21.ずっと一緒に
扉を開くと、風に吹かれる草原と、それを取り囲む青い水が広がっている。丘の上から見下ろすと、遠く道は続いて、その先に半分だけ姿を見せる大鳥居がある。風がびゅーっと吹き抜けて、湖の水面を揺らす。朝まだ早い力強い光が、キラキラと白く反射した。
隣に立つ緑雨様の銀色の髪が、風に青られ、いつもは前髪で隠れている額の大きな宝石が良く見える。
彼の竜の瞳が細くなり、笑うと口元に牙が見える。でももう何も怖くない。緑雨様の隣にいる時が一番安心する。こうして二人きりでいると、心の中に泉ができたみたいに、こんこんと湧き出る気持ちがある。それを上手く言葉にできない。心が浮き立つような、そわそわ落ち着かないような……でも少しも嫌じゃない。
「真砂はこの場所が好きなのだな」
問われて大きく頷くと「俺も好きだ」と緑雨様が言ったので、「私と同じ」と心の中で呟くとたまらなく嬉しくなった。
緑雨様はタヌキのアオちゃんの恋愛指南を受けて、今日は二人きりで『お出かけ』している。
アオちゃんは緑雨様に課題を出している。
私の好きな場所に行き、私の好きな事をして、そして私の好きな物を贈る。
それが全部できたら、手を繋いで帰ってくること。なのだそうだ。
朝から質問攻めにあい「私が好きなのは姫様です」と何度答えても緑雨様は「そう言うことでは無くて」と納得してくれず……
一生懸命考えて「行きたい所ならば、大鳥居の見える丘です」と告げると、緑雨様の顔がぱあっと明るくなって、すぐに扉を開いてくれた。
「これからどうしたい? また竜の俺と飛びたいか? 何か俺にして欲しい事はないのか真砂?」
緑雨様はそう言って、顔をぐっと近づけてくる。睫毛の先から光が散って、私のおでこに触れると淡く消えた。
緑雨様にして欲しい事?
「あ……あ……」
ある。一つして欲しいことがある。
あの日、緑雨様と空を飛んで紅玉湖の果てまで連れて行ってもらった日に、してもらったこと。
緑雨様の大きくて逞しい胸元を焦がれる気持ちで見た。
私はあの胸に頭をくっつけて、大きな腕に包まれていた。温かくて……蕩けるように心地よくて……
『また抱っこして、頭を撫でてもらいたい』
緑雨様が「ん?」とまたとびきり優しい声で聞いた。
「あ……ありません。なんにも……して欲しいことはありません」
こんな赤ちゃんみないなお願いをするのは恥ずかしかった。それに……アオちゃんも撫子さんも、私に触らないように緑雨様にきつく言っていたから、触るのをお願いするのはいけないことだと思った。
「そうか……俺はおまえのために何かできるのなら、なんでも叶えてやりたい……のだが」
残念そうに緑雨様は呟くと、草の上に腰を降ろしたので、私も並んで座った。
しばらく二人無言で大鳥居を眺めていた。
「あの……緑雨様にして欲しい事ありました」
「おう、言ってくれ」
「私が姫様の所へ帰るとき……一緒に来てくれませんか? こちらに、戻るとき……姫様は、湖に飛び込まないとなりません。きっと……すごく……怖いから………姫様かわいそう」
緑雨様の瞳の色が濃くなって、少し口を引き結んだ。
「でも……竜神様が一緒なら、姫様は……怖くない。だから……」
緑雨様は視線を逸らし、私の足首をじっと見つめた。ここに来るときに砂袋が結ばれていたところで、緑雨様は何も言わなかったけれど、怖かった私の気持ちを分かっていてくれる気がした。
「そうしてやりたいが、俺は人界には行けぬのだ」
すまなそうに微笑むと緑雨様は大鳥居に目をやった。
「あの場所には誰も近づけないのだ。だが、あの大鳥居の向こうにある人界から来る人間だけは、自由に行き来できる」
だから真砂は人界に帰れるぞ、と緑雨様は安心させるように頷いた。
「紅玉湖が初めて異界への入り口を開いたのは、あの大鳥居が始まりにして唯一だったそうだ。だからこの地は長らく人間だけが暮らしていた。真砂のご先祖達がここに社を建てたのが境界の館の始まりだ。今こそ、様々な種族や世界が入り混じって、何処の国のものか分からない文化のごった煮みたいな館だが、建物も食べ物も文字も真砂の国と同じ物が多いだろう? 真砂の国のご先祖が残してくれたしきたりや文化が今も残っているんだ」
そう言われれば、食べ物は珍しい異国のご馳走もあるけれど、神辺の里で見知った、味噌や醤油の馴染みの食べ物もよく食べられている。撫子さんのお部屋は畳が敷かれているし、鹿神様は故郷で見たことのある神官服をお召しだ。
「紅玉湖にとっては、真砂の故郷の人界は特別な場所のようだ。向こうにも紅玉湖の半身である湖がある。一心同体の魂を同じくした湖で、向こうが枯れれはこちらも干上がる」
「あの……竜神の湖も、どんどん水が減っています」
「そうか……やはりな。このままでは紅玉湖の水は無くなってしまうかもしれない。この5百年ずっと減り続けているのだ」
「湖の水が無くなったら……どうなるのです……か?」
深くため息を吐き、両手を組むと、緑雨様は目を伏せしばらく答えなかった。
「こちらはただ……紅玉湖の力が無くなって異界への入り口が閉じるだけだ。便利な通路にしている神々や妖達は、それは困ると大騒ぎで何とかしろと煩いがな、俺はそんなことはどうでもいいのだ。世界には他にも異界への入り口が開いているところはあるから、他へいけばいい」
緑雨様は組んだ手を額に押し付けて、苦し気にうつむいた。
「紅玉湖が枯れば、真砂の故郷の竜神の湖とやらも枯れる。そうなると人界が干上がるらしい。前にそれが起こった時は、百年もの間、干ばつが続いたそうだ。たった百年などあっという間だ、気にするなと笑う神々もたくさんいる。でもな……人にとっての百年は……あまりに長い。そんな苦しみを俺は人に与えたくないんだ」
百年の干ばつ……神辺の里だけでなく人界そのものが干上がるなんて。恐ろしさに口に手を当てた。竜神湖がある山は全ての川の源なのだ、そこが干上がれば人の世界が乾いてしまうのだ。
「なあ真砂。俺は竜だ、だから人間のことは本当の意味では理解できないのかもしれない。でも俺をこの世に授けてくれたのは人間である母上なのだ。母上の世界と真砂の世界は別だけれども、それでも俺は……人間に対して特別な思いがある。俺の体も心も半分は人間であるはずなのだ。だから……人界を守りたい」
緑雨様は立ち上がり、大鳥居を指さした。
「あの大鳥居へは人間の他は、青竜だけが竜の姿で行くことができる。そうして水に潜り、大鳥居を竜のままくぐると、人界に行くことができるのだ。だから紅玉の主である青竜たちは、度々人界を訪れては人々に姿を見せ、雨を降らせていたらしい。だから俺も、何度もあの大鳥居を潜ってみた……けれど行けぬ……。おそらく、あの大鳥居は水の中になければ、竜を運ぶことができぬのだろう」
半分は体も心も人間であるはず……緑雨様の言葉が胸を打った。
天を埋め尽くすほどの巨大な竜でありながら、人への敬意と思慕をもっていてくれるのだ。すぐ隣に立って、半分は私と同じ人間だと手を差し伸べてくれる。この方だけが人間を見捨てないでいてくれるのだ。
大きな愛で人間を守ろうとしてくれる、緑雨様のお役にたちたいと強く思った。
「あの……湖の水をもとに戻す方法は無いのですか?」
緑雨様は私の前に立つと、片膝を付いて、真っすぐに目を合わせた。
「それが、カンナベの姫だ真砂。神竜の長老が教えてくれた『カンナベの花嫁まいりて、湖を守り水をたたへたり』と、だから俺がカンナベの姫を嫁に迎えれば、紅玉湖は機嫌を直す。また水を元に戻すに違いないのだ」
強い決意の瞳で緑雨様は「だからお前に頼むしかないのだ」と言った。
私にだけしかできないこと。
「人界に戻り、カンナベの姫を連れて来てくれ」
姫様が紅玉湖に来れば、人界を干ばつから救うことになる。尊い役目を姫様はお持ちなのだ。
「必ず、姫様を送ります」
私は精一杯の強い思いを込めて返事をした。
緑雨様が「ありがとう」と微笑んで立ち上がったので、私も一緒に立ち、並んで大鳥居を見つめた。
「ああでも、真砂はもう少し元気にならないと駄目だ。こんなすぐにも折れてしまいそうな細い体で帰すのは心配だ。おまえが大鳥居をくぐるには十分に水はある。だから今は、餅になるのが先決だ。いいな」
私の心は満たされている気がした。姫様に生かしてもらった命を、姫様のために使うことができる、これ以上望むことは何もない。
「真砂はあちらに帰ったらどうするのだ」
緑雨様に問われても、何も答えがでてこなかった。そんなこと考えたことも無かった。
「何も……何も……しま……せん」
「何にもということは無いだろう? したいことはないのか? もう危ない薬草採りなどするな、己のやりたい事をするんだ。真砂はもう大人になるのだから」
頭が真っ白になって、呆然とした。
姫様がこちらにきたら、あちらの世界に姫様はいなくなる。
私は……姫様のいない世界で生きていく……の?
心の中で組み上げられていた何かが、土台から崩れていくように、もう私という存在が壊れて消えていくようだった。これから先どんなに薬草を集めても……それを使ってくれる姫様はいないのだ。
「ならない……私は…………大人にならない」
ああ真っ白だ、私の世界は何もなくなる。そこに生きる意味などもう無いのだ。
「何を言っているのだ真砂。おまえはこれから大人になって、好きなことをたくさんするんだ」
首を激しく左右に振った。
「好きなことは無くなります。姫様がいなくなる。私もいなくなる……から」
だから? どうすればいいの? 消えてしまえばいの?
「だったらここで暮らせばいい! おまえの姫様と一緒に真砂もここへ戻ってくればいいのだ」
緑雨様の目が虹色になって強い光を放った。
「ああどうして気づかなかったんだ! 俺の嫁にならなくったって、真砂はここに居ればいい。なあそうしよう真砂。おまえの大好きな姫様とずっと一緒にいられるぞ」
緑雨様は両手を伸ばして私を抱き上げようとして、あっと思い出したように手を引っ込めた。けれど、ぐっと顔を近づけると子供のような無邪気な顔で満面の笑顔になった。
「そうすれば俺はずうっと真砂と一緒にいられる」
風がびゅーっと吹き抜けて、私の胸の中を通り抜けた。心は風にのって飛んでいく、高く高く空に向かってどこまでも吹き上がって飛んでいく。
世界に色が付く、緑の草原、青い空、きらめく水面、ああそして、透き通る水のような銀の髪が揺れている。背の高い大きな体、虹色に揺らめく深い緑の瞳。
緑雨様、緑雨様、緑雨様、ああその名を思い切り呼びたい。
「真砂、うんと言ってくれ。カンナベの姫と俺の元へ戻ると言ってくれ」
鼓動が激しく胸を打つ。私は込み上げる気持ちが強すぎて、声を出そうとしても息ばかりがもれた。早く気持ちを伝えたくて、何度も頷いた。
「はい! 帰ってきます」
緑雨様が両手を天にあげて声をあげた。喜びがほとばしるように、笑ってそのまま竜になって天に登っていきそうだった。




