31.色づく紅玉の実
7日が過ぎたが緑雨様は帰らなかった。境界の館の秩序を戻すため緑雨様と仁永様は不眠不休で働いているのだとアオちゃんに教えてもらった。
神竜様でもそんなに無理をしてお体は大丈夫なのかと心配になる。自分が原因の事件が発端で境界の館が壊れたのだ。申し訳ない気持ちで日々を過ごした。
会えない日が続くほどに、焦がれるように彼を待った。
会いたくて、会いたくて、そして会いたくなかった。
緑雨様に会ったら告げねばならない、もうお別れなのだと。
『緑雨様は姫様のもの』
決心が揺るがないように心の中で自分に言い聞かせた。
窓の外の湖を眺めた。
夕暮れに遠くの空は茜色になり、湖水は青く静かに広がっている。けれど手前の大鳥居の周りは、紅色に染まっている。青と紅の不思議な色の混ざり合いは、まるで己の心を映すように、相容れない反対の色を隣り合わせて混沌としていた。
侍女が『主様のお帰りです』と告げた。驚きに振り返ると同時に扉が開き、緑雨様が私の部屋に入ってきた。
「真砂」
その声と、微笑みに心が一瞬で捕らわれる。不安も、苦しさも、全ての感情が霧散して、強烈な喜びに体が支配された。
疲れた顔が嬉しそうに大きく笑って、口に牙が見えた。大股で足早に近づいて、大きな手が前に差し出される。
はっと息をのんだ時には、もう彼の腕の中にいて強く抱きしめられていた。
頭の芯が痺れるような幸せに、何も考えられなくなった。胸に顔を押し付けて強くしがみついた。深く息を吸うと新緑の心地よい香りで満たされた。
「会いたかった」
私が伝えたかった言葉を緑雨様が耳元でささやいた。
どれくらい抱き合っていたのか、いつの間にか日は暮れて、部屋はぼんやりと藍色に包まれて薄暗くなっていた。
「真砂見てごらん、紅玉が光っている」
緑雨様が腕を緩めて、私を腕の中に入れたまま窓の方を見るように促した。大鳥居のあるあたりが、淡く光っているように見える。
「光る湖を見に行こう」
緑雨様が優しく微笑んだ。
冬枯れた湖畔には冷たい風が吹いていた。侍女たちに仕度してもらった上着で温かかったが、吐く息は白い煙になった。緑雨様に手を引かれ、夜の小路を降りていく。振り返ると煌々と光り輝く境界の館が闇に浮かんでいるようだった。
丘を降りていくと、境界の館の光は遠く届かなくなり、天上には満天の星と三日月が輝いている。遥か広がる湖水の深い闇が静かに波打っていた。
緑雨様が立ち止まり大鳥居を指さす。そこだけが淡く紅色に発光して、夢の中にいるような妖しくも美しい色をしていた。
「紅玉の湖の実が赤くなったと、皆が喜んでいる。これからもっと実がなれば、湖は元の紅色になるだろう」
紅玉湖はその名の通り紅色をしていたのだと緑雨様は教えてくれた。
彼のお父様である黒雨様が花嫁を迎えた時から湖は紅くなり、緑雨様が子供の頃には湖全面が紅色だったそう。湖底に生える紅玉という実が、熟すと紅くなり夜には発光するのだそうだ。
「父上が紅玉湖を去ったとたん、湖底の実は全て枯れた。境界の館に暮らす者達はひどく落胆した。俺も紅玉湖に拒絶されたような気持ちだった。でも、またこうして実がなりだした」
緑雨様の瞳に淡い光が映って、瞬く星のように美しかった。
「どうしてまた実がなったのでしょう」
「さあ……気まぐれな紅玉湖の本当の気持ちは分からない。けれど、紅玉の主が花嫁を迎えると、湖が紅色になると伝えられている。だから……俺の花嫁が決まったのだと紅玉湖が思ったのかもしれない」
穏やかに話す緑雨様の言葉の意味が、私にははっきりとしなかった。
急に胸が苦しくなる。
緑雨様の花嫁が決まった。それは姫様のこと? それとも……
つないだまま離れない手に思わず力が入ってしまうと、緑雨様が「ん?」と優しく問う瞳で見つめてくる。
花嫁が姫様のなのかを確かめる勇気をだせないまま、私はその手を離した。
「緑雨様に差し上げたい物があって…… 私が初めてもらった給金で買ったのです。それにアオちゃんが細工を施してくれて……それで、すごく小さいのですけど……その」
恥ずかしさにそうっと差し出した指輪を見て、緑雨様の睫毛から光の粉が散った。
「ああ俺の色だ。綺麗だな……」
緑雨様はすぐに左手の人差し指に指輪を嵌めると目を閉じ、そっと石に口づけた。
「ありがとう。これでいつでも真砂を感じていられる」
唇を指輪から離さずに、緑雨様が囁くように告げて私を見ている。どうしようもなくあの夜の口づけのことを思い出してしまい、私は一歩後ろに下がった。
下がる私の背を、緑雨様の大きな手が支えるように捕まえた。離れようとするのに、すぐに右の掌で、頬を包みこまれた。
「俺もお返しに石を贈ろう」
緑雨様は目を細めて微笑むと、彼の目じりの下に付いている石を一つ爪で剥がした。不思議な思いで見上げていると、その石を私の左の耳たぶに押し付けた。
ビリっと一瞬焼けるような刺激があった。驚いて体をびくりとさせると。痛かったか? と緑雨様の声が耳のすぐ横で聞こえて、吐息が掛かった。
「この石には俺の神力が込められているから、邪気を払う。真砂を守るからいつでも付けていてくれ」
耳元でささやかれると、体が震えてしまって緑雨様の胸にしがみついてしまった。彼にゆるく抱きしめられたまま、唇がそのまま耳に押し付けられた。
「ひゃっ」
私の声に笑った彼の吐息がまた耳に掛かる。こんなのは駄目、早く離れなければ……
緑雨様の胸を押して、彼の腕から出ようをするのに彼は軽く笑うばかりで私を離してはくれなかった。
「真砂どうした、怒っているのか? あの夜から1人にしたから…… 一晩中抱っこすると約束したのに」
紅くぼんやりとした光に包まれて、これは夢なのか現実なのか分からなくなった。私は緑雨様の腕の中にいて耳元で囁かれる吐息が熱い。
「1人で眠るのは怖かったか? 今夜からはそばにいるから……」
大きな手が私の頬を包むと彼の親指が私の唇にそっと置かれた。ゆっくりと優しく指が唇をなぞる。
駄目、これはいけないこと……頭のなかで叫ぶのに、まるで縛られたように体が動かない。緑雨様の目が淡く発光して緑の中に虹色が混じる。愛おしむような眼差しが、胸の芯を甘く痺れさせる。
「ここにまた触れたい……」
彼の指はもうずっと私の唇に触れているのに……どうして……
それは……緑雨様の唇で触れたいと……
彼の唇が近づいて、指1本の距離で止まる。
「してもいい?」
「……だ、だめ」
ふっと吐いた彼の吐息が唇にかかると、それだけでとろけるような心地がした。
「どうして? 優しくしろと言ったのは真砂だろう?」
胸が跳ねて甘く痺れる。ああもう抗えないと思った。何もかもどうでもよくなって、口づけられることを全身で望んでしまう。
それでも必死に耐えた。
「だめなの…… だめなの…… 優しくするのは……もうお終い」
「どうしてだ。どうして駄目だと言う。俺はもっと、もっと真砂に優しくしたい」
苦し気な声と共に両肩を持たれた。緑雨様の瞳が戸惑ったように覗き込んでくる。
目をぎゅっと閉じた。暗闇の向こうに己の現実を見ようとした。
緑雨様の腕の中は……私の場所ではない。
目を開き、大きく息を吸うと一歩下がって緑雨様から離れた。
「私は、姫様の元に帰ります」
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消えて、緑雨様の竜の目が険しくなった。
「まだ……行かなくていい……真砂はもっと……」
彼の言葉を遮って、私は決意を込めて告げた。
「もう充分この地を見て回りました。姫様を迎えるのに何の心配もいりません。全ては姫様に相応しいのです……なによりも竜神様は……お優しい。姫様を必ず大切に愛して……くださると……」
愛してと口にしたとき、胸が酷く痛んだ。けれど笑顔を無理やり作った。
「竜神様は姫様を誰よりも愛してくださると……真砂は信じています。それで……」
緑雨様は眉根を寄せて、口を結んだまま何も言わない。己の決意を告げねばならない。大好きな姫様と緑雨様の隣で生きるという幸せな夢を見た。でもそれは叶わないのだ。己の浅ましさ故に。
「私は姫様をこの地にお連れしたら、もうお二人には会いません。撫子さんのそば屋を手伝って、下層のカラスの階で暮らしていこうと思います。せっかく私のお部屋を造っていただきましたが、あそこには帰りません」
ブワリと気の塊のようなものが緑雨様の体から発せられた。悲しみと戸惑いが混ざったそれは私の心を揺さぶった。驚きの瞳で緑雨様が私に手を伸ばす。私はまた一歩下がった。
「どうして? おまえの好きな姫様と一緒にいられると、あの部屋で暮らすのをあんなにも楽しみにしていたのに。そして……ずっと、ずっと俺のそばにいると言ったではないか!」
「あの場所に、私はいらないのだと気づいたのです。何もかも全ては姫様のもの」
緑雨様……私の大好きな緑雨様。
あなたは姫様のものなの……
「だから……なにも頂戴することはできません」
「そんなことは無い。俺が贈ったのは全て真砂のものだ。真砂の為に用意したんだ。俺はおまえを蔑ろにしたりしない。大切にする、おまえを俺のそばに置いて、ずっと、ずっと大切にするから」
緑雨様が必死に伝えてくれる言葉は、真実なのだと分かっている。きっと私を大切にしてくれるだろう。でも……あなたが姫様を愛するのを目の前にしながら、私は笑えるだろうか? あなたの腕の中にいる姫様のことを考えただけで……ああどうして、私はこんなにも醜い心になってしまったのだろう。
「緑雨様は大人になったらどうしたいかと私に聞いてくれました。私は撫子さんと働くのが楽しいです。ですから人間らしく慎ましく働いて、人として生きていきたい。湖を救う尊いお役目の姫様や竜神様を、本来の私は拝見するのも叶わない身の上です。どうか遠くから拝むことはお許しください。お側で暮らすなど、私にはできないことなのです」
緑雨様はしばらく黙って荒ぶる心を鎮めるように深く息を吐いた。
「どうして急に俺から離れようとする。俺は真砂に何かしてしまったのだろうか…… 何か嫌なことがあるのなら改めるから言ってくれ」
「嫌なことなどなにも……緑雨様はお優しいです、ずっと感謝しています。私は自分でしたいことができたのです、だから撫子さんと……」
パッと竜の目が光って、緑雨様がぐいと迫って来た。
「ならば今まで通り、俺の住まいから撫子の店に通えばよい。それに、仁永は撫子を嫁にするつもりだ。そうしたら撫子は仁永と一緒に暮らす。どっちにしろ、撫子の住まいは俺の住処になるのだぞ。だから真砂が下層で暮らす必要はない、俺のそばにずっといればいい」
「そん……な……」
せめて境界の館に暮らして、遠くから緑雨様と姫様の幸せを願って生きていく道を探せたと思った。けれど撫子さんが仁永様と結婚したら、私は妖ばかりの下層で1人でやっていけるだろうか。今は緑雨様やアオちゃんが守ってくれる偽花嫁だけれど、すぐに妖に攫われる人の身で、1人で生きていくにはここはあまりに危険な場所だろう。
最後の望みも断たれたのだと分かった。
緑雨様が困った顔で私を見ている。笑うと少年のようになる顔が、出会った時から私を安心させた。神様なのに、幼子のようにも見えて頭を撫でてあげたくなる。でもこの方は千年の時を超えて生きる神獣様で、人の世を干ばつから救うために本当の花嫁を必要としている方なのだ。
頭の中を空っぽにして……
心も何も感じないように……
寒く、孤独で、飢えていた時、私はずうっとこうやって生きてきたではないか。できる、10歳の時からこの6年の間、毎日できたのだもの、きっとまたできる。
何もない、何も感じない真砂になれる……
私の唯一の望みは姫様のご恩に報いること。
「ならば……私はもう帰りません。人界に戻り必ず姫様を緑雨様の元へ送ります。でも私は人界に留まります。また薬草採りの仕事をさせてもらって生きていきます」
「だめだ!」
荒ぶる悲しみの塊が、心の中に直接響いた。あまりの激しさに皮膚がビリビリするほどで、緑雨様はそのまま感情を堪えられず竜になってしまうかと思った。
逃げる隙など一瞬もなく、強く抱きすくめられた。指が髪に絡まり、息ができないほどに彼の胸に押し付けられる。「だめだ、だめだ、絶対にだめだ」苦し気に繰り返しながら、彼の手が私の髪をかき混ぜる。
「嫌だ、嫌だ。真砂が帰ってきてくれると約束しないなら、俺はおまえを人界には行かせない!」
驚きに、息をのんだ時、生臭い風が吹いた。
「うだうだと、何をのんびりとやっているか。いつまで待たせるのだ」
足元から鼻の詰まったのっぺりとした低い声がした。緑雨様が私をかばうように身を引いて、声の主を見た。
黒い影がぬらぬらと立ち上がり、私をこの地に連れてきたナマズの翁が現れた。




