35.私の本当の願い
あれは10歳のお祝いに両親が選んでくれた赤い着物。
あのお屋敷は何だろう? いくつものお部屋とそれを繋ぐ長い廊下、中庭がいくつもあって……迷子になりそうな大屋敷、ああ、あれは私のお家だ。
あそこには父様と母様がいて……絶えず客人が訪れる、だって父様は……
ああ霧がかかる、不安の塊が胸に広がる。
思い出しては駄目……
ああでも、あの赤地に花と緑の葉の着物を知っているの……
私のお部屋にはあの赤い着物が飾られていたでしょう? だってもうすぐ私が10歳を迎えるお祝いをするの……その宴で着るのを私は心待ちにして……
母様は長い髪をたらして、美しい打掛を着ていた。
優しく微笑んで、私の髪をなでてくれる。
私も綺麗な着物を着て、そして母様といつも父様の帰りを待っていた。
忙しい父様が帰って来たら……
あの着物に初めて袖を通した日、母様と私はずっとクスクス笑いが止まらなかった。だって父様を驚かせるのだもの「ねえ見て、真砂にとっても似合うでしょう? 父様が選んでくれたこの着物……」
ドカドカと大きな足音。
突然帰って来た父様の烏帽子から乱れた髪がはみ出している。
父様帰ってきたのに、どうしてこんなに武士がいるの?
嫌だ、嫌だ、どうして父様を捕まえているの?
怖い、怖い、どうして母様まで連れていかれるの?
『真砂待っていなさい。これは何かの間違いだ、父は何もしていない。国主様は私の無実をすぐに分かってくださる』
『ああ真砂、待っていなさい。父も母もすぐに戻ります。待っているのです、いいですね待っているのです』
父様が引きずられていく、ああ、母様が泣いている。どうして二人を連れて行くの?
待って、行かないで、真砂を1人にしないで!
『真砂、必ず帰るから、待っているのです』
『とうさまー! かあさま―』
この着物を見たら、父様喜ぶと母様言ったでしょう?
私の10歳の宴をするのでしょう?
どこにいるの? いつ帰るの?
真っ暗闇の中、暗がりから手が伸びてきそうで怖い。だっておばけが怖いから、昼でも侍女に厠についてきてもらっていたの。こんな灯りの無い山の中で独りぼっちは無理なの、父様早く助けに来て。
凍える寒さで何日も眠れない。お腹が空きすぎて気持ちが悪い。
母様のお布団に入りたい。いつまでも甘えん坊さんねって頭を撫でてくれるでしょう?
怖いの、独りぼっちは怖いの。
「真砂! 真砂!」
私を呼ぶ声に、はっと意識が戻った。ずっと息を止めていたかのように、ハアハアと息を荒く継いだ。
「大丈夫だ真砂、ゆっくり息をしろ……」
背中をさする手が走る鼓動をなだめてくれる。
ここはどこ? 布団の中? 私は母様の布団の中に入れてもらっているのだろうか?
あたりは薄暗く、温かいものくるまれて、私は布団に横たわっていた。
新緑のような香り、大きくて硬くて温かい……リョクウ様の胸に顔をうずめて、逞しい腕が私を包み込んでいる。ここは、大丈夫な場所。
安堵とともに大きく息を吸いこんだが、吐く息は震えて一緒に涙がでてきた。
「リョクウ様助けて、父様と母様が連れていかれたの。槍や刀をもった怖い武士がたくさん来たの。父様は何もしていないって、無実だからすぐに帰ってくるって、でも帰って来ないの。どうしよう……父様と母様が……」
強く抱きしめられて、リョクウ様の鼓動が直接体に響いて来る。
「あの赤い着物を父様が選んでくれたの、だからとてもとても大切な着物なのに、やぶ、破かれて、捨てられて、お家から出て行けって蹴られたの…… 助けてほしいの、でも……だれも助けてくれないの……」
涙がどんどん溢れて来て、リョクウ様の胸が濡れる。押し殺すような声で「真砂」と何度も名を呼ばれ、ひたすら彼の胸にしがみついて泣いた。
「待っていなさいって父様と母様が言ったから。だから待っていたの。ちゃんと良い子で、泣かないで
待ってたの。ずっと、ずっと待ってたの。でも死んだって」
唇がわなわなと震えて声が上手く出せない、しゃくりあげて泣きながら必死で助けを求めた。
「皆が死んだって言うの。父様と母様は国主様のお怒りをかって処刑されたって、嘘なの、だって帰ってくるって約束したの……リョクウ様、どうしよう、どうしよう、助けてほしいの。父様と母様を……」
助けてともっとお願いしようとして「すまない真砂」と震える声に、悲しみが体からあふれ出して、ただ涙を流すことしかできないと思い出した。
もう自分は10歳ではないのだ。
時は過ぎて、待っても、待っても、もう父と母は帰って来ないのだ。
「真砂……おまえの父上と母上を助けることができなくて……ごめんよ。できることならば、その場にいて守りたかった。俺の全ての力を使ってでも守ってやりたかった。すまない……」
私は父様と母様が帰ってくるのを、諦めてしまったのだ。
約束したのに、待つのが辛過ぎて。
里の者達が死んだという言葉に、私は心が耐えきれなくて、父様と母様を……
大切な私の父と母を……忘れたのだ。
「ごめんなさい」
「何を謝っている。真砂が悪いことなど何もない」
「だって、父様と母様のこと……わすれ……た。酷い……むすめ」
「真砂が謝ることは何もない。辛かったな」
リョクウ様が髪も背も優しく撫でてくれる。
「怖かったの……ずっと怖かったの……」
心に押し込めて蓋をして、けして外に出してはいけない私の気持ちが、止めることができないままに、涙になってあふれ出す。言っては駄目と心の中で自分の声が聞こえたけれど、優しい指が、私の涙をぬぐってくれた時、気が付いたら言葉が出ていた。
「もう嫌なの、嫌なの、できないの」
少し体を離して、リョクウ様の両手が私の頬を包み込み、淡く光る瞳が見つめてくれた。優しく何もかもを包み込むように言ってごらんと告げている。
「もう1人は嫌なの。ずっとずっと側にいて」
リョクウ様の瞳が揺れて虹色になる。少しだけ痛みに耐えるように目を細めると睫毛から光の粉が闇に散った。
「真砂……」
添えられた一方の手が髪に差し込まれて、リョクウ様の顔が近づけられる。苦し気な吐息が唇に触れた。
「リョクウ様約束してくれた。ずっと抱きしめてくれるって、一晩中腕に抱きしめて眠ってくれるって、もう独りぼっちで眠るのは嫌なの。ずっと、ずっと一緒がいいの……だからぎゅーってして……」
言葉が終わらぬうちに、私の願いは叶えられ。息が苦しくなる程に強く抱きしめられた。
両手で彼にしがみつくと。もう怖くないのだと目を閉じた。
「ずっと一緒にいるから。大丈夫だ真砂」
大丈夫、ここは大丈夫、だってリョクウ様の腕の中にいるのだもの。
強く抱き付いていたのに、いつしか力が抜けて、温もりの中に包まれている。静かな湖に浮かぶ小舟のようにゆったりと水面を漂っているようだ。透明な水底に赤い光が続いている。
愛している。
緑の瞳の青竜はたった1人の花嫁を愛している。
心の中に誰かが話しかけてくる。それは言葉ではなく意識が流れ込む不思議な感覚。
見てごらん、実が赤くなった。
赤い実が水底で揺れている。
紅玉湖が笑っている……
姿が見えないのに、私にはそれが分った。紅玉湖が嬉しそうに笑っている。
幼子よ安心してお休み……
夢の中に漂いながら私も微笑んだ。
眠りたくないの、まだ緑雨様の腕の中にいる幸せを感じていたいの……
緑雨様と呼びたいのに……眠くて声がでない。
口をはくはくと動かすと、柔らかく温かいもので唇が包み込まれた。
意識はほとんど眠りに沈んでいて、ただ心地よく、唇を柔らかな温もりに押し付けて、そうして安心して眠りに落ちた。




