2.神辺の大屋敷
崖から落ちて見捨てられた10歳だったあの日、私は姫様のおかげで命を救われた。
神辺家には私より2つほど年上の姫様がいらっしゃると聞いたことがある。
その姫様が、私のことを伝え聞きいて「どうにか助けてやってほしい」とご当主様に強く願ってくれたのだと教えてもらった。
私はあの日からの6年間、どんな時も姫様への感謝を忘れずに生きてきた。
姫様はご病気があり、夜になると咳がでて息が苦しくなるのだという。私が崖で集める苔は、姫様の咳き止め薬になる。ああなんて嬉しいことだろう。私は姫様のお役にたてるのだ。どんな危険な岩にだって登ってみせる。鋭い岩で足を深く切って血を流しても、空腹のあまり握る手に力が入らなくても、私は姫様のためならば崖に登り苔を採り続けよう。
1度だけ、役人が教えてくれた。
『あの娘のお陰で薬が届く。ねぎらいの言葉をかけておあげ』
姫様がそう言ったのだと聞いた時、私の胸はどれほど温かくなっただろうか。
私のことを覚えていてくれただけでなく、私のお陰だと感謝してくださった。
何だってする。姫様の為ならいつ崖から落ちて死んでもかまわない。
この世界で誰からもいらないと捨てられた私を「生きてもいい」と助けてくださった姫様。
姫様のために苔を採ることが、私の生きる意味なのだ。
神辺の里は、都から山をいくつも越えた深い森の果て、高い神辺山の麓にある小さな集落。
田んぼにできる平らな土地がないので、小さな畑を耕し山で薬草を集め、炭焼きをして細々と暮らすしかない。しかしもっとも暮らしやすい里の中心には、里人の貧しい暮らしに似つかない、神辺家の豪華な大屋敷と家来の屋敷が日の当たる場所に建っている。
私は冬になると薬草が採れないので、里に降りるよう命じられ、春になるまで籠やらゴザを編んで働く。
罪人達と私はお喋りを禁じられているが、冬の間は共に働く里人たちのお喋りを聞くことができる。私に話しかけてくる者は誰もいないが、姫様の噂話が聞こえてくると心が躍るように嬉しかった。
姫様のことなら何でも知りたい。
夜になり、寝泊まりする納屋の窓から覗くと、遠くに灯りがいくつも見える。一晩中篝火を焚いて昼のように明るい場所は姫様のいる大屋敷だ。
あそこで、姫様は何をしているのかしら。それを考えていると心が安らいだ。
神辺家の一族は都の国主様から、代々『竜神の湖』の守護に任じられている。大勢の役人と使用人、そして守護の為の武者達が、それは豪華な屋敷に住んでいる。
都から毎日のように贅沢品やら米や肉が届く。当主様がいる大屋敷を中心に、まるで小さな都があるようだ。神辺家に仕える者達は都人のように優雅に暮らす。
一人娘の姫様の美しさは都にも届くほどで、極上の絹着物が都の殿方から贈られてくるのだとか、きっと天女のごとく似合うにちがいない。姫様は病気がちで外にめったに出ないので、顔を見た者はほとんどいないが、姫様の話を聞くたびに、雅な姿を想像してはほうとため息がでた。
神辺山は国の中央にあり、国を潤す全ての川はこの神辺山を始まりに流れ出す。「竜神の湖」は国の水源となっていて、この湖を守ることは国中の水を守っていると同じ事、山奥に暮らしてはいても、重要な役目に付く神辺家の地位は国でも高いのだという。
『竜神の湖』は青く深く、この世では無いのかと錯覚するほどに神秘的に美しい。里の老人たちはこの湖に竜神様がいるのだと心の底から信じているが、若い者はただの伝説だと笑う。
神辺家の大屋敷が建っている場所は、昔は竜神様を祀る大社があったが、現当主神辺元網様になったとき取り壊されたそうだ。
外敵から湖を守ることこそが本当の役目と武者を集め、伝説の竜を崇めても湖は守れぬと国主にかけあって莫大な俸禄を頂いている。そのお陰で里の一部の者たちは信じられぬほどに豊かになった。
私達がこうして安心して暮らせるのは元網様のお陰なのだと里の者は褒め称える。
だが誰も口をきつく閉じて言葉にしないが、神辺の里に大きな問題が起きている。
それはゆっくりと、しかし止まることなく深刻になっていく。
ここ数年で、目に見えて湖の水のかさが減っているのだ。
竜神様の社を壊した時、老人たちが竜神様の罰が下ると畏れたことが現実になったのか。
このまま水が減ればいつしか「竜神の湖」は枯れるのだろうか?
そんなことになったら、守護を命じられた神辺家はどうなるのか?
難しいことは私には分からない、ただ姫様が心安らかに暮らしてくれることだけが私にとっては一番の望みであり、心配事なのだった。
数え年で私が16歳になった秋のこと、里は祭りに活気づく頃合いであるのに、今年は何故か陰鬱に人々は扉を閉ざし、里はまるで冬が来たかのように静まりかえっていた。
いつものように薬草採りを終え、1人だけ山頂の薬草倉庫に留まろうとすると、役人が今夜は山を降りるように命じてきた。祭りのための下働きをさせられるのだと深く考えもせず役人に付いていくと、いつも世話になる里の家を通り過ぎ、なんと神辺家本家の大屋敷に連れて行かれた。
生まれて初めてのことである。
門をくぐると、裸足のまま薄汚れた着物であることが酷く気になった。
「ご当主様がお言葉をくださる。くれぐれも粗相のないように」
あまりの驚きに開いた目が閉じられない。息も吸えずに固まっていると、神官服の男が現れて、私を見るなり酷い臭いだと言わんばかりに鼻をつまんだ。
「話には聞いていたが、薄汚れたぼろ布のような娘だ」
彼に案内されて広い屋敷の長い廊下を歩いていくと、広い板の間に通された。奥に一段高く畳敷きの間があり御簾が二つ並んで降りている。
神官に座らされ、頭を下げるよう指示された。いったい誰に会うのかと恐ろしく、額を床に押し付けるように顔を伏せた。
「顔を見せろ」
低い男の呼び声に顔を上げた。
御簾の1つが上がっており、黒い烏帽子をかぶった中年の男がいた。
鋭い眼光と視線が合った瞬間に、腹の底から恐怖がせり上がって悲鳴を上げそうになった。
金糸で黄緑色に光った絢爛な衣をまとい、一段高い台座に座る雅な男。せり出した額と落ちくぼんだ目はぎょろりと大きく、ゾッとする程冷たい視線のまま口元だけが笑っていた。
この屋敷の人に会うのは初めてであるのに何故かこの男の顔を知っている気がした。けれど記憶を辿ろうとした瞬間に、「殺される」と頭の中で声が鳴り響いて、身を縛り上げるような恐怖に何も考えられなくなった。
「私が誰か分るか?」
問われて首を左右に振ると、彼は満足そうに口の端を上げて、目は冷たいままニヤニヤ笑った。
どうしてこれほど恐ろしいのか分からない、けれど声をあげて叫びたいのを必死に耐えた。
「何もかも忘れた愚かな娘よ、おまえは私が生かしてやった罪人の娘だ。何の役にも立たないおまえだが、ようやく1つ私に恩を返すことができるぞ」




