30.救いの言葉
下層に降りると、崩れ落ちた柱や天井の修理で、大工達が至る所で作業していた。竜族の兵士があちこちで見回りをしており、広場にいつも出ている屋台はなく、いつもの賑やかな人出は無かった。
天狗達が居なくなったことで、下層は取り仕切る者達がいなくなり混乱しているようだったが、私の顔を見ると皆特別扱いをしてくれた。
「ああ主様の花嫁様がいらっしゃった」
皆そう言って頭を下げて、作業の手を止める。行列を作っていた下層への階段では、私の為に皆がすぐ道を空けてくれる。
「花嫁様、花嫁様……」
声を掛けられるたびに、私は情けなさにうつむいて顔を見られないようにした。
撫子さんはいつもなら忙しく屋台でそばを売っている時間だったが、今日は自宅の長屋に居た。
彼女は「いらっしゃい」と微笑んで、私とアオちゃんを招き入れてくれた。お茶の用意をするからと土間に行く彼女の背に「撫子さん、私……決心しました」と大きく呼びかけた。
早く言ってしまわなければと、己を叱咤した。今言葉にして出してしまわなければ、もう言えなくなってしまう。言いたくないと必死で暴れる心を無理やりねじ伏せた。
大きな声に驚いた撫子さんが振り返り私を心配そうに見た。
「私……私……姫様の元に帰ります」
「人界に戻られるのですか? 何時行くのです?」
「あ……明日にも」
アオちゃんと撫子さんがびっくりして顔を見合わせる。二人が何かを言う前に、私はまた大きな声を出した。
「向こうへ帰ったら、すぐに姫様をこちらへ送ります。それで……それで……」
拳を爪が食い込むほどに強く握りしめる。
「私はもう……ここへはもどりません」
アオちゃんがポカンと呆けた顔になって「なんで?」と呟いた。私が答えずにいると、大きく見開いた瞳がじわじわと潤んでいき私に取りすがった。
「なんで? なんで? 花嫁様がいなくなったら緑雨様はどうなるの? ヤダヤダ、真砂様どこにも行かないで」
アオちゃんに泣かれると、胸をザクザク刺されるようで私も声をあげて泣きたくなったけれど唇を噛んで耐えた。
撫子さんがアオちゃんをなだめて「二人で話をさせてちょうだい」と告げると、アオちゃんはぎゅっと私に抱きついた。
「外で待っていますですです」
アオちゃんは泣き出しそうな瞳で私を見つめると、青火になって出て行った。
撫子さんは私を座るように促すと肩に手を置いて優しく見つめてくれた。
「真砂様、どうして帰って来てくれないのです? あなたは緑雨様の元で暮らすことをあんなにも楽しみにしていたのに」
「やっぱり……平気じゃ……ないの……」
緑雨様のお部屋と、私のお部屋の間に姫様のお部屋を造る。緑雨さまの隣に姫様をお迎えすることをどれほど幸福に思ったか……それなのに……
「撫子さんが前に聞いたでしょう? 緑雨様と姫様が愛し合う隣の部屋で暮らしてもあなたは平気なのですかと」
撫子さんは何も答えなかったけれど、その目には切なげな寂しさが映っていた。彼女は初めから知っていたのだ。私が平気ではなくなることを。
「私は…… 姫様のお側にいる資格などないのです……」
愚かな自分を知られることが恥ずかしい、けれど、どんなに己を叱咤しても湧き上がる想い……
「交合が何をすることか侍女達が教えてくれました。それから頭の中がぐちゃぐちゃになって、そのことばかり考えてしまう。緑雨様が姫様と結婚したら愛し合うのだと想像すると苦しいの。それが私の望んでいたことなのに……」
こぼれそうになる涙を必死で耐えた。泣くのは間違っている。だって悲しいことなど何もないはずだ。竜の世界を見て来なさいと神辺当主に命じられ、言われた通りに見て回った。全て姫様に相応しく、竜神様はこの上なく優しい。
緑雨様はきっと姫様を愛しんで大切にしてくださる……
私にしてくれたように……強く抱きしめて、優しく触れて、そして…… もっと……
「緑雨様は姫様を必ず花嫁にすると約束してくださった。こんなに嬉しいことは無いのです。何もかも素晴らしくて、あとは姫様に来ていただくだけ…… それなのに……それなのに……私は……」
続きを言おうとしてもあまりに苦しく、涙を堪えることしかできなかった。
なんと愚かな……
父も母も思い出せず自分が何者なのかも分からない。ぼろ着を巻いて、残飯を食べて、冷たく硬い床で眠る。どこにも行けない、何者にもなれない、ただ、ただお慈悲で生かされて、いつかは崖から落ちて死ぬ、それが私。
緑雨様に優しくされているうちに、私はなんと強欲になったのか。贅沢な暮らしに慣れて、とうとう私は……姫様のものに手を伸ばして……
針を飲むように、己の心を認めることが胸に突き刺さり苦しい。
撫子さんが背をさすってくれる。
「良いんですよ、言ってごらんなさい」
「待って……いたの。いけないことだと分かっていたのに……。昨日も、一昨日も、あの夜も…… 緑雨様が来てくださるのを……私は一晩中待っていて……」
私は撫子さんの胸に縋るように抱きついた。
「私は……もう一度してくださるのを…… 口づけを…… 望んでいたの…… ごめんなさい、ごめんなさい、駄目なのに、こんなことを望んでは絶対に駄目なのに、私は愚か者で…… こんな私が望んではいけないことなのに……」
「真砂様のどこが愚か者なのです。命をかけてお役目を果たそうと頑張っている。真面目で一生懸命で、義理堅い。あなたは緑雨様の花嫁にとても相応しいと私は思う。緑雨様もそんなあなたが好きだから口づけなさったのでしょう? なにも悪いことなどないですよ」
私は必死に首を振った。
「違います。緑雨様は姫様のものです」
「緑雨様は誰のものでもないですよ。それに真砂様も誰のものでもない」
意外な言葉に私は顔を上げて彼女を見た。
「私は姫様のものです。この命は姫様がいなければ今ここにはないのです」
「誰かが命を守ろうとするのは、その命を尊いと思うからでしょう? 命を救われたら、その人の物になるなんて決まりはないですよ。それよりもっと大切なのは、せっかく救ってもらった命をどう使うかです。真砂様は自分の命をもっと大切にしなければなりません」
私がなんと答えていいか分からずにいると、撫子さんが困ったように笑った。
「同じことを緑雨様にも言われたでしょう? 真砂は姫様を思うのと同じくらいの強さで自分のことを大切にしろと…… ねえ真砂様、あなたが望むなら緑雨様の花嫁になっていいのですよ。どうしたいのか自分の心に聞いてみて。正直な望みを言って欲しいの」
「私は神辺家のご当主様に帰って来るように命令されました。何より姫様は私を信じて待っていると仰った。お二人を裏切って自分が花嫁になるなど、そんなことできません」
「でも……あなたが約束を破ったところで、誰も罰しに来ませんよ。真砂様のように命をかけてこの地にやって来る者などいないでしょう。いいではないですか、帰らずにここで自分が花嫁になれば。あなたが帰れなければ向こうの姫様は真砂様が湖で溺れて死んだと思うでしょう、それだけのことです」
彼女の言葉は、初めて口にした温かい粥のひと匙に似ていた。目の前にある湯気を立てた美味しそうな一口。あの時、食べてはいけない気がした。とても悪いことをしてしまう気がした。私がこれを食べる資格などないと思ったからだ。でも、あの粥を口にした時から、私は次々と与えられるものを喜んで受け入れた。あれも、これも、緑雨様が与えてくれる物すべてを……私の物だと……
そして今、花嫁の地位さえも、手を伸ばし私のものにしようとしている。
私が帰らなければ死んだと思われるだけ、撫子さんの言う通りなのかもしれない。
「それでも……私は……姫様を裏切りたくないのです」
私はしがみついていた撫子さんから体を離した。
「姫様は1度も『おまえは私の物だ』と私に命令したことはありません。それでも、私が崖から落ちた10歳のあの日から生きてこられたのは姫様のお陰なのです。姫様に恩返しがしたい、私は姫様の為に生きたい。それが私の正直な気持ちです」
撫子さんは寂しそうな顔で深くため息を吐いた。
「そう……でもこれだけ一途な真砂様だからこそ、紅玉湖もここへ招いてくれたのかもしれませんね。分かりました、真砂様の決意を応援します」
撫子さんは励ますように肩をポンポンと叩いて笑顔を見せてくれたので、私も笑おうと頬に力を入れた。
「確かに、私達人間にとって神獣様はあまりに神々しく遠い存在……花嫁になるなんて想像もできないこと。ねえ真砂様、境界の館は、妖が市を立てるこの一番下のカラスの階から、神様達が観光に訪れる白鹿の階、そして主さまの住処である最上階と3層で出来ていると思っているでしょう?」
私はその通りだと思い頷くと、撫子さんは首を左右に振った。
「このカラスの階に暮らす私達にとって、上階はめったに登れる場所では無いの。一生に1度くらいは、貯めたお金を全部使って、上の料亭で食事をしてみたいとみんな夢みてる。でもほとんどの妖達は階段を登ることもできないの。だから、最上に暮らす神竜さまや麒麟様にお会いするなんて奇跡みないなもの。私にとっての境界の館は、この最下層のカラスの階だけなの、上層は見上げるだけの別世界。神獣様が何を考えているのかなんて、私達人間には分かるはずも無いのかも……」
撫子さんは切ない目で私を見た。
「仁永様にお会いできて、ほんの束の間だけれど夢のような時間を持てた、私はそれだけで幸せ。真砂様も同じかしら、主様の側でほんの少し夢をみたのだと……ねえ、私達はこれから人間として生きていきましょうよ。真砂様はその姫様を連れてもどったら、もう上層の緑雨様の住まいを離れて、ここに降りてきたらどうかしら。私とそば屋をしてみない? 働いているうちに自分でしたいことが見つかったらそれをしたらいいの。真砂様が生きられる場所はここにもきっとあるはず。緑雨様のお側で暮らすことができなくても、同じ世界で生きていくことはできますよ」
それは意外な救いの言葉だった。
緑雨様と姫様が愛し合うのを、目の前にしながら生きていくのはとてもできないと思った。ならば自分が消えるしか方法が無いのだと苦しさに胸が潰れそうだった。けれど、このカラスの階で暮らせば、遠く緑雨様と姫様を見上げながら、お二人の幸せを願いながら生きていける気がした。




