20.タヌキの少年
緑雨様が「おいでアオ」と手を差し伸べると、彼はちょっと周りに目をやってから「なんですか急に、ボクは忙しいのですです」と大人びた感じで文句を言うと、クルンと一回転、あっという間にタヌキの姿になると、ぴょんっと緑雨様の胸に飛び込んだ。
緑雨様が嬉しそうにタヌキの子を抱っこして頭を撫でてやると、私に片目をつぶって見せた。
「こいつはアオ、俺の近習で身の回りの雑務を任せている。可愛い奴だろう? 俺はこうしてアオのことも抱っこするぞ」
タヌキのアオちゃんは、それを聞くと気に入らなかったのか、緑雨様の腕をスルリと抜け出て、頭によじ登った。
「抱っこさせてあげてるんですです! もう、緑雨様はいつまでも甘えたがりの子供で困りますですです」
緑雨様は頭の上のアオちゃんを両手で持ち上げようと抱えたけれど、アオちゃんは抵抗した。
「まあ、心配するな。俺は小さい者には大概優しい。カンナベの花嫁が来たら、丁重に扱うと約束する。それまでは真砂を大事にするぞ、とにかく棒切れみたいな体をなんとかしないとな」
緑雨様が頭や肩でスルスル動くアオちゃんに笑いながら言うと、撫子さんの顔がみるみる険しくなった。
「真砂様がこんなにも健気に己を捨てて来てくださったのに……そんな……」
「俺の花嫁はカンナベの姫でなくてはならぬのだ。そもそも、神竜である俺はたった1人を愛する恋慕の情は持ち合わせていない。俺が気に入るかどうかは関係ない。条件に合う相手かどうかが重要なのだ」
「はい?」と撫子さんが驚きの叫び声を上げた。
「何を仰いますか? ここに居るたくさんの竜族の皆様は、番をつくって夫婦仲良くされてますよね。それに、神竜である主様のお父様は、それはそれは奥様を溺愛されていたと、この紅玉湖では有名な話です。神竜様に恋慕の情が無いなんて信じられません」
「無いな。俺に恋愛感情はこれっぽっちも理解できない。これはむしろ良い事だ。母上しか愛せない父上と違って俺は誰でもいいのだから」
「そんな誰でもいいなんて……」なおも言いつのろうとする撫子さんに、仁永さんがまあまあ落ち着いてと割って入った。
「神獣にはよくあることなのですが、生涯番を持たない神は多いのです。神格が上がると、世の太平や広く生ける者達の安寧を願う気持ちの方が強くなるのです。か弱き者への慈愛はあれど、たった1人に特別な愛情を向けるとなると、その感覚は全く分からない。正直に言うと、私も恋愛感情は分かりませんし、伴侶を欲しいとも思いません」
仁永様の言葉に緑雨様はその通りと頷く。
「それでも……時々、心に火が付いてしまう者がおります。そうなると思慕の念は燃え上がり、何者も止めることができなくなる。何故なのか……生涯たった一人の番を熱烈に溺れるように愛しむ。緑雨様の父上が人の娘と出会って、そして……恋に落ちた。黒雨様はそれっきり、奥様から離れられない、ひたすら愛して求めて……」
緑雨様は呆れたように肩をすくめてみせた。
「普段は冷静沈着でひとたび怒れば、雷の雨を降らせるような非情の父上だがな、母上のことになると、何にも手に付かなくなる無能のトカゲ……おろおろ、デレデレと……あれは脳みそが溶けだしている。俺はあんな無様にはならないぞ、恋など竜を弱くする」
「それでは、主様は誰が花嫁になっても愛さないのですか?」
「愛さないとは言っていない。俺なりにできる限り大切にする」
緑雨様の「誰でもいい」という言い方は、私の胸を不安にさせた。緑雨様は姫様を大切にすると約束してくれた。けれど、恋などしないと言う。私にはその違いは分からなかったが、緑雨様には姫様をただ一人の花嫁として愛しんで欲しい。そうしないと姫様が幸せになれないような気がした。
「あ~まったく子供でこまりますですです。緑雨様は花嫁を迎えるには若すぎる。なーにが恋は竜を弱くするですか! タヌキは子宝の神なのに、こーんなお馬鹿が主とは情けないですです」
ポカポカとアオちゃんが緑雨様の頭を叩いて「そんなことでは、ぜーったいに花嫁に逃げられますですです」と荒く鼻息を鳴らした。
「そうです! 異界からわざわざ呼びつけおきながら、必要だから花嫁になれ、だが愛さないなどど、そんな態度では花嫁に失礼です。私だったら絶対嫌です、逃げます」
アオちゃんと撫子さんの勢いに乗って私もお願いした。
「姫様だけ……特別にしてほしい。……心配です。ちゃんと……姫様をあい? あいして……ください」
頭の上で髪をボサボサにして動き回るアオちゃんを手で押さえながら、緑雨様はむむむと困った顔になった。仁永様に助けを求めるように「どうすればよい、俺は花嫁に逃げられるのか?」と聞いた。
「私には、恋の仕方は分かりません。花嫁に逃げられない方法なんて聞かないでください。でも、真砂様を花嫁にすれば解決ではないですか? 緑雨様を嫌っていない様子ですし」
「だめです。私は花嫁になりません」
急いで私が否定すると、アオちゃんが「ほーらやっぱり花嫁に逃げられる。緑雨様ダメダメですです」と茶化した。
恋など分からないと言う二人の男性は、しばし無言で考え込んでいた。
緑雨様の頭からアオちゃんがポンと跳ねてクルンと回ると男の子の姿になって着地した。
「子宝の神であるこのアオ様が、仕方が無いので恋を教授してあげるですです。緑雨様は、女の子を喜ばせる手管を練習するですです」
得意げにアオちゃんが尻尾をふさふさと揺らした。
仁永様がふうむと顎に手をやって頷いた。
「いいかもしれません。真砂様に怒鳴らないでとお願いされましたし、感情に走らず紳士的な振る舞いを学ぶ良い機会です。緑雨様どうでしょう? 練習相手は私が竜族の娘から何人か連れて来ますよ」
ばっと牙を見せて、緑雨様が後ろにさがった。
「嫌だ! 心にもないことを言ったり、やったりできるものか! 第一俺は毎日忙しくて、そんな女を喜ばせている暇はない。仮に時間があったとしても、俺はアオと石を磨いてゆっくりしたいのだ。女にわざわざ会うなんて考えただけでもめんどくさい!」
さーっと冷たい3人の視線が緑雨様に集まった。
「めんどくさいって言いましたね」
「花嫁逃げるですです」
「……お子様………」
緑雨様が逃げるように私に視線をむけると、突然彼の瞳孔がぐっと大きくなり、虹色に光った。
「女……真砂も女の子だぞ! 真砂となら練習できる! 真砂が良い!」
満面の笑みで緑雨様の手が私に伸びてくる。また抱き上げられるのだと思った時、後ろから撫子さんが私をかばうように抱え込んだ。
「そんなこと、どうかなさらないで。真砂様に花嫁の練習をさせて、用が済んだら捨てるのですか?」
捨てる? のかな……私はよく考えてみた。緑雨様が女性に優しくする練習をするなら、それは姫様にとってとても良いこと。その手伝いができるなら、私は姫様の役に立てるのだ。
「私……やりたい。緑雨様の練習のお手伝い……します」
撫子さんがぎゅっと私を抱きしめてから、顔を覗き込むと「本当に良いのですか?」と心配げに聞くので「はい」と答えた。
「ありがとう真砂、ではおまえが餅になるまでの間、俺の練習相手になってくれ。不思議だな、真砂となら楽しみになってきた。アオ、俺はまず何をすればいいのだ」
緑雨様の瞳は淡く光って、銀色の髪は水が透き通るように輝く。はしゃいだ心の興奮が伝わってきて、今にも竜に変化して飛び上がってしまいそうだった。
「緑雨様、約束してくださいませ」
有無を言わせない鬼気とした勢いで撫子さんが緑雨様に言い放った。
「いいですか、もう真砂様に触れてはなりません」
「どうしてだ! 俺は真砂を抱っこしたい」
「なりません!!」
緑雨様が言い終わらないうちに、撫子さんはものすごい前のめりになった。
「花嫁にする気がない女性に、軽々しく触るなんて断固許しません。それからもう全部言わせていただきます。紅玉の主さまだろうが神竜様だろうが、撫子は真砂さまの為なら、どんな罰でも受けますから」
撫子さんの握る拳が震えていることに気付いた。彼女は怖いのに竜神さまに意見してくれているのだ、私の為に。
「誰でもいいなんて真砂様の前でもう言わないでくださいませ。この方がどれほど健気でいじらしいか……お願いですから傷つけるようなことはなさらないでくださいまし。それから、棒切れなんて、乙女になんてことを、それに餅の様になれなんてそれも失礼で……」
「それは誉め言葉でしょう?」
仁永様が急にそう言って「餅はほめてる」ともう一度念押しした。
鬼のように緑雨様に迫っていた撫子さんは、勢いを削がれて「はい?」と気の抜けた声を出した。
「餅のように福福と、あなたはとても健康的で美しい。真砂様もあなたの様に餅になるのはいいことだ」
仁永さんが真面目な顔で撫子さんをじっと見た。そして緑雨様に向き直ると、ぐっと厳しい顔になった。
「緑雨様の行動があまりにがさつであることは明白。恋心の分からない私でも、女性にむやみに触れてはならないことは知っています。猫じゃないんですから」
緑雨様は、アオちゃんにボサボサにされた髪をかき混ぜて、うーと不満げな声をだして、下を向いた。
「わかった……もう触らな……い。いやでも……なんか………………なあ、真砂は嫌なのか?」
アオちゃんがぴょんっと跳ねて、緑雨様の頭をポカリとした。
「順番があるのですです。1っこずつ進む。それまでは触らない、約束ですです」
「わかったよアオ先生」
緑雨様はしぶしぶ呟くと、はーっと深いため息を吐いた。




