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二十二話 月夜の悪戯

 




 その日はよく働いたので、聖堂に帰ってからは仕事もそこそこに皆で早めに寝る事にした。


 夕飯を終え、入浴し、寝床を整えた頃の時間は何時もより一時間ほど早かった。


「ふむ······」


 どうしよっか。

 このまま早めに寝てもいいんだけど、私は早く寝たからって早起き出来る体質じゃないんだよね。


 一時間早く寝たら一時間余計に寝るだけだし、大幅に三、四時間早く寝ると今度は深夜に起きてしまう。どうして睡眠とはかくも思うような良い塩梅を実現してくれないのだろう。



「どうしよっかな······」


 早起きに繋がらないのなら、一時間早く寝ても勿体ない気がするし。

 本でも読もうかな。


「うん」


 そうしよう。

 最近はあの我が儘坊やこと殿下に邪魔され続けてロクに読書も出来ていなかった。ここらで少し読み進めよう。


 机のランプの灯りの横に本を置いて、しおりを取る。ここからが良いとこだ。




『二人きりになるタイミングは思いの外早かった。それは待ち望んでいた事であったし、十分考えられる事であったが、エリックの胸の内では形容し難い声が沸き上がっていた。


「神は僕を弄んでおられるのか!」


 それは悲痛な叫びでもあった。彼は、今の彼にとっての真の敵とは、鋼の鎧を容易く切り裂く牙を持つワイバーンでもなければ、大地を揺るがす蛮族らの軍勢でもないのだ。


 その敵はもっと手強く、そして如何様にしても討ち滅ぼす事も出来ない。

 そう、己の中のもう一つの心。その物。自身なのだ。


「エリック、君は近頃おかしいぜ? 何か心配事が?」

「君の思い過ごしだよスコット。僕は王にこの命を差し出して剣に忠誠を誓ったあの日から、迷いや不安も同時に消し去ったんだ。ああ、確かに消し去った」

「それは世迷い言だぜ。人はいくら自己を洗練しても完璧でなんていられない。君は確かに迷ってる。そして、苦しんでいる」


 エリックは今にも自分の剣を抜いて、その刃で胸を突き刺し、心臓を掴み出して天に掲げたくなるような衝動に駆られた。それをしなかったのは、まだ彼の心の舵を取る理性が、必死に思考を網目のように広げて彼を抑えていたからだろう。


「僕はなんて愚かなんだろう!」


 エリックは心の中で叫んだ。友を前にして、今の彼は裸であった。幾重にも重ねられたプレート、その下のかたびら。それを脱げば一枚の肌着が現れる。

 彼の汗と匂いを吸い上げ、温もりを恥じらうように滲ませる薄いシャツ。その下には、実に鋼よりも強くしなやかに鍛え上げられた肉体が波打っている。薄く張った肌は白く、弾けて、筋肉の脈流がビクビクと生き物のようにうねる。

 その奥に隠された彼の鼓動は、あるいは硝子のように脆く、そして今は炎のように真っ赤に揺らいでいた。


「エリック、僕らの目指す場所にきっと楽園がある。きっとそこにこそ、僕らが夢見た正義がある。そうさ、あの時から二人でずっと追いかけた正義が」

「僕には分からないさ。楽園の本当の意味なんて。でも、君がそう言うなら、きっとそうであるべきだ。正義なのか、理想なのか。それはまだ分からないが」


 エリックは喉を裂いて叫びたくなった。彼の頭の中では嘆きの声が木霊していた。


「ああ! スコット! 君は僕と一緒に居て、僕と同じ土を踏みしめている。そして、僕らは同じ場所を目指している。それなのに、僕の心が向く方向と君の向いている方向は全く別だ!」


 スコットは純粋であった。まるで少年のように。その流れるようなブロンドも、時折香る太陽のような匂いも、どこかを見つめる瞳の煌めきも。

 エリックがどれほど彼を想っても、スコットのその無垢な心は全く違う景色を見つめていた。


 エリックはついに呟いてしまった。


「心の底の衝動だけは如何様にしても誤魔化せないものだ」


 それは諦めの言葉であった。』




「············あ。そうだ」


 と、読書をゆっくりしていたところで、私は気が付いた。

 そう言えば昨日飲もうと思っていたワインがまだ残っていた。殿下にあれこれ付き合わされたりしてたせいで忘れてたけど、本来は昨日の夕方辺りに本と一緒に一杯やろうと思っていたのだ。


「······よし」


 せっかく時間もあるんだし、今から一杯やりますか。美酒を片手に、いよいよ燃え上がり始めた物語の熱い甘味を堪能しようじゃないか。


 本を置いて部屋から廊下に顔を覗かせる。エマ達に見つかると面倒な事になるかもしれないので、そっと忍ぶように出て食料庫へ向かう。外からの月明かりで、廊下が少しだけボンヤリと見える。


 何もかも静かに、迅速に。もはや聖女というよりこそ泥(聖女だよっ!)。


 左よーし、右よーし。


 食料庫に入り、指先に光魔法を蓄えて明かり代わりにする。


「お、あった、あった」


 新しいワインのボトルをゲット。

 しめしめ。たまにエマが鍵付きのチェストに隠したりする事もあるけど、今回は簡単に手に入った。

 まあ、もっとも。無くなったのがバレたら次からまた厳重にされるんだけどね。


 それはそれとして、今宵はこれで楽しもうじゃないか。



 意気揚々ルンルン気分で自分の部屋に帰ろうとした時、私はふと見た殿下の部屋の扉に違和感を感じた。


「ん?」


 暗がりの中目を凝らすと、部屋のドアが薄く開きっぱなしになっている事に気が付いた。


「?」


 次の瞬間にはサーッと背筋に寒気が走った。


 ──まさか、誰かに正体を見破られて拐われたのでは──


 でも、結界は万全なはずだ。何も反応は無いし。


 慌てて殿下の部屋に入る。中には誰も居ない。争った形跡も無い。

 もしかしたら単にトイレかもしれない。でも、誰も入ってなかったはず。


 そんな風に思考を巡らしていたら、台所の方からゴトっと物音がした。


 急いで音のした方へ足音を立てずに向かい、そっと中の様子を見る。暗闇に目を凝らすと、うっすらと輪郭が見えてきた。

 パンやチーズの入った食材チェストの前で何やら小さな影がゴソゴソと動いている。チラチラとランプの明かりが見える。人だ。


「······」


 不法侵入者か。もうっ、殿下の安否を確かめようと忙しい時に。

 でも、もしかしたら消えた殿下と関わりあるかもしれない。


 そっと扉を開けて、その影に近づく。

 気づかれないよう背後に回り、ワインボトルを背中にグっと突き付けた。


「動かないで。動いたら魔法で消し飛ばしてしまいますよ」


 すると、影がビクウッと飛び上がり、声を上げた。


「ま、待て! こんな事くらいで殺すのか?!」


 あれ?


「て、その声は殿下?」


 ボトルを下ろすと、ランプの灯りをくるんっとこちらに向ける殿下。くりくりお目めが動転したように揺れ、口元にはパンのカス。そして、右手には齧りかけのパン。


「······何やってるんですか?」

「見れば分かるだろう。つまみ食いだ」


 多分それ盗み食いです。


「シェ、シェイグランド卿、そんな盗み食いくらいで消し飛ばしたりするなよっ」

「いや、そんくらいで消したりなんかしませんよ。というか······」


 どうやら私の心配し過ぎの杞憂に終わったらしい。殿下はこっそり夜中に盗み食いに来ただけだったようだ。


「ほっ······。もう、心配させないでくださいよ。さっき殿下の部屋を見たらもぬけの殻になってたから、てっきり誰かに拐われたのかと」

「そんな訳ないだろう。まったく、驚かせるなよシェイグランド卿。チーズが喉に詰まるとこだったぞ」


 私の心配なんて気にしないで、呑気にモグモグとパンを貪る殿下。


「案外小心者なんだな卿は」

「警護にはそれくらいが良いのです。それより、いつまで食べてるんですか。夕飯はちゃんと食べたでしょう?」

「それでも腹が減ったんだ。仕方ないだろ。俺は今食べ盛りなんだからな」

「事情は理解出来なくもないですが、盗み食いとは感心いたしません。止めなさい」

「固い事言うなよ。君が犯してきた規則違反に比べれば子供の悪戯みたいなものだろう?」


 全く言い返せないのが辛い。

 でも、殿下の身の安全とかもろもろの為にも、夜中に勝手にさ迷われるのはいただけない。


「ともかく、部屋に戻ってください」

「まったく、卿はうるさいな。まるで本当に姉が出来たような気分······ん?」


 と、ここで。殿下が何かに気が付いた。


「卿、君が手に持ってるのは何だ?」

「······あ」


 殿下の指が、私のワインボトルに刺さる。


「ははーん。俺に偉そうな事を言っておいて、卿も同罪ってとこか」

「い、いえ、これは······」

「ま、固い事は言いっこ無しだ」


 殿下がスッとチーズを差し出してきた。


「ほら。我が国のチーズはワインによく合うと評判だぞ?」

「う、うぅ······」


 何という魅惑的な誘い。そうか、これが教団に伝わる悪魔の囁きなるものか。なんと恐ろしい。


 でも負けないっ。私だって聖女だ!誘惑に屈するなんてもっての他だ!

 ここはキッパリ断って、この生意気なちんちくりん皇太子にも姉としてズバッと言ってやる!


「しょうがないですね~。今夜は大目に見ましょう!」

「おうっ、流石は姉さん! 話が分かるな」


 あ、私の口は私の意思とは真逆の事を~。


『心の底の衝動だけは如何様にしても誤魔化せないものだ』


 あ。エリック。こういう事なんだね。抗いようのない強敵とは。なるほどー。君の苦悩が今よく理解出来た。



「シェイグランド卿、こっちに来いよ。月が綺麗だぞ」

「本当ですね。明後日あたりは満月でしょうか」


 私と殿下は、それぞれの獲物を持って窓際に並んで座った。


 月明かりが透明に青くって、隣の殿下の表情がよく見えた。


「なんだか楽しいなっ。悪い事してるみたいだ」

「みたいではなく、してるんですよ」

「それじゃあ止めるか?」

「まさか」


 私達は互いにクスクスと小さく笑った。

 月明かりの中で、小さな悪戯のような笑いが、妙に心地よかった。







 その後、トイレに起きてきたビショップに二人して見つかり、こってり怒られたのはまた別の話······。




お疲れ様です。次話に続きます。

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