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22.雨の歌 

 私はこれから、ずっと緑雨様の側にいられる。

 それは嬉しいという言葉では全然足りなくて、とうとう私の胸ははちきれて、涙がぼろぼろこぼれ出た。嬉しい気落ちが強すぎても泣いてしまうのだと初めて知った。


 私も緑雨様みたいに喜びに叫びたかったけれど、代わりに草原を思い切り走った。両手を鳥みたいに広げて、走って走って、このまま飛び立てそうな気がした。

 緑雨様がすぐに追いかけて来て、二人で走り回った。「真砂、真砂」と緑雨様が私の名前を何度も呼んでくれる。緑雨様と私も呼ぼうとしたとき、私は足をもつれさせ、どさりと草原に突っ込むように転んだ。


 草の中で目を開けると、目の前に猫じゃらしが生えていた。

「おーい真砂大丈夫か?」

「ありました」

「何があったのだ」

 倒れたままの私を覗き込むように緑雨様の顔が近くに来た。


「私の好きな物……ありました」


 むくりと起きあがり、猫じゃらしを一本取ってフルフル揺らした。「ああ私は小さい時からこれが好きだった」と心に感じた。


 不思議な感覚だった、揺らすと猫のしっぽがフルフルする。こんなことをしていたら、役人に叱られる。薬草を採れと怒鳴られる。

 でもここではだれも叱らない、だからフルフルしてもいいの。可愛いフルフル、これが好き。


 急に首筋がこそばゆくなった「ひゃっ」と声をあげて首をすくめた。

 見ると緑雨様が、猫じゃらしを手にして、にやりとして私をくすぐってくる。

「ふはっ、ふはっ、ふはっ」

 私の声を聞いた途端、緑雨様の目が丸くなって、瞬きをぱちぱちした。


「え? もしかして真砂笑っているのか? 表情がぜんぜん変わらないから分からなかったけど、これ笑い声か!!」

「ふはっ、ふはっ」

「真砂が笑った! ああ真砂が……」


 微笑みながらも、緑雨様の瞳は切なくなった。何か狂おしい強い気持ちを秘めて、見つめられたとき、そのまま彼の胸の中に飛び込みたかった。

 気持ちが通じたかのように、緑雨様が両手を広げてくれて、ああ抱っこしてもらえると手を伸ばした。でも……


「あー、駄目だ。触ったらいけない」

 緑雨様は急に身を引いて、手を降ろしてしまった。口の中で小さく「あー抱っこしたい、抱っこしたい」とつぶやいている。

 私も、同じ言葉を心の中で何度も伝えた。緑雨様に抱っこされたい……

 二人猫じゃらしを持ったまま、しばらく見つめ合って我慢した。


 猫じゃらしの先を握った手の中に入れて、少しずつきゅっきゅと動かすと、拳の中から毛虫のように、猫じゃらしがにょきりと出てきた。

「お、何だこれ! 毛虫みたいに動いている。面白いな、こんなこと誰に教わったのだ」

「これはね……父様が教えてくれたの」

 するりと言葉が出て、私はハッとして緑雨様を見た。彼も驚きに口を開けている。

「真砂……父様のことを思い出したのか?」


 頭の中に猫じゃらしの草原が広がる。夕焼け雲が空になびいて……猫じゃらしが紅色に揺れている。

 左には大きな体の父様がいて、右には長い髪の母様がいて、私は真ん中で両の手を二人に握られて、歩いている。「私ねこじゃらしだーい好き」けらけら笑っているのは幼い私………


 何度も名を呼ばれて、我に返った。でも、頭の中の情景は消えなかった。

「私……思い出しました。父様と母様の顔」

 緑雨様は何も言わず、ただ優しく見つめていてくれた。


 それから、二人で猫じゃらしを摘んだ。緑雨様の大きな手にはびっくりする程たくさんの猫じゃらしが集まった。

「これを真砂の部屋に飾ろうな」

 私は猫じゃらしを摘みながら振り返った。

「私のお部屋はないです」

「あるさ! だって真砂はこれからここに暮らすのだから。おまえの部屋をつくるに決まっている。帰ったらどんな部屋がいいか二人で決めよう。俺の部屋の隣が良いか?」

「ええと……緑雨様のお部屋の隣は姫様のお部屋です」

「ならば、その隣にしよう」

 ふふっと喜びに笑みがこぼれた。


 大好きな姫様のお隣に私のお部屋があって、その先には大好きな緑雨様のお部屋があって、私はずっとここで暮らすのだ。

 ああなんて素敵なんだろう。


「真砂がここに帰って来てくれると決まったら、心が晴れやかになった。どうしてか分からないが、おまえが帰ってしまうと思う度に胸が詰まるような思いがしていたのだ。ああ、体に力がみなぎってきた」

 緑雨様が天を見上げて「今夜は盛大に雨を降らせてやる」と宣言した。

 私は何のことか分からずに、首を傾げた。


「緑雨様は雨を降らせる……の?」

「ああ、毎晩降らせている。紅玉湖の水が少しでも増えるように。毎日欠かさずに続けている。竜の谷の神竜達も、ここをよく知る神々も「そんな無駄なことを」と言うのだが……」

 緑雨様の長い睫毛が伏せられて、寂しそうに口元だけかすかに微笑んだ。


「それでも、何かしたいのだ。仁永も毎日はやりすぎだと諫めるのだ、いくら神竜でも体に良くないからと…… でも諦められない。何かしたいのだ。だが……毎日、毎日、何の変化も起きない…… 何も起こせない……駄目だな俺は」


「だ……駄目じゃないです」

 拳をぎゅっと握った。この気持ちを知っている。毎日、毎日繰り返し、でもなんの変化も無い、何も得られない。


 冷たい崖に張り付いて、必死になって薬草を探す。朝から晩まで休むことなく……でもたったの一欠片の苔も見つからない、そんな日が何日も続いて、駄目だ駄目だと己を責める。

「毎日、毎日、なんにも無い日が続いて……苦しくて、悲しくて……でも、その先に見つかる日が待ってる。だから……全然無い日は無駄じゃない……の。全然無い日があったから、見つかるの。だから、緑雨様駄目じゃない。すごく頑張っているの、これから起きる日のために、頑張っているの……だから」


 もうそれ以上何と言っていいか分からずに、言葉が詰まってしまった。見上げると緑雨様が目を強く閉じて、うんと力強く頷いてくれた。

「ありがとう、真砂」

 開かれた瞳は輝いて、自信を取り戻しているようだった。


「ようし、今夜も降らせるぞ! ざー、ざー、ざあざあざあー、ふーれ、ふーれ、やーまに」

 緑雨様の大きな歌声が草原に響き渡った。


 その歌は私の子守歌。薬草倉庫で独りぼっちで眠っている時、いつも雨が歌ってくれた。

「ざー、ざー、ざあざあざあ」

 私が呟くように歌うと、緑雨様が嬉しそうにまた歌った。

「真砂はこの歌を知っているのか?」

「はい、毎晩聞こえていました。竜神の湖に降る雨が歌っていたから」

「それなら……俺の雨が……」


 長い事二人で見つめ合っていた。胸に込み上げる感動が、私と緑雨様にあった。

「届いていたのか? 真砂のところまで? 人界の湖に降っていたのか?」

 ただうんうんと頷くことしかできなかった。無駄じゃない、緑雨様のしてきたことはずっと届いてる。そして……

 私も独りぼっちじゃなかったのだ。ずっと緑雨様が歌っていてくれた。



 片手には持ちきれない程の猫じゃらしをそれぞれ握り、もう片方の手を繋いで草原をゆっくり歩く。

「ざー ざー ざあざあざあ ふーれふーれ山に」

 見つめ合っては微笑んで、繋いだ手を揺らして二人で歌う。

「ざー ざー ざあざあざあ ふーれふーれ里に」

 温かい大きな手を強く握り返すと「ん?」と聞く緑雨様の声が蜂蜜のように甘い。眼差しがあまりに優しくて胸が震える。こんな幸せがずっとつづくのだと思うと、この気持ちをどうしていいのか分からなかった。


 ここに来られたのも、緑雨様に出会えたのも姫様のお陰。

 迎えに行きます姫様、待っていてくださいね。 


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