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28.俺の真砂 

 緑雨様に抱かれたまま運ばれて、私は上層の紅玉の主の住まいに戻った。体には天雅に触られた感触が残っていて、緑雨様の胸に顔を押し付けて、強く抱きついた。


 彼の鼓動が打ち付けるように速く鳴っている。温もりの中でそれを聞いていると少しずつ気持ちが落ち着いた。ああこの腕は緑雨様なんだと思うと、安堵とともに涙がでてきた。

 緑雨様は私を降ろさず、湯殿に直行した。慌てて付いて来る侍女たちに目もくれず、服も脱がずに湯船の横に座ると私を膝に載せた。


 問うような眼差し。眉間にはしわが寄り口は引き結ばれて、ひどく怒っているように見えた。

「ご……ごめんな……さ」

 部屋で待っていろと言われたのに、約束を破って出かけたのだ。


「どうして真砂が謝る。済まなかった怖い思いをさせた」

 強く抱きしめられ、全身で緑雨様を感じた。力強い手が髪に差し込まれ、彼の頬が頭にスリスリとこすり付けられた。


「あいつの臭いがする…… 何をされた」

 苛立ちを抑え込んだ低い声は恐ろしく怒っていたけれど、それは自分に向けられていないことは優しい腕が教えてくれていた。

 天雅に自由を奪われて、触られた悔しさと恐怖が込み上げて涙が止まらない。緑雨様の手が私の顔をそっと上げて覗き込んでくる。


「お……おでこ……なめられ……」

 竜の瞳がギュッと虹彩を絞った。ギリっと奥歯を噛んで苦し気な顔をすると、湯船に手を入れて濡らすと、ゆっくり優しく私の額を洗ってくれた。


「他には?」

「ここも……ここも……」

 触られた場所を指さす手が震えてしまう。首筋を指さした時、あの時のゾッとする感触が蘇って、ごしごしとこすった。

「嫌だったの、すごく嫌だったの。触られたくないの……誰にも、誰にも………」

「ああ駄目だ、そんなにしたら傷ついてしまう」


 私の手は緑雨様に優しく止められた。温かい湯をすくっては、彼の大きな手が頬から耳、首筋を温かく洗ってくれる。

 大きな手が私の頬を包んでいる。自分の手を重ねて、頬を強くくっつけて目を閉じた。

 この手がいいの。

 額に柔らかく温かい物が触れて、目を開けた。


 緑雨様の唇が私の額に触れている、熱い吐息を感じた。

 柔らかな唇が何度も私のおでこをなぞる。安心して静まったはずの鼓動が、また早鐘のように鳴り出す。彼の唇がそのまま頬に降りてきて、首筋に押し付けられたとき、びりりと甘い痺れが走った。

 驚きに震える体は、逞しい腕に抱きしめられている。さっきと同じことをされているのに、今は何も嫌じゃない。


「緑雨様……」

呼んだ声は喜びに震えてしまう。怖くないの。緑雨様にもっと触れてほしい……

大きな胸に抱きつくと、また額に唇が何度も押し付けられる。

「他には?」


 低く熱を帯びた声……「ここも……」と唇を指さした瞬間、息ができない程強く抱きしめられた。

「あいつ……やはり殺せばよかった」


 何かを叩くような大きな音が、湯殿の入り口の方でした。

「緑雨様! 緑雨様!」

 仁永様の怒鳴り声が、向こうで聞こえる。それなのに緑雨様は全く意に介さない。

 私を見つめる深緑の瞳が虹色になって光を帯びる。光の粉が睫毛から散って、その眼差しはとても切なく、苦しそう……


「下層はあちこち崩れて大混乱だ。今すぐ来てください!」

 遠くで聞こえていた怒鳴り声が、いきなり頭の上から降って来た。

 驚きに見上げると、髪を乱して妖艶な凄みを増した、いつもとは雰囲気の違う仁永様が怒りの形相で立っていた。


 主様の湯殿に入って来るとは何事かと侍女たちが目を吊り上げて怒っている。仁永様の後ろに控えている竜族の兵士達が申し訳なさそうに身を小さくしながらも、出て行く気配は無い。入口の方にはそれは大勢の兵士達が控えているのが見えた。


 私が緑雨様の膝から降りようとすると、彼の腕がそれを許してくれず、やすやすと抱え込まれた。緑雨様は仁永様がいないかのようにを無視したまま苦し気に私の唇を見ている。

 何度も「緑雨様」と呼び続けた後、とうとう仁永様は緑雨様の首元を掴んで立ち上がらせた。緑雨様は渋々私を膝から降ろすと、守るように私を腕の中に囲った。


「俺は真砂のそばについている。どこにも行かない!」

「その怒気をしまってくれないか……とても立っていられない」

 仁永様はよろめいて後ろの兵士に身を支えられた。彼からお酒の臭いがする、そんな風には見えないけれど、もしかしたらすごく酔っぱらっているのかもしれない。

 仁永様は兵士の肩につかまったまま、辛そうに頭を左右に振った。


「ああ……弾きたい曲があったのに…… せっかく撫子が私の二胡を聴きにきてくれて、私は……彼女に捧げる曲を……ああそれなのに……おまえ何をやったらあんなことになるんだ」

「……竜になった」

 仁永様が何かを言おうとして大きく口を開け、そのまま固まった。


「天雅が俺の真砂に触りやがった。許さない、絶対にだ! 2度とこの地は踏ませない。天狗の野郎どもは追放した」

 仁永様の髪がザワザワ震える。緑雨様の怒気が苦しいのか、3歩ほど後ろに下がった。

 彼は額に手をやってしばし耐えていたが、顔を上げると「水を1杯くれ」と侍女に頼み、もらった杯を一気に飲んだ。


「おまえの言い分はもはやどうでもいい。今はこの混乱を治める者が必要だ。緑雨よく考えろ。それをするのは誰だ?」

 仁永さんは兄のように、優しい眼差しながらも諭す口調でゆっくり緑雨様に問うた。

「紅玉の主」

 緑雨様は小さく答えて、私を抱きしめていた腕を解いた。


 行くぞと促され、緑雨様はひどく怒った顔で拳をにぎりしめ、仁永様の後ろをついて歩いていく。さっきまであった腕の温もりと安心感が消えて、寂しさが込み上げた「行かないで」と声にでそうになったけれど、何も言わずに耐えた。


 緑雨様が竜になったことであちこち壊れていたし、下層を取り仕切っていた天狗達はいないのだ、彼が今すぐ行かねばならないことはよく理解できた。


 緑雨様が出口で振り返り、苦し気な瞳が私を射抜いた。彼から目を逸らせない、大股で歩いてどんどん近づいて来る。あれ? と思った時には彼の腕の中で強く抱きしめられていた。


「ああ……俺の真砂」

 それは囁き声だったのか、心に直接響いたのかわからない。強く求められているのだと全身で感じた刹那、緑雨様の唇が己のそれに重ねられた。

 柔らかな温もりが押し付けられて、息を止める。


 私の唇を食むように、彼の唇が動く。生まれて初めて感じる感触に目を見開いて固まった。

 何が起きているのか分からない。

 胸の奥から甘い何かが引き出されて、緑雨様の唇に吸い込まれていく……そうして同じ甘いものが緑雨様から与えられて……唇で結ばれて溶けあって……

 優しく触れながら首の向きを変えては、狂おしく何度も私の唇を求めてくる……

 チュッと音がして彼の唇が離れた。


 熱い吐息と共に「真砂」と切なく呼ばれる。見つめ合うとまた顔が近づいて、最後に浅く彼の舌先が私の唇を舐めた。

 びくりと体を震わせて彼にしがみつく。愛おしさと離れがたい狂おしさが混ざった緑雨様の感情が心に響いてきて飲み込まれてしまいそう。1人で立つことができなかった。


「すぐに帰って来るから。そうしたらずっと抱っこしていてやるからな、一晩中ずっとだ。真砂が怖くないように、ずっと、ずっと抱きしめるから、だから待っていてくれ」


 緑雨様が何か言ったけれど、ぼうっとして頭に入ってこない。そのまま彼が行ってしまう背を見ていた。姿が見えなくなってもピクリとも動けず立ち尽くした。



 はっと気づいた時、私は侍女たちに湯船に入れられていた。どれくらい意識を飛ばしていたのだろう、彼女達はぼーっとしている私にお構いなく満面の笑みで体を洗ってくれている。

「さっき……緑雨様のお口が、ここにぶつかっちゃった……の」

 唇に触れてみる。ぶわっと先ほどの感触が蘇った。

 緑雨様の唇がここに……


 侍女たちが一斉に陽気な笑い声をあげた。

「ぶつかったのではありません、あれは口づけですよ花嫁様」

 嬉しそうに侍女は言うと「ああ素敵でした」と皆で顔を見合わせて微笑えんだ。


 口づけ!!

 恋人同士や夫婦がすることだとは知っているけれど、どうして緑雨様が私に? 

 頭が上手く回らない、体がどんどん熱くなるのは湯船にいるからなの? 

 胸の芯がズキズキする。痛みに似ていて苦しいのに、まだ緑雨様に抱きしめられているような、竜の姿の緑雨様の背に乗って空高く飛んでいくような、心が弾けてしまいそうな喜び。


 熱い頬を両手で包む。何が起きたのだろう、これから私はどうすれば……

「さあ、急いでお仕度をしましょうね。今夜は閨がありますから」

 仕度とは? 私はこれからどこかに行くのだろうか。


「あの……今夜は何かあるのですか?」

「今夜、主様は花嫁様と閨を共になさいます。一晩中抱きしめると仰いましたもの。さあさ、どの香油にいたしましょうか。わたくしども腕によりをかけて花嫁様を最高に美しく、そしてスベスベのもちもちに仕上げましてよ!」

「ねや?」

 私は聞きなれない言葉に首を傾げ、一生懸命考えた。一晩中抱きしめる……どこかで似たようなことを聞いた気がする。


「コウゴウ……腕に抱いて口移し……」

 ほほほと侍女が笑って「色気のない言いようですわね。そうです交合ですよ今夜主様は花嫁様を閨で愛しむのでございます」

 聞くのがなんだか怖かった。けれど今夜するとなれば知っておくべきだろう。

 ごくりと唾をのみ、覚悟を決めて質問した。


「あの……ね、ねやとは何をするのですか?」

「まあなんとご存じない!? 花嫁様は初心でいらっしゃる」

 何と可愛らしいのかしらと侍女たちがくすくす笑う。一番年かさが上の侍女頭が「ならばわたくしが、お話ししましょう」と優しく微笑んでくれた。

「わたくしどもは花嫁様がお越しになってから、今か今かとお二人が結ばれるのを待ち望んでおりました。今宵、若いお二人が首尾よくことを成し遂げられますよう、わたくしが僭越ながらお教えいたします。花嫁様いいですか、竜の男というのは……」


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