33.寒い夜
真砂を部屋に送り届けると、俺は紅玉湖に戻るために、すぐに扉に向かった。
本当は真砂のそばに一晩中付いていたかった。しかし、何を聞いても悲し気にうつむくばかりの彼女に、これ以上きつく問い詰めることもできず部屋を出た。
人界に戻っても、必ず自分の元に帰って来ると、どうして真砂は約束してくれないのか……
今はただ、竜になり何も考えずに雨を降らせたかった。
回廊を大股に進み、大鳥居の丘へと続く大扉の前に着くと、難しい顔をして仁永が腕組みをして立っていた。
「今夜はおやめください緑雨様。7日間眠らず働いたのです、いくら神竜といえど休まなければ体に障ります」
俺はただ頭を左右に振って、目も合わさずに出て行こうとしたが、仁永に腕を掴まれた。
「なんだ緑雨……そんな怒りを自分自身に向けているのか?」
苛立ちに睨みつけると、彼は俺の怒気が不快なのだろう、顔をしかめて体を引いた。
悔しいことに攻撃的な俺の気持ちの揺れは、麒麟である彼に隠すことができない。今はただの兄として心配してくれているのが分った。
「……ナマズが……」
俺がナマズと口にした瞬間、仁永が緊張したように少し赤く発光した。
「真砂様は? まさか人界に帰してはいないだろうな」
「帰さなかった……でも真砂は今すぐにも人界に帰りたいと言うんだ。それで……」
口に出すのも苦しい、真砂に2度と会えないなど……拳を強く握る。
「真砂は……人界に帰ったら、もうここには戻らないと…… どんなに説得しても私はここに必要ないと言い張るんだ。なあ仁永、真砂はどうしてしまったんだろう? ここで俺とカンナベの姫と一緒に暮らすのをあんなに楽しみにしていたのに」
「1つ確かめたいのだが、おまえは今だカンナベの姫を花嫁にするつもりなのか?」
「そうだ。当たり前のことを何故確かめる? 俺たちにはカンナベの姫が必要だと決めたではないか」
仁永は黙るばかりで何も答えない。俺を見る目が馬鹿にしているような、いや哀れんでいるようにさえ見えてひどく苛ついた。
「緑雨……おまえ、本当は分かっているんだろう?」
「ああ、分かっている。一刻も早くカンナベの姫を花嫁に迎える」
ふっと仁永が鼻で笑った。おまえは馬鹿なのかと俺を嘲笑ったのだ。
「もう、放っておいてくれ。俺は雨を降らせに行く」
振り切って行こうとしたが、仁永は立ちふさがって「そうやって己の真実から逃げるのか?」と冷たく言った。
「真砂様に触れた男を許せずに、竜になって暴れたのは誰だ? 真砂様から離れないと喚いて、抱きしめていたのは誰だ?」
仁永の黒い瞳は燃えるように、強い意思で迫って来る。俺は目を逸らして唇を噛んだ。
「紅玉湖はおまえが花嫁を決めたから、実を紅くした。おまえは心を決めたのだろう? 生涯にたった1人の愛しい番を…… なあ緑雨、答えろ」
「俺の……花嫁は……カンナベの姫だ!」
下を向いて怒鳴るように叫んだ。
「俺は、正しい花嫁を得るべきなんだ。己の欲で花嫁をもらうために、紅玉の主になったのではない。父上は素晴らしい主だった。妖の巣窟で争いが絶えなかった荒れた第一層を、誰でも訪れることができる場所に変えた。力のある妖と神々だけの場所だった境界の館に秩序をもたらして、力ない者達にも開放したんだ。父上はこれから500年は主を続けられた。境界の館の皆がそれを望んでいた。それなのに俺はそんな素晴らしい父上を主の座から降ろしたんだ。何の力もない相応しくない俺が、唯一できるのが、正しい花嫁を得ることだ。紅玉湖の水を必ずもとに戻して見せると父上に約束したんだ!」
悔しさに、爪が食い込むほどに拳を握りしめる。
「それがどうだ、妖も神々も俺のことを坊主と呼んで、紅玉の主として認めていない。天雅の野郎が真砂を攫おうとしたのだって、俺が頼りなくふがいなかったからだ。紅玉湖の水はどんどん減って、あげくに俺は暴れて館まで壊してしまった。なにもかも上手くいかない…… それでも、真砂が希望を運んできてくれた。『カンナベの姫』だ。長老が教えてくれた言葉そのものの姫ではないか…… 俺は人界を救いたい。そのために主になった…… そうだろう仁永。俺が幸せになるために花嫁を選んでどうするんだ」
己が情けなかった。どうして上手くいかないのか。カンナベの姫を花嫁に迎えて、そして真砂も大切にする。それでいいではないか。それなのに、真砂も仁永も思った通りの答えを返してくれない。
「頭では無く、心で花嫁を選ぶこと。黒雨様と約束しただろう?」
仁永の静かな声に顔を上げて、黒い瞳を見た。
「心でもカンナベの姫を選んでいる!」
黒水晶の瞳が鋭く俺を射抜く、嘘は許さないと黒麒麟が断罪する。
「だったら真砂様のことは捨てろ。彼女が戻らないというのなら、もう2度と会うな」
何かを言い返そうとして、息を吸ったが言葉がでなかった。剣で胸を突かれたように、思考も体も固まった。
「い……嫌だ……それ…は、できない……」
考えることを体が拒否する。2度と会えないなどそんなことできる訳がない。
ここに来たばかりの頃は凍ったように無表情だった。それがようやく笑うようになった。
野の花が揺れるように、儚くて小さくて…… どうしようもなく可愛くて。
贈り物をすると目が大きくなって、びっくりした顔で俺を見る。自分がもらってもいいのか不安そうになって、おずおずと……「緑雨様ありがとう」と微笑む。
いいんだよと言って何度抱きしめたか。
もっと我儘になって、もっと欲しがっていいんだ真砂。
俺は真砂を守りたい。
真砂を守るために誰よりも強くなりたい、そう願うほどに、真砂の胸に包まれて子供のように抱かれたくなる。彼女はあんなにもか弱いのに、真っすぐで何ものにも負けない強さを秘めている。俺は彼女にけして敵わない、どうしてそう思うのか分からない。されどそれが真実なのだと初めから知っている気がする。
裸足で断崖に登って働き続け、野菜くずを食わされる。そんな世界に絶対に戻したくない。
真砂は悲しいまでに強くて、心も体もきっとぼろぼろにするまで働くだろう。
そんなことをさせるものか! 真砂はもっと自分を大切にするべきなんだ。だから俺が守って、与えて、もっと、もっと、彼女の望むことを、もっと……
「どうしてできない。おまえが大切にするのはカンナベの姫で、真砂様ではないのだろう? 彼女が戻らないと願うなら手放してやれ」
「お……俺は……両方大切にする。カンナベの姫も、真砂も……」
言葉を続けようとしたが、仁永の馬鹿にした笑いに遮られた。
「二人とも花嫁にする気なのか? 自分が何者なのか忘れたか、神獣は1人の番しか愛せない。二人の女を妻にできるはずもない」
「そういう意味じゃない…… そうじゃなくて……俺は、だから……真砂を側に置いて、生活に困らないように守っていくんだ」
「それで真砂様の目の前で、カンナベの姫を腕に抱いて愛してやるのか」
「そうだ!」
怒鳴るように答えたが、苦い思いが胸に渦巻いた。それを一番望んでいるのは真砂なんだ。それなのに、見知らぬ女を腕に抱く自分も、それを見る真砂の笑顔も上手く想像できなかった。
胸苦しさは強くなっていくばかりで、拳を握りしめて俯いた。
「俺は撫子しか愛せない」
仁永の静かな声に詰めていた息をやっと吐いて、恨めしい気持ちで彼を見た。
だから何だというのだ。おまえは勝手に好きな女を愛せばいいだろう。
「他の女を選べば、この世から争いが無くなると約束されても、それでも俺は、撫子しか愛せない」
「……仁永は麒麟だろう? この世の安寧よりも欲しいものなどないだろう」
仁永は遠くを見るような目で、諦めたように切なげに微笑んだ。
「もう、できないんだ。なにをどうあがいても……他の誰も愛せない。撫子だけが欲しい」
「仁永が撫子を気に入っているのは知っていた。でも、いつの間にそんなことになったんだ。おまえは伴侶が欲しいとも、恋がしたいとも言っていなかった。そんなことに興味が無いと思っていた」
「そうだ……私は恋などに全く興味は無く、どうでもよかった。でも気が付いたら、一本道に立っていた。選べる道はただ一つ。私のこれからの人生に撫子を求める以外の道は存在しない」
きっぱりとした言いように、自分の知っている仁永はどこに行ってしまったのかと驚きに目を見開くばかりだった。境界の館の秩序を保つにはどうすればいいか、そのことにしか頭を使っていない、合理的な無私の男だったのに。いったい彼に何が起こったのだ。
「だが私は……撫子に選ばれない。私にはもはや生きている価値も意味も無い気がする」
「ええ! どうしてそんなことになってる。おい、仁永ちょっと待て、俺は話しに全然ついて行けない」
ははっと自嘲の笑いをこぼして、仁永は力なく目で告げた。悲痛が胸に迫って来る。冗談ではなく、彼が死にそうな思いをしていることがはっきりと分かった。
さっきから馬鹿にしたような笑いを向けていたのは、俺では無く、仁永自身だったのだ。
「どうにもならない……」
仁永の苦し気な声は、己の心を映しているようで怖かった。
「いいんだ……私の伴侶にならなくとも、撫子が幸せになってくれるのなら、それは私にとっても幸せなんだと思う。だが苦しい、彼女が他の男と愛しあう関係になるのかと想像しただけで……」
仁永の黒髪が赤く発光する。彼は歯を食いしばって顔を手で覆った。
「狂ってしまいそうだ……だから、竜になって暴れたおまえの気持ちは分かる。だからこそお前に問う。緑雨よ、真砂様が他の男と結婚してもお前は平気なのか?」
「真砂は誰とも結婚しない。俺がそばに置いてずっと大切にする」
自分でも愚かなことを言っている自覚があった。情けなくてどんな顔をしていいのかも分からない。
「それでおまえは、彼女を鳥籠に閉じ込めて、別の女を抱くのか。自分が何を言っているのかわかっているのか。そんなことをしたら真砂様の幸せはどうなる」
ああだから、何度も言っているではないか真砂を大切にすると。
真砂の幸せのためならなんだってしてやりたい……
「真砂が望むなら……好いた男と結婚してもかまわない」
そう言うべきだと頭で判断したから口から出した。けれど砂を飲んだようにざらざらと喉を傷つけ、本心は言葉を飲み込めない。真砂に他の男が触れるなど、想像するだけで爪で切り裂きたくなる。
だが、暴れる心をねじ伏せて、紅玉の主として正しくあるべき理性を保った。
「アオを可愛がるのと同じだ。大切に見守って……時々頭を撫でてやる……それだけ……だ。いや……それもやめる。もう触れない……だからせめて……真砂には俺の目が届くところにいて欲しい」
心が乾いていく空しさがあった。だが、紅玉湖を蘇らせる為ならばなんだってするべきなのだ。紅玉の主となり、人界を乾きから救う大義のために、俺の望みなど砂粒のように軽いのだ。
もう何も考えたくなかった。強引に進んで大扉に手をかけた。
「今夜1日雨を降らせても、何も変わらないだろう。休むんだ緑雨」
「俺が雨を降らせることをみんな無意味だというが、真砂だけは認めてくれた。たとえ何も起きなくても意味がある日に続く1日なのだと」
「なにをそんなに焦っているんだ。紅玉湖の水枯れをお前1人で解決しようとするな。大鳥居の向こうから来た花嫁を迎えられるだけで大きな成果だ。しかもその相手を愛せるなんて奇跡みたいな幸福ではないか。どうしてそれを自ら捨てるようなことをする。1つずつできることを積み重ねていけばいい、真砂様を花嫁に迎えたら、紅玉湖が喜こんで水かさがもどるかもしれない。やってみなければ分からないだろう?」
仁永が優しく肩に手をかけてくれたが、俺は振り返らなかった。
「俺は父上がせっかく安定させた第一層の秩序も乱してしまった。天狗を追放したせいで、小さな諍いが絶えず起きる。それに紅玉湖の水かさも急激に減って異界への扉も幾つも消えてしまった。なにもかも俺がふがいないから」
「天狗のことはむしろ粛清して良かった。彼らはおまえを見くびって陰で暴利を得て不正を働いていた。おまえは信頼のおける者達と新しい境界の館を造っていけばいい。今日明日の変化を求めてどうする、おまえは紅玉の主になったばかりなんだぞ。これから30年、50年と年月をかけてやっていこう、私はずっとそばにいるから」
「50年などと簡単に言うな。真砂にとっては一生のような長さだ。人界をそんなにも長く干上がらせたくない。母上の祖先の地である人界を俺はぜったいに見捨てない。だって真砂が生きてきた場所なんだぞ」
大扉を開くと、冬の風が一気に吹き込んできた。神竜である体には温度が低いという感覚はあっても、寒いと感じることは無かった。けれど今夜は体の芯を凍えさせる寒さに身が震えた。仁永の言う通り眠らずに体を酷使して疲れているのかもしれない。
真砂を失うくらいなら、他の誰かと結婚してもいいから、無事な姿を見守っていたい。
触れることができなくても……
俺の花嫁にはできなくても……
それ以上は考えることができなくなって、大声で叫び声をあげたかった。
『生きている価値も意味も無い気がする』
仁永の言葉が胸の深くまで食い込んで体の中心から凍っていくようだった。
今はただ空を飛びたい。
ブルリと体を震わせてから、外に飛び出すと竜に変化し、澄んだ冷たい星空に向かった。




