32.帰ると約束してくれ
全身黒衣の濡れた身体は、紅い光を淡く反射して、ぬめぬめとどろりとした塊が立っているようだった。何もかもが黒いのに、白目のない瞳の黒色は、暗い穴が開いたようにひときわ暗く、引きずり込まれそうな恐怖にかられた。
「この娘を連れてきてから随分と日が経つというに、なにをもたもたしているか。紅玉の主よ、さっさとこの娘を嫁にしろ。実もなりだした、今すぐここで食べさせれば良い、さあ早く、今すぐだやってこい」
ぷすー、ぷすーっと荒く息を鼻から吐き出しながら、ナマズの翁は苛々と声をあげる。
ナマズの激しい言葉に緑雨様は冷静な声で「できない」と答えた。
「なんだと! どうして嫁にしない。ちょっと水に潜ってその娘の口に入れてやるだけだ。なにをもったいぶっている。今すぐやれ、ワシは実を食べたいのじゃ、まだまだ実は苦くてたまらん。早く紅く熟した実を食べさせろ!」
翁の髭は怒りと共にどんどん伸びて、あたりをバチンバチンと叩き出した。
「緑雨様……あの……どうしてあの方はあんなに怒っているのです?」
「大丈夫だ、ナマズは口が悪いだけで襲ってはこない。あの老人は紅玉の実を食べたいのだ。そのために歴代の紅玉の主に娘を運んでくる。紅玉の主が花嫁に湖底で紅玉の実を口移しで食べさせるのが、婚礼の儀式なのだ。人の花嫁は水中では息ができないから、そこで竜神は神気を娘に吹き込んで、永い時を共に生きる体にする。花嫁の体が本当の意味で神竜の妻となったとき、紅玉の実は甘くなる」
ナマズの翁は苛々と髭をくねらせ、黒目だけの妖しい瞳を光らせた。
「早くしないと間に合わなくなるぞ。紅玉湖の水の減りようはどんどん速まっておる。水が枯れれば、実も枯れる。その娘を花嫁にすることもできなくなるぞ。はやく紅玉湖を喜ばせろ、おまえが花嫁を迎えれば紅玉は一斉に熟すだろう。ああ食べたい、ああ食べたい。はやくその娘を……」
「真砂は俺の花嫁ではない」
緑雨様のきっぱりとした言葉に、酔って歌うように叫んでいたナマズの声がピタリと止んだ。
頬を弾かれたような衝撃を受けた気がした。
あれ? どうして私震えているんだろう?
手を上げようとしても力が入らない、体が震えて……
あれ? なんで…… なんで私の目から涙がでてくるの?
「俺の花嫁はカンナベの姫だ。まだ人界にいる」
あまりに冷静な緑雨様の声が私の胸を刃で刺した。
ひゅっと息を吸いこんだが胸に入っていかない。鋭い痛みが胸の中心から広がって、息ができない。
彼の声には何の迷いも無い。彼は私を花嫁にすることなど微塵も考えていないことが、ありありと伝わって来る。
とうとう立っていることができず、その場にへたり込むと。緑雨様が慌てたように屈みこんで、心配そうに体を支えてくれた。
ああ優しい……緑雨様はお優しい……
だって、優しくする練習をしてほしいと、私がお願いしたのだもの……
私の望み通りではないか。
姫様の為に、優しくする練習を私で試して、姫様を花嫁に迎えてくれる。
緑雨様は私を花嫁に望んでなどいないのだ。
いいではないか……
それが……私の……一番の……望みで……
涙がぼろぼろとこぼれて止まらない。私の心が出ていく。どんどん出て行って早く空っぽにして欲しい。愚かにもあなたの花嫁になることを私は望んでいたのだ。それが叶わないのだと知って悲しいと心が叫んでいる。なんと愚かで、欲深い……
私はどこかで緑雨様が私だけを愛していると……
姫様では無く私を選ぶのだと思っていたのだ。
ああ、緑雨様に気づかれないうちに、早く早く、こんな気持ちは消えて欲しい。
体が震えて、立つことができずしばらく声を殺して泣いた。緑雨様が抱き上げようとするのを、手で払いのけた。己を奮い立たせる。私には役目がある、それが終わったら消えることもできるだろう。
「ナマズ様どうか私を元の場所に帰してください。そうしたら本当の花嫁を私がお連れしますから、今度こそ本当の花嫁を」
渾身の力で立ち上がったがよろめいて緑雨様に支えられた。
「真砂、今行くというのか? 約束してくれ必ず帰って来ると」
私は涙をぬぐうと、大きく首を左右に振った。
「姫様を必ず送るから……緑雨様どうか姫様を……愛して」
生臭い風が吹いて、ナマズの息が荒くなった。
「ワシは誰でもかまわん。その娘が気に入らないのならば、新しい娘に取り替えようぞ。ワシは実が食べたい。ああ苛々する、早くしろ、行くぞ娘」
ナマズの翁に向かって歩き出した時、右の手を緑雨様が掴んだ。
「真砂、帰って来ると約束してくれ」
私は黙ったまま振り返らずに進もうとした。けれど力強い手は私を行かせてはくれなかった。
「真砂がここへ帰ってくると約束してくれるまで、俺は行かせない」
『行かせない』その言葉に喜んでいる自分がいる。大鳥居の周りが紅くぼんやり光っている。あそこへ行かなくては…… そう思うのに緑雨様の手の温もりを離す勇気が私にあるのか分からなくなった。
「紅玉の主よ、その娘を手放したくないのなら今すぐ嫁にすればよい」
苛々としたナマズの怒鳴り声にも緑雨様は答えない、ただきつく私の手を握っている。
「ああ面倒なことだ。坊主お前はあまりに若く、嫁を迎える準備もできていないのか。よろろう、しばし待ってやる。だが長くは待てぬ」
「見ろ」と叫んでナマズ翁が大鳥居に目をやった。
「紅玉湖の水かさは減り、あの大鳥居は姿を外にさらしておる。あの鳥居の柱の土台は太くなっているのを知っているか? あの土台よりも水かさが減ったなら、ワシとてもう人界には行けなくなる。紅玉の主よ、あの鳥居の土台が水面に出る前に、己の心を決めるのだ。よいな」
最後の言葉が消えぬうちに、黒服のナマズの翁は闇に溶けるように姿が見えなくなった。
長い事、私達は黙ったまま、紅い光に浮かぶ大鳥居を眺め続けた。




