしめるから…… 本当の気持ちを言ってくれ真砂!」

 彼があっという間に歩を詰めて、両手で私を捕まえて、胸の中に閉じ込めようとする。渾身の力で、両手を胸に当て、拒絶した。腕を振りほどいて走って窓辺まで逃げた。


「触らないで! 緑雨様の花嫁は姫様でしょう? 姫様を妻にするのに、私と寝るのは間違っています。だからもう私に触らないで、私も緑雨様に触らないから……」

 必死に耐えていた涙が、目じりからこぼれていく。それを流れるままに、私は叫ぶのを止めなかった。

「私の願いはただ一つ、姫様が緑雨様の花嫁になることです! 緑雨様は言いました絶対に人界を見捨てないって」


 それ以上続けられず、唇を噛んで泣くのを耐えた。泣くのは間違っている。

 私は悲しくない。

 私の本当の気持ちは姫様との約束を果たすこと。


 緑雨様は私を見つめて、狂おしいほど優しく微笑んだ。

「人界を見捨てない。だから待っていてくれ真砂。人界も真砂も必ず守ってみせる」


 緑雨様の言葉は、姫様を花嫁に迎えてくれる意味なのかよく分からなかった。困ったまま次の言葉を探しているうちに、緑雨様が背を向けて、扉に向かって歩きだした。

 慌てて追いかけると、彼は扉の前で振り返った。


「水が戻れば真砂はここにいられる。カンナベの姫に頼らずとも、俺の力で成し遂げる」

 竜の瞳が神々しい緑金の光を放ち、壮絶に美しい微笑みが私だけに向けられて睫毛から光の粉が散って闇に溶けていく。人の姿でありながら竜そのものがいるかのような、場の重圧に息をのむ。必ずやってみせると彼の決意がみなぎっているのを全身で感じた。


「紅玉湖の水を必ず取り戻してみせる」


 緑雨様が部屋を出る間際に、廊下に何人もの護衛兵が見えた。「けして彼女を部屋から出すな」と鋭い声で命じると、彼は振り返らずに行ってしまった。

 帰さないと言われた衝撃と、緑雨様に己が投げつけたひどい言葉の後悔で、苦しい気持ちのまま立ち尽くしていた。気が付くと雨音が聞こえた。


 窓を見ると視界いっぱいに、大きな竜の姿があった。

 金緑に輝く神々しい竜の大きな瞳がこちらを見ている。

「緑雨様行かないで!」

 力の限り叫んだ声が彼に届いたのか分からない。けれど銀緑の竜は空高く登っていき、すぐに星々は暗雲に隠されて雷鳴が響き出した。


 暗闇の空からまた雨が降り出した。


 

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