34.あの日の赤い着物
私の部屋の窓から眼下に広がる紅玉湖は見渡す限り紅色になった。
「紅玉の主様の花嫁への愛が深まるほどに湖は紅くなるのですよ、緑雨様の想いが日に日に強まって情熱的ですこと」侍女達がうっとりと微笑む。
「我らが花嫁様のお輿入れも間近ですね」
侍女たちはウキウキとして、困ったことに私と緑雨様の婚礼の準備を始めるという。
第一層の天狗が去った混乱は、緑雨様と仁永様の尽力で治まってきた。しかし今度は「主様の結婚式だ! おめでたや、おめでたや」と気の早い者達があちこちでお祭り騒ぎをしているのだそう。
第二層の鹿の階からは、高位の神様達が緑雨様のもとに頻繁に訪れて、結婚のお祝いの挨拶をしていくのだと侍女頭が教えてくれた。
緑雨様は竜に変化して私を守り、さらに紅玉湖が紅くなったことで、紅玉の主が花嫁を定めたことを疑うものは誰もいない。いくら否定しても、ここにいれば私が花嫁になってしまうことは避けられそうになかった。
もう数日の猶予も無い、私は明日にも人界に帰ることを決心した。
緑雨様がお住いの最上層にいる皆さんは、侍女から護衛から厨房の料理人、様々な使用人の方々がいるけれど皆さん本当に優しくて、私はここでとても大切にしてもらった。獣の耳と尻尾が付いていたり、魚の顔であったり、異形の姿に初めは驚いたけれど、今では誰に会っても安心して挨拶できる。料理長の牛鬼さんは「お味はいかがですか?」といつでも気軽に話しかけてくれる。
ここにずっといられたらいいのに……
何度諦めても、温かく優しいこの場所に未練が残る……
ああ……それでも私は……
人界に帰る準備をしようとして、何もすることなどないのだと気づき思わず笑ってしまった。
身ひとつで来たのだ。
去る時もまた、何も持たずこの体ひとつで行こう。
部屋には、緑雨様と揃えた数えきれない程の『私の物』がある。綺麗なたくさんの着物。金銀宝石の髪飾りに首飾り。裸足で生きてきた私に、草履や異国の靴までそろえてくださった。キラキラした水晶が天上からいくつも垂れて、そして大鉢に植えられた猫じゃらしは青々と茂って、穂を尻尾のように立てている。今は冬であるけれど、春の神でもある青竜の力で緑雨様が私の部屋を猫じゃらしでいっぱいにしてくれた。
大切にされるということを、この身は知ってしまった。
されど……全てはこの幸せな夢の中に置いていくのだ。
「主様がおいでです」
侍女の声に、私は1つため息をついた。
緑雨様は昨日と同じように「戻ってきてほしい」と私を説得にきたのだろう。
アオちゃんと緑雨様が部屋に入ってきた。
私と向かい合わせに絨毯に座ると、緑雨様は膝の中にアオちゃんを入れて抱っこした。アオちゃんは不服そうな顔で逃げ出そうとしたが、緑雨様ががっちり捕まえたので、諦めてポンっと子タヌキの姿になった。
ツキンと小さく胸が痛んだ。
緑雨様が私の部屋に来た時は、いつも私の隣に座って肩が触れていて、手を繋いでくれることもよくあった。それなのに、ナマズ翁に会った日から彼は私の近くに来ない。
『優しくする練習は終わり』と伝えたから、緑雨様はもう私に触れないのかもしれない。
2度と会わない決意をしているのに、少し距離を取られただけで悲しくなる自分が情けなかった。
胸が強く痛む、でもこうするしか道はないのだ。
「緑雨様、私は明日姫様の元へ帰ります」
彼は辛そうに眉根を寄せると息を吸いこんで何かを言おうとした。
「そんなのダメ―!!」
アオちゃんが緑雨様の言葉を遮って大きく叫んだ。
「こんなことになったのは全部緑雨様のせい!早く結婚しないから真砂様が逃げてしまうですです。今すぐがっちり抱きしめて、求愛するですです!!」
緑雨様の膝の上でばたばた激しく動いてアオちゃんが怒っている。
「アオ……俺は真砂には求愛できない。真砂に本当の花嫁を連れて来てもらうしか、紅玉湖を蘇らせる手は無いんだ……」
緑雨様の力ない声に、アオちゃんの怒りがさらに爆発した。
「緑雨様はなんにも分かってないですです。真砂様だけが花嫁で、他の誰も代わりになれないの! あなたのこの世でたった一人の番が真砂様なの! ここにいるみーんなそれが分るのに、どうして本人の緑雨様がこんなとぼけたことを。もうばかばか、このぽんぽんナスめ!」
アオちゃんは緑雨様の頭によじ登るとポカスカ叩いて、ばかナス、あほナスと怒っている。
「アオちゃん、お願い怒らないで、緑雨様を叩いてはだめよ」
アオちゃんはこちらを見ると、黒い大きな目がみるみる潤んだ。ぴょんっと飛ぶと私の懐に抱きついて下から必死の瞳で覗き込んでくる。
「真砂様は緑雨様が大好きでしょう? どうしてもう帰らないなんていうの? 本当の気落ちを教えてほしいですです」
「そうだ真砂、おまえの本当の気持ちが知りたい」
緑雨様も苦し気な瞳でじっと見つめる。二人の食い入るような視線に耐えきれず目を閉じた。
私の気持ちなんかより大切なことがあるのだもの。
「なあ真砂。俺に言いたいことや、してもらいたいことは無いか? 何でも言ってくれお願いだ。おまえの願いを叶えたいんだ」
目を閉じたまましばらく考えた。
そっと目を開けて、小さな声で聞いてみた。
「あの………私の気持ちを1つ言います。……私はずっと欲しいと思っていた物があるのです。とても高価なのですけど……緑雨様と選びたい物があって……」
二人の目がびっくりするほど大きくなって、嬉しそうにうんうん頷く。
「真砂が自分から欲しい物を言ってくれるなど無いことだ。どんなに高価でもかまわない、言ってくれすぐに買いに行こう」
「私……絹着物が欲しいのです。緑雨様のお母様の故郷の様式の服を何着も揃えていただきましたが、実は私の故郷の様式の着物を揃えたいのです。いいでしょうか?」
アオちゃんがポンっと跳ねた。
「呉服屋に行きましょう! さあ善は急げ今すぐに!」
アオちゃんの威勢のいい声とともに、緑雨様も立ち上がって「さあ真砂の欲しい着物を揃えるぞ!」と満面の笑顔になった。
「あの……私の着物ではなくて……」
二人の動きがピタリと止まって不思議そうな顔でこちらを見た。
「私は……姫様の婚礼衣装を揃えたいのです。お側でお仕えできない代わりに、せめて姫様の晴れの日の衣装を選ぶお手伝いをしたくて……」
緑雨様とアオちゃんは顔を見合わせると、がっかりしたように肩を落とし深くため息をついた。
鹿の階にある呉服屋さんに緑雨様は連れて行ってくれた。女神様達御用達の老舗には、天女の衣から、都人が着るような優美な着物から、まさに女神様のお召し物といった眩しい程に雅な着物まで様々に取り揃えられていた。緑雨様が店主に婚礼用の着物を見たいと告げると、溶けて広がってしまうのではと心配になる程に、店主は喜んでデレデレと笑ったあと。目の奥が燃えるように真剣になり、目にもとまらぬ速さで指示を飛ばすと、店を私達の貸し切りにした。奥の間に通されて、仕立てられた何着もの豪華な打掛と色とりどりの反物を広げてられて、まるで色彩の海原に放り込まれたようだった。
どれが良いかと聞いてくれる緑雨様の顔は、無表情であまり興味が無い様子だった。
私は1度だけ見た姫様の姿を頭に浮かべた。お美しい姫様にはどれもきっとお似合いになるだろうと思い、なかなか選ぶことができなかった。すると緑雨様が店主に勧められた1着を見て「これはどうか?」と聞くので、私が頷くとあっけなく金糸の刺繍の橙色の打掛に決まった。
目的を果たし、私はこれでお店を出るのだと思ったけれど緑雨様は普段使いの着物を見せてくれと店主に告げた。
一緒に来たアオちゃんが、私の肩に反物を掛けて試し出した。
「緑雨様見てください! これは紅玉の実が描かれていますよ。僕はこれが真砂様にぴったりだと思うですです」
「そうだな黄色地に赤い実が描かれて可愛らしい。よし、これは買おう。真砂の故郷の着物は、美しい絵が描かれているのだな。なあアオ、猫じゃらしが描かれた着物が無いか探してみよう!」
さっきまでやる気がなさそうに静かだった緑雨様の目が急に輝き出した。アオちゃんも広いお部屋なのをいいことに、畳の上に反物を何本も広げては、柄の絵を確かめて喜んでいる。二人はどう見ても私の着物を選んでいるようだった。
「あの、私の着物はいりません」
「真砂の欲しいものは買ったから、次は俺が欲しい物を選ぶ」
緑雨様はアオちゃんが次々広げる反物を見ては、2人ではしゃいで、これも良い、あれも似合いそうだと嬉しそうに選ぶのを止めてくれない。
店の者が運んできた仕立てられた着物を見た時、何故か背筋に寒気が走った。見てはいけないと咄嗟に思い、着物から目を逸らした。
急に心臓がドクドクと鳴りだして、呼吸が速くなる。
視界の先に見えた赤い着物……
赤い着物はたくさんある……けれどあの着物は特別な……赤に、緑葉の模様が……
「真砂には赤い色が一番似合うと思うのだ」
緑雨様がそう言ったとき、頭の中に同じ言葉が鳴り響いた。
『真砂には赤い色の着物が一番似合う』
太く低い男の声……
『そうねあなた……赤は本当に良く真砂に似合う。それに私は緑色も似合うと思いますの……』
優しい女の声……
「その着物を見せてくれ」
緑雨様が指さす先に、あの赤い着物が……
眼前に広げられた赤い着物、菊の花が一面に描かれている。赤い地色に浮き上がるように鮮やかな葉の緑色が……あの日と同じ私の着物……
「ああ良く似合う」
緑雨様の声と重なる、
『ああ良く似合うこと』
母様、父様……
視界がぼやける、遠のく意識の向こうに慌てた顔の緑雨様が見える。ぐらりと体が後ろに傾く、緑雨様が大きく叫ぶ声も、私に伸ばされる手も何もかもがゆっくりになって霞んでいった。




