12.境界の館
「真砂様、起きてください」
優しい声がして、目をあけると撫子さんの顔がある。身を起こして辺りを見渡すと、こじんまりとした畳の部屋で布団に寝かされていたのだと気づいた。
あ……れ? 私は倉庫で寝たのに……
「ふふ、驚いたでしょう? ここは私の家です。真砂様が眠った後、主様が運んでくださったのですよ」
目を擦って何とか眠気を払って起きると。撫子さんが服を貸してくれた。この異国の服は、草原を馬や羊と移動して暮らす民の服で、竜神様のお母様の国の服なのだそうだ。乗馬できるように上下が分れていて動きやすい。襟や袖に刺繍をしたり、凝った織物の腰帯をしてお洒落に着こなすのが、境界の館で流行っていると教えてくれた。
藤色の服を着せられて靴を履くように促され「これは花嫁様に用意したものではありません、私のをお貸しするだけですから」と私が受け取りやすいように気をつかってくれるのが分り感謝して着替えた。
「実はまだ、夜明け前なのです。眠いでしょうけど主様がお待ちです」
撫子さんの暮らす長屋のお部屋を出ると、ぐるりと建物に囲まれた中心に、吹き抜けの広場が広がっていた。私は口を開けたまま呆然として立ち尽くした。
広い……あまりに広すぎる。
この地に着いた時、遠目に大きな宮殿を見たが、いくら大きいと言っても限度がある。空間が歪んでいるとしか思えない。四方八方どちらを向いても、柱のが森のように立ち並び、果てが無く空間が続いている。上を見上げれば……いったい何階建てなのか、何段も建物が続いていて、遥か最上部には天井が無く空の星が見えた。
「おはよう真砂」
声を掛けられ見ると竜神様と仁永様がいた。
竜神様も自分と同じ形の服をお召しだった。お母様の国の服を選ばれているのだと知って、微笑ましいなと思った。宝石と豪奢な刺繍の織り込まれた深緑色の服は竜神様にとても似合っている。うねる前髪が隠す額には若葉色の大きな宝石が張り付いている。
でも、今日は目じりから下に宝石はついていなかった。お顔をまじまじ見ていると、竜神様はニカっと笑い「よく眠れたか?」と聞いた。コクリと頷くと大きな手が伸びてきて、ガシガシと頭を撫でられた。勢いよくされて頭がぐらぐら揺れた。
「主様、若い娘にそのように乱暴にしては…」
撫子さんが止めてくれたけれど、彼は「よしよしとしただけだ」と不思議そうな顔をした。
「では真砂、この地を確かめに来たお前に『境界の館』を案内しよう。カンナベの姫が気に入ってくれそうならいいが」
竜神様はそう言って、私をまず広場の中心に連れて行った。そこには里の家一軒分ほどの大きさの池があった。
「これはな、紅玉湖の目玉と呼ばれている。触ってごらん」
言われて、水辺にしゃがみ覗き込むと、澄んだ青色はあまりに美しく、魅了されて底知れぬ遥か深みに吸い込まれていきそうだった。綺麗な水に触れたくて池に手を差し入れた……
しかし、どんなに手を伸ばしても水に届かない。目の前に池はあるのに不思議だった。
「紅玉湖は意志ある不可思議な存在なのだ。その池から境界の館を覗き込んでいる。この第一層は広場になっていて、毎日市が立つ。たくさんの屋台が並んで、異界から来た者達が物を売ったり買ったり、それは活気がある。紅玉湖は賑やかなのが好きらしいからな、ワイワイガヤガヤと色んな者達がやって来るのを楽しく見ているのだろう」
紅玉湖が見ている!!
慌てて立ち上がり「こんにちは」とお辞儀すると、竜神様が声をあげて笑った。
「礼儀正しいな真砂。だが残念だが、紅玉湖の返事をもらった者は誰もいないのだ。こいつはひどい気分屋で、異界への入り口を次々造り出しては、いきなり閉じたりする。まったく迷惑な湖だ」
何故か私には紅玉湖が「良く来たな」と喜んでくださったように感じた。
さっき緑雨様に頭を撫でられたけれど、そんな風によしよしとされているような不思議な感覚……くすぐったいような、心地いいような……
「なんだか紅玉湖の機嫌がいいような気がする」
隣に並んで池を覗き込んだ竜神様が私の思った通りのことを言ったので驚いて見上げると、彼は頷いて見せた。
「俺はここで生まれ育ったからな、紅玉湖とは話せなくても家族のような親しみがある。まあ優しいばかりの相手ではなく厄介なところもあるが……俺は紅玉湖が好きだぞ」
意思のある湖とはとても不思議だったけれど、この澄んだ青色を見ていると素直に信じられる気がした。そしてこの見られている感じを、私は知っている気がした。私が毎日崖に登っている時、竜神の湖もまた私を見ていてくれたのかもしれない。
いつまでも池に見入っている私を竜神様が立たせた。そして「異界への入り口を見せてやろう」と、私を案内して薄暗い柱の森のような中へ入った。




