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29.私が何者だったのか思い出せ

 緑雨様が竜に変化して境界の館を壊しかけた夜、私は侍女たちに磨きあげられ、体から滑り落ちてしまいそうな薄い寝巻を着せられて寝床に入った。

 侍女に1つ1つ丁寧に説明された閨なるものが、頭の中を埋め尽くし呆然と固まっていた。瞬きできていたかもわからない、目と口を開けたまま一睡もせずにいると夜が明けた。

 緑雨様は結局帰って来ず、それから3日たったが私はまだ彼に1度も会えていない。


 紅玉湖の水が、ほんのりと桃色に色づいた。

 最上階の窓から見下ろすと紅玉湖の澄んだ青色がどこまでも広がっていく。けれど大鳥居の周りだけ、うっすらと桃色になり、日に日に紅色を増しているようだった。


「真砂様、また手が止まっていますですです」

 アオちゃんに言われて私はハッと意識を戻す。


 帰らない緑雨様を待ちながら、私はアオちゃんと部屋で小さな石を磨いていた。新月の祭りで買った翡翠の石を指輪にして緑雨様への贈り物にするために、この3日間ひたすら作業に没頭していた。


 アオちゃんは緑雨様の身の回りのお世話から雑用からなんでもする近習だと聞いていたが、彼がするのはもっぱら緑雨様のお召し物と宝石の管理なのだそう。アオちゃんは飾りや服の仕立てもする。それは素晴らしい器用さで金銀を細工して緑雨様の飾りを手造りする職人さんなのだ。


「アオちゃんが手伝ってくれるから、素敵な指輪ができあがりそう。緑雨様気に入ってくれるかしら……」

 アオちゃんが「もちろんですです」と陽気に返してくれる。でも心はなんだか重かった。緑雨様に会いたい、喜ぶ顔が見たい……けれど、それよりもっと……


 会うのが怖い。


 私の深いため息を聞くと、アオちゃんが作業の手を止めて不思議そうにこちらを見た。

「心配しないで真砂様。緑雨様は綺麗な石が大好きですです。それに愛する花嫁様からの贈り物ですから、歓喜のあまりまた竜になってしまうかもですです!」


『……体中を愛されて………』侍女から聞いた言葉が蘇り、ぶわーっと顔に血が登る。

 愛される……緑雨様に身も心も何もかも……あの手で……唇で……

 わあっと小さく叫んで思わず立ち上がった。

「ち……違うの。それは姫様がすることで……花嫁は姫様で……」

 閨で愛されるのは姫様で、私じゃない。

 最後の言葉は声に出せなかった。


 アオちゃんはやれやれまたその話か……と呆れた顔をしてまた指輪造りを始めた。彼に何度私は花嫁ではないと言っても聞き入れてくれないのだ。彼は頑なに私が花嫁と信じている、この上層階の紅玉の主に仕える人々も同じで、私が何度否定しても「花嫁様」と呼ぶのを止めてくれない。


 どうしよう、このままではいけないと思う。

 どうすればいいのか……そんなことは初めから決まっている。今すぐ人界に帰って姫様を連れてくればいいのだ。本物の花嫁を皆に見せれば……そうすれば……私が花嫁で無いとすぐに分かってもらえる。

 どうしよう……

 私は困っているのだ、何に困っているの?

 陽の光を通した水晶が、床に虹の輪を作っている。緑雨様が垂らしてくれた飾りを眺めながら泣きたい気持ちになった。


 緑雨様と姫様をこのお部屋にお呼びして、この美しい飾りを見せたいと思ったあの時、これほどの幸せがあるのかしらと心が踊ったのに、どうして……どうして……今は胸がこんなに苦しくなるのだろう?


「撫子さんに会いたい……」

 呟くとアオちゃんが「会いに行けばいいですです」と気楽に返してきた。

「だめよ……あんな騒ぎを起こしたのだもの。私はお部屋で大人しくしていないといけないの。下にいったら攫われるから……」


 アオちゃんがはははと大きく笑った。

「だいじょーぶ! もう真砂さまは1人で自由に出歩けます」

 なんでと目を大きく見開いてしまった。猿にも天狗にも攫われかけたのにどうして?


「先日緑雨様は、全ての者に知らしめました。真砂様に触れば紅玉の主は絶対に許さない。殺されるか、運がよくても境界の館を追放されるかのどちらかですです。ここをぶっ壊す勢いで怒り狂った神竜を見て、真砂様にちょっかいを出す者なんて誰もいません。下級の妖はあなたが近づいただけで怯えて逃げます」

 アオちゃんはとても誇らしそうに胸を張った。


「大好きな真砂様が緑雨様の花嫁であると、ようやく境界の館に知れ渡って嬉しいです。緑雨様は派手にやりましたから『紅玉の主が花嫁を決めた』と今や天霊界も妖界にも噂が届いています。妖タヌキの一族も、僕が真砂様にお仕えしていると聞いて一族の誉れだと里をあげての大宴会ですです」


 私は氷水をかぶったように背中が冷えた。

 私が花嫁だとの誤解がどんどん広がっていく。このままではいけない。姫様を一刻も早く迎えに行かなくては。


『俺の真砂……』

 甘く優しい声、力強く抱きしめる腕…… 


 緑雨様の唇で……温かく包み込まれた……私の……

 己の唇に指で触れる……

 もう一度口づけ……緑雨様はしてくれる……かし……ら

 一晩中腕に抱いていてくれると……約束してくれた……の

 緑雨様の胸の中で眠る……

 苦しい程の幸せに、全身が痺れたようになる。会いたい、緑雨様に会いたい。


 勢いよく首を左右に振った。

 幸せな気持ちは、冷たい水底に沈んでいく。

 崖に張り付いて、この一瞬の後には落ちて死ぬかもしれない。そうやって生きてきた。何も持っていない、誰も私を気にかけない、ただ薬草を採るだけの私…… それを救ってくれたのは誰なのか……

 もはや夢の出来事のように遠かった現実が目の前にあった。


 思い出せ、私が何者だったのかを。


 「撫子さんの所へ行きましょうアオちゃん」


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