10.カンナベの姫
「緑雨、怒っているのか?」
自室に入るなり、仁永のしかめ面を横目に、俺は丸座布団に勢いよく腰を降ろすと深いため息を吐いた。
黒麒麟の仁永は俺が生まれる前に両親の養い子になった、だから家族として共に育った頭のあがらない兄さんだ。
やんちゃに暴れまわる俺のお目付け役として父に俺の側近を命じられてからは、仁永は臣下としての態度で俺に接する。だが緑雨様などと呼ばれるのにはいつまでたっても慣れないので、二人きりのときは兄弟の口調にもどしてくれとたのんでいる。
まあ、臣下のご丁寧な言葉遣いでも、鋭い皮肉で俺をグサリと刺して、お説教をしてくることにはかわりないのだが。
麒麟は慈愛の神獣であるので、諍いの元になる怒気は煙を吸い込むようなもので仁永には苦しい。神竜である俺の怒りとなれば強烈だろう、さっきから息苦しそうに顔をしかめている。
「ああ、怒っていた。野菜くずが食いたいと聞いた時には、馬鹿にするのもいい加減にしろと……とんだ我儘娘が来てしまったと思い我慢ならなかった……俺は確かに真砂に怒っていた。だが……」
そうだ、俺は怒っている。胸の中で行き場のない悔しさに似た怒りが渦巻いて、何処に吐き出していいかわからない。
持ち上げる度に思う、あまりに軽い体。まるで棒切れのように細い手足。
『姫様の物には指一本触れてはいけない』
真砂はそう言った。
この3日間、あの娘は自分の物ではないから食べてはいけないと耐えていたのだ。
だったら言ってくれと思うが、あの娘は俺に話しけてはいけないと固く信じていた。
どうして気づいてやれなかったか……
真砂が芋を食べてくれたとき、何かに胸を掴まれたように目が離せなかった。
無表情に、ゆっくりと小さな口が開いて芋をかじる。青白い横顔、伏せられた瞳を隠す睫毛がかすかに揺れる。土気色だった唇にほんの少し赤みが戻って……そうして……
黒水晶の瞳が俺を見上げた……
力を込めれば、紙切れを丸めるようにあっけなく壊れて死ぬ、脆い人間という生き物。
あの娘はすでに、まるで風に吹かれ消えかかるロウソクの炎のように生気が薄い。
ああそれなのに、黒水晶は燃えている、この俺の胸の芯に……燃え上がって迫ってくる、生命の炎。
あれは……あの気持ちは……なんなのだ。どう言葉にしていいか分からない。とにかく、もっと、もっと食べさせたかった。もっと、もっと満足させてやりたかった。そうだ、もっとだ、真砂にもっと、もっとなんだって与えてやれるのに……それが……
「ゴザだと……」
腹の中で消化できない何かがドロドロと重く居座っている。
許しがなければ話してならぬとは、そんな決まり事を誰が真砂に命じたのだ。
野菜くずを真砂に食べさせていたのは誰なのだ。
ゴザが欲しいという真砂に、そんな物に寝かせられるかと怒鳴ったら、きょとんと不思議そうな顔をしていた。あの娘にとってはゴザで床に寝るのが当たり前なのだ。
「緑雨ちょっと気持ちを静めてくれ……悪鬼と対峙する時でもここまで怒気を発したことはないだろ……私はもう……皮膚がビリビリしてきた」
「ああ、すまない仁永。落ち着くから」
顔に張り付けていた宝石の飾りを指でバリバリ剥がした。灯りを落した部屋で、石が落ちながらキラキラ光る。
ポッと青い炎が足元に現れると、丸耳と茶色い尾の付いたたれ目の幼子が現れる。俺の近習であるタヌキのアオが「もう、また散らかして……」と咎めるように口を尖らせながら、散らばった石を宝石箱に一粒ずつ入れていく。一番気に入っている額の緑水晶を握って覗き込むと、少し気持ちが落ち着いた。石を手渡すとアオはまた青火に戻って消えた。
「なあ仁永、真砂は『カンナベの姫』と言ったな」
離れていた仁永が戻ってきて、対面に腰を降ろしたが、彼は黙ってこちらを見るだけだった。
「俺たちが求めている、本当の花嫁の名だ」
俺はどうしても人間の娘と結婚したい。だがただの娘では駄目だ、紅玉湖を蘇らせる特別な人間の娘が必要なのだ。
人間……俺の母もまた人間だ。
俺は母の祖先が暮らす人界を守りたい。
そのためには花嫁選びを失敗するわけにはいかない。正しく、力がある、本当の娘が欲しい。
そのために、紅玉湖の主になったのだから……




