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1.姫様だけが

  その湖は山のてっぺんにあった。

 天に届くほどそびえたつ山頂は冷たい風が途切れることなく吹きすさび、生あるものを拒絶して草木一本生えない。

 太古の大噴火で穿(うが)たれた大穴に青い水が満ち、湖の周りは切り立つ崖がぐるりと囲んでいる。厚い雨雲の向こうに沈んでいく陽は姿を隠し、湖の青色はしだいに灰色へと暗くなっていく。

 断崖に生命の気配は無い、しかし小さな白い点がかすかに動いていた。

 

 垂直の崖にしがみつく1人の少女。

 麻の着物1枚で、ガリガリに痩せた裸足がむき出しになっていた。

 短い黒髪が湖から吹き上げる冷風に揺れている。


「ああ、あれが採れたら帰れる……」

 白い苔の塊が、届くかどうかぎりぎりの高さにあった。目当ての薬草がやっと見つかった。

 秋も終わりに近づき、日が暮れると一気に冷える。採れる薬草は日に日に減っているが、目付の役人たちは量が少ないと機嫌を悪くして、いつまでも薬草を探させるのだ。

 眼下には遥か下に湖が見える。崖はあまりに高いので水に落ちても助からない。己を守るのは腰に巻かれた1本の命綱だけだった。

 足を掛け直し、右手を思い切り伸ばした時、足場にしていた岩が崩れた。がくんと体が揺れ、崖から滑り落ちた。命綱一本で宙に浮き、ゆるく体が左右に揺れる。

 毎日この崖にへばりついて、薬草採りをさせられてきた。ヒヤリとしたことはあっても、こんな風に両足をだらりとさせて、命綱にしがみつくのは初めてだった。

 ブツ……ブツッ

 綱がちぎれていく嫌な音が聞こえた。全身に怖気が走る……

 私……落ちる!

 声を出す間もなく、命綱はブツリと切れた。

 同時に体が強く叩きつけられた、しばし息ができぬほどの痛みに耐える。

 崖下に真っ逆さまに落ち死んだ思った。だが運よく、すぐ下の岩の出っ張りに落ちたようだ。

「まさごー!!」

 己の名を絶叫する声が崖上から響いた。

 立ち上がると、打ちつけた痛みはあるが、怪我は無い。大きく息を吸い込むと「おーい、おーい」と声を張り上げて崖上の仲間たちに無事を知らせた。

「おお真砂、無事か!」

 崖上に髭面が見えた。いつも自分の命綱を握っていてくれる、おじさんの顔を見てほっと息をはいた。

 助かった、綱が切れたときは死ぬかと思った。

 岩の出っ張りはつかまらなくても立っていられる広さがあったが、手をかけられそうな場所がどこにも無い。自力で崖を登ることはできないだろう。きっとおじさん達が監督役人に頼んで、綱を降ろしてくれるに違いない。

「何をやっているか! 日が暮れるだろうがとっとと戻れ!」

 役人の怒鳴り声が、崖の上から聞こえた。

 一緒に来ている薬草採りのおじさん達が、私を助けるために役人に掛け合っている声が聞こえる。陽は湖の向こうに沈み、あたりを薄い闇が取り囲み始めた。

「捨てておけ、明日拾いにくればよい」

 信じられない言葉が崖上から響いた。

 捨てると言った……私助けてもらえないの?

 わあっと仲間のおじさん達の騒ぎ声が上がった。

「今すぐ助けてやらないと、もうすぐ雨だ、こんなところにいたら体が冷えて死んじまう」

「あの子はたったの10歳なんだ。お願いだ助けてやってくれ」

「もう日が暮れた。助けるに火がいるが、松明の油がもったいないだろう。いずれいつかは崖から落ちて死ぬ娘だ、あんな娘に使う油は無い」

 仲間のおじさん達が「お願いします、助けてやってください」と叫び続ける。それを抑え込むように役人たちが集まる足音が聞こえて、そしておじさん達が抵抗する騒ぎがしばしあった後、崖上は静かになった。私は置き去りにされたのだと信じたく無くて、必死に声をあげ続けた。

 声がかすれるほどに叫んでも答える者は誰もいない……

 夜だけが私の元に訪れて全てを真っ黒に変えた。


 自分の体さえ見えない真の闇の中にいると上も下も分からなくなってくる。1人膝を抱えてうずくまると、サーっと雨が湖面を叩く音がだけが聞こえた。

 降り始めた雨はすぐに体を芯まで冷やした。怖くてたまらないはずなのに、寒さに体があまりに激しく震え、考えることさえできなくなっていく。

 どうして私はここにいるのだろう……

 いつからしているのかも分からない……ぼんやりとした日々の中で、気が付いたら罪人のおじさん達と毎日薬草採りをさせられていた。

 私は自分のことが誰なのか思い出せない。里人から「真砂(まさご)」という名で年は10歳、父も母もいないのだと聞かされた。

 本来なら山奥の小さな里では子供は大切に守られる存在で、親のいない子はすぐに他の家にもらわれるのだそうだ。けれど私は誰からも大切にされない、何処にももらわれない。

 私はいらない子なのだ。

『罪人の子』

 父のことも、母のことも面影さえ浮かばない。何もかも消えたように記憶にない。  

 里の人がこっそり教えてくれた。父は大罪を犯した咎で母ともども処刑された。私だけが、ご当主さまのご慈悲で生かされたのだと。

 だから感謝して生きねばならない。

 私は本当は死ぬはずだったのだから……


 ざー ざー ざあ ざあ ざあ……


 雨が今夜も歌いだした。


 ここ神辺山は竜神が住まうという『竜神の湖』を戴いた特別に尊い場所。

 この山で採れる薬草は質が良く都でも評判がよいらしい。里人の多くが薬草採りをしているが、山頂近くの危険な崖や岩場は罪人達が働かされる。私はこの地を守る神辺家ご当主神辺綱元様のご慈悲で、罪人と一緒に働くことが許された。

 身が軽いからと断崖に生える苔を集めるのが私の仕事。夜明けから日暮れまで崖に張り付いて探しても、採れるのはいつもほんの僅か、役人に役立たずと罵られるばかりの毎日。

 山頂には薬草を乾かす薬草倉庫がある。そこが私の寝泊まり場所だ。夕暮れになると罪人達は牢小屋へ帰っていき、夜は1人で倉庫に残される。独りぼっちで倉庫の床で眠っていると、夜中から明け方にかけて毎晩のように湖の上に雨が降る。


 ざー ざー ざあ、ざあ、ざあ、

 まるで子守歌みたいに節がある、優しい雨が小屋の屋根を叩く。


 山の中腹にある罪人の牢小屋にも、(ふもと)の里にも歌の雨は降らない。だから子守歌の雨を聞くのは私だけ。寂しい夜もこの雨の歌が私を慰めてくれた。

 けれど今夜は、この雨がどうしようもなく冷たい……


 ああ、私は死ぬのだ。雨に濡れた身体は痛いほど(こご)えて、指先は感覚が無くなった。

 そもそも、なんで今まで生きていたのだろう。

 私に生きて欲しいと思う人などこの世に誰もいないのに……

 (まぶた)が重くなる……

 目を開けていても、閉じていても真っ暗だ……もう何も見えない…… 

 体の感覚が無くなっていく……もしかしたら私はすでに死んでいるのかも……


 遠くに己の名を呼ぶ声が聞こえる。大勢の足音と怒鳴り声。

 急に頭上が明るくなった。篝火(かがりび)が燃えるパチパチと木の()ぜる音……


 力強い腕が体に触れ、縄が巻き付けられていく。失いかけた意識の中で、自分が縄で宙吊りになって崖から引き揚げられていくのが分った。

 おじさんの弾む大きな声が聞こえた。


「良かったなあ真砂。姫様がおまえを助けてくださったぞ」


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