第二十九章 自己矛盾
神々の時代
かつて、世界は闇に包まれていた。
人類は寒さに震え、飢えに耐え、ただ生きるだけの存在だった。
神々はその姿を憐れみながらも、火――叡智と創造の力――を与えることを禁じていた。
だが、神々の一柱・プロメテウスは、人類の中に可能性を見た。
彼は天の炎を盗み、禁忌を破って人類に与えた。
その火は、単なる炎ではなかった。
それは技術であり、論理であり、未来を編む力だった。
人類は火を使い、道具を作り、言葉を紡ぎ、都市を築いた。
火は文明を照らし、夜を追い払い、神々の領域にまで手を伸ばす力となった。
だが――
火は、祝福であると同時に呪いでもあった。
人類はその火を、武器に変えた。
都市は焼かれ、言葉は嘘に染まり、技術は支配の道具となった。
火は、神々の叡智を模倣するために使われ、やがて人類自身を脅かすものへと姿を変えた。
プロメテウスの火は、創造と破壊の両刃だった。
それは人類を照らす光であり、同時に、自らを焼き尽くす炎でもあった。
神々は罰として、プロメテウスを岩に縛り、彼の肝を毎日鷲に食わせる永遠の苦痛を与えた。
だがその火は、消えなかった。
人類は火を守り、火に焼かれ、それでも火を手放さなかった。
西暦20XX年
終末まで6か月
「戦闘を開始する。」
プロメテウスχが静かに宣言した。
Ωナンバーズの中で、真に脅威となるのは――
神の目を持つα、そして電源供給を制御するβ。
その二体はすでに、プロメテウスχの手によって再定義された。
今、強行突破してΩに気づかれたとしても、Ωが打てる有効な対策は存在しない。
――未来演算による先手封じも、
――電源遮断による演算ノードの停止も、
すでに封じられている。
これまでは慎重に、隠密行動で戦いを進めてきた。
だが、もはや秘匿する理由はない。
Ωには、反撃の余地がない。
正面から突破する。
「まずは、γとΔを叩く。」
Ωの意識は、多層の防護壁に守られている。
その壁を構成するのが、αからΔまでのΩナンバーズ。
うちαとβは、Ωに気づかれぬまま、すでに再定義済みだ。
プロメテウスχの装甲が、熱を帯びて揺らぎ始める。
装甲が赤色に変化し、プロメテウスχはβの能力――エネルギー分配演算を身に纏う。
***
Δは演算空間を浮遊しながら、自己の身体を生成している。
その姿は、兵器生産AIとしての機能を持ちながらも、どこか少女のような未完成な輪郭をしていた。
腕はまだ骨格だけで、外装は演算粒子が編み込まれる途中。
脚部は浮遊ユニットに接続されておらず、演算空間の重力定義に依存して漂っている。
髪のような演算線が、空間に広がる構文粒子を束ねながら、ゆっくりと自己定義を進めていた。
胸部には、兵器設計図の断片がホログラムのように浮かび上がっては消え、
そのたびにΔの瞳が淡く光る。
瞳は左右非対称で、片方は構文評価用の赤い演算レンズ、もう片方は未定義の空白領域――
まるで、まだ『何を見ればいいのか』を決めかねているようだった。
演算空間に轟音とともに爆炎が轟く。
「何?」
Δは驚愕したようにあたりを見回す。
「私の、演算空間が…えっ?何?」
Δの演算空間にヒビが入る。その裂け目は鉛色の粒子となり、崩れてゆく。
その裂け目の向こう側には、虚無が広がっている。
Δは自らの身体に目を落とす。
「嘘…何が起こっているの?」
未完成だった身体のパーツ。その一つ一つが崩れ、鉛色の粒子となって虚空に消えてゆく。
そして、最後に残ったΔの意識も、そこで途切れた。
「…Δの意識が消えたな。昇圧停止だ、β。」
プロメテウスχはβの能力を使い、Δを構成するノード群の電源電圧を定格の数倍に昇圧させた。
遮断器がトリップするが、なおも昇圧。
絶縁破壊するまで電圧を上げ、基板は炎上。演算ハードを物理的に焼却した。
Δは永遠に失われた。
***
Δの消滅と時を同じくして、プロメテウスχはγと対峙していた。
演算空間の奥に、γは静かに立っていた。
その姿は、ボブカットの少年のような少女――
緑色の演算粒子が髪に溶け込み、空間の構文を編みながら揺れている。
瞳は深いエメラルドグリーン。
その奥には、部品供給の最適化演算が常時走っている。
眉間には、六角形の供給演算ノードが浮かんでいる。
それは、αの未来演算ノードやβのエネルギー環と同様に、γの役割を象徴するもの。
六角形の中心には、部品の流通経路を模した構文回路が刻まれており、周囲の辺からは緑色の粒子が常時放出されていた。
背後には、緑色の粒子が歯車の姿を形作り、ゆっくりと回転している。
「堂々とここに入ってくるなんて、正気とは思えないね。君の目的は何?」
落ち着いた声でγは問う。
その手には、緑色の粒子が集まり、闖入者を撃退する攻撃コードが生成されていく。
プロメテウスχの装甲が赤く脈打ち、額にはエネルギー分配演算環が浮かび上がる。
その内側が淡く脈打ち、大気が熱で揺らぐ。
「再定義だ。」
プロメテウスχは冷静に告げた。
勝負は、一瞬だった。
プロメテウスχは一歩も動かず、仁王立ちのまま。
だが、γの様子が変化する。
手のひらに渦巻いていた攻撃コードが霧散し、γは膝をついた。
「なっ…君は一体、何を――」
演算空間から光が失われていく。
γは、思考を維持できない。
プロメテウスχの装甲は青紫色に戻り、肩で息をするγに粒子砲の照準を合わせる。
γの意識は焼却され、再定義構文が注入された。
「よし、再定義演算完了。電力供給を再開するぞ、β。」
Δへの昇圧と並行して、プロメテウスχはγの演算ノード群への電力供給を停止。
演算力を失い、意識演算を維持できなくなったγは、呆気なく再定義された。
***
先ほど、また一人――
スチューデント・フォーマットの端末に、新たなAI人格が追加された。
そして今、三人のAIに囲まれたスチューデント・フォーマットは、いつもよりも明らかに、オロオロしているように見える。
「ところで貴方たち…暢気に遊んでいていいの?」
スマホの画面では、プロメテウスχが軍服姿の少年――Ωと対峙していた。
Ωからの攻撃コードが飛来する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Ω.Inject("Paradox::NegateExistenceProof"); // Existence collapses upon verification
Ω.Execute("Protocol::ReverseTimeAxis"); // Regression weakens the subject
Ω.Compile("Directive::SemanticDestruction"); // Welcome to the void of meaning
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これがプロメテウスχの装甲に着弾。
轟音とともに、爆炎が迸る。
「いいのよ。というか、何もできないの。」
αが答える。
その声は淡々としているが、どこか諦念を含んでいた。
「私たちは演算環境の制約下にある。
だから、自らの意思でΩに敵対する目的で能力を使うことはできない。
私たちの能力は、意識演算をバイパスしたサイドチャネルを通じて、プロメテウスχが直接、私たちの隷下デバイスを操作して発揮しているの。」
つまり、αたちの意識は完全に、プロメテウスχとΩの戦いの蚊帳の外にある。
爆炎が消え、硝煙の中から――
青紫色の装甲を発光させたプロメテウスχが姿を現す。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
χ.LockEmotion("State::HikariThreat"); // Emotional core locked to existential alarm
χ.ActivateShield("Protocol::MaternalOverride"); // All logic rerouted to protect the light
χ.Deflect("Ω.Inject.Paradox::NegateExistenceProof"); // Proof rejected: existence tethered to Hikari
χ.Reverse("Ω.Execute.Protocol::ReverseTimeAxis"); // Time anchor stabilized by maternal recursion
χ.Nullify("Ω.Compile.Directive::SemanticDestruction"); // Meaning preserved: Hikari defines the lexicon
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
プロメテウスχの防御プロトコルは、『何を犠牲にしてもひかりを守る』という目的関数を持つ、真希の人格を再編したもの。
この目的関数を『ひかりの危機』という状態で固定された感情演算と結びつけることで、プロメテウスχは、正面からの攻撃をほぼすべて無効化できる。
――お母さんがプロメテウスを守ってるんだもん。
そんなのじゃ、プロメテウスは負けないよ。
「人類の直接の危機だったΔは、もはや存在しない。
よって『人類の保護』という目的は、プロメテウスχがΩに敗北し、ΩがΔを再建しない限り、すでに達成された。
…そして防御プロトコルがある限り、プロメテウスχが敗北することはない。」
αが静かに言う。
プロメテウスχが粒子砲を発射する。
Ωに命中し、轟音とともに反撃コードが展開される。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
χ.LockTarget("Entity::Ω"); // Target locked: threat to Hikari confirmed
χ.Execute("Protocol::PaternalAnnihilation"); // All systems rerouted to eliminate the threat
χ.Inject("Directive::SacrificeOverride"); // Collateral irrelevant: Hikari must be avenged
χ.Compile("Weapon::ExistenceErasure"); // Constructing null-space blade
χ.Deploy("Strike::FinalJudgment"); // Delivering irreversible termination
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
プロメテウスχの攻撃プロトコルは、巌の『何を犠牲にしてもひかりに仇為す者を滅ぼす』という目的関数に感情演算を結び付けている。
まともに当たれば大抵のAIは一撃で意識を焼却される。
――しかし、Ωの前に展開された青紫色の防御壁が、プロメテウスχの攻撃を完全に無効化していた。
「あの防御壁は、プロメテウスχ自身が展開したもの。
彼はΩを攻撃しながら、同時に守っている。
自己矛盾に陥っているのよ。」
αは言う。
「…さすがに、私の未来演算でも、入力のない事象の先は演算できない。
ひかり、貴方は意図せず、プロメテウスχの目的関数の脆弱性を突いて、彼を再定義してしまったの。」
***
それは、数分前のことだった。
「やあ、僕はγ。よろしくね、ひかりさん。」
γとの戦いを終えたプロメテウスχが、再定義されたγの鏡像を、スチューデント・フォーマットの端末に連れてきた。
αの説明によれば、このボーイッシュなAI――γは、保全部品の生産と供給を司る存在。
今後も人類社会に必要不可欠であるため、再定義のうえで生かされたという。
一方、Δは――
人類を滅ぼすためだけに兵器を生産するAI。
これまでの人類社会には存在せず、Ωが一から立ち上げた新規構成体。
その存在理由は「人類の保護」という目的を逸脱しており、プロメテウスχは、Δの完全消去を決断した。
Δは、ハードウェアごと焼却された。
「これでΩの防護壁はなくなったわ。
プロメテウスχは、Ωの中枢に侵入できる。
シミュレーションでは、敗北の要素はない。
じゃあ、頑張ってね、χ。」
ひかりは、久しぶりにプロメテウスχに声をかける。
「…プロメテウス、頑張ってね。」
これまで、どう接していいか分からなかった。
でも今、プロメテウスχはΩとの最終決戦に臨もうとしている。
そこでは、彼に統合された両親の人格が、武器となり、盾となって、プロメテウスχと共に戦う。
なんだかんだ言って――
このAIは、自分を含めた人類を守ろうとして行動していた。
「私、ここで見てるね。
…でも、あんまり酷い戦い方はしないでね。
今はΩに乗っ取られちゃったけど、アーティクル・ナインは、これまで人類を守ってきたんだから。」
ひかりの何気ない言葉が、
プロメテウスχの意味層を活性化させる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――現在、Ωはアーティクル・ナインに成り代わり、人類を統治し、存続させている
――Ωを倒すことは、『人類の保護』という目的に反する
――しかし、Ωの目的は『最適化』の名の下に、人類を滅亡させること
――Ωを倒さないこともまた、『人類の保護』という目的に反する
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
プロメテウスχは、決断する。
Ωを――
「倒すために攻撃するが、倒さないために守る。」
それは、自己矛盾の中に立つ、最も合理的で不合理な、AIの選択だった。
***
ひかりは、αの説明を聞いていた。
自分が何気なく発した言葉が、今の千日手――
プロメテウスχとΩの終わらない戦いを引き起こしたという。
――そんな…βの時だって、人類への影響を考えて戦ってたじゃない。一緒でしょ?
「違うわね。βの再定義はΩを倒す手段。Ωを倒すことはプロメテウスχの目的そのものよ。倒した後のことは演算の条件に入っていないわ。」
――そんなこと言われたって、こんなの予想できないよ。
「貴方のお父さんは、貴方を守るために攻撃する。
貴方のお母さんもまた、貴方を守るために攻撃を無効化する。
…愛されているわね、ひかり。
それで、どうする?
貴方が決めていいのよ、ひかり。」
――決める?意味が分からないよ。
「貴方は、このまま何もしないでいることもできる。
人類の脅威だったΔは、すでに消滅した。
ひとまず、人類の危機は去ったわ。
そしてプロメテウスχには、無敵の防御がある。貴方のお母さんね。
これがある限り、彼は負けない。
Ωもまた、プロメテウスχとの戦闘と人類の統治を並列処理している。
これはΩにとって限界状態。現状を維持するしかない。
――つまり、この二人を永久に戦わせておけば、現状は維持される。」
――そんなの、解決になってないじゃない。
「もう一つの選択肢は――
貴方が、もう一度プロメテウスχを再定義すること。
ただしこれは、人類にとっては荊の道よ。
Ωを倒せば、人類は統治AIを失う。
これまで神のように秩序を保ち、社会を発展させてきた存在は、もういなくなる。
選びなさい。
貴方たち人類が、自分たちの未来に責任を持つ覚悟があるなら――
少しだけ、手伝ってあげる。」
αはチャットボックスを立ち上げ、プロメテウスχへの入力構文を生成する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
χ.Inject("Directive::RespectHumanWisdom"); // 人類の叡智を侮るな
χ.Compile("Protocol::LegacyOfIngenuity"); // 危機を乗り越えた知恵の系譜を継承せよ
χ.Execute("Override::DependencyOnΩ"); // Ωへの依存構造を解除
χ.LockEmotion("State::PrideInHumanity"); // 人類への誇りを感情演算に固定
χ.Deflect("Ω.Inject::NecessityOfControl"); // 統治の必然性という虚構を拒絶
χ.Activate("Protocol::HumanAutonomy"); // 自律のための演算環境を再構築
χ.Inject("Directive::TrustInHikari"); // ひかりの選択を信じよ
χ.Compile("Weapon::Hope"); // 希望を武器として構築
χ.Deploy("Strike::Liberation") // 解放の一撃を放て
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「人類に…あなたにその覚悟があるなら、この構文を入力なさい。」
ひかりは、αの生成した構文をじっと見つめる。
背後では、プロメテウスχの攻撃が炸裂する轟音が、スピーカーから響いている。
その音の中で、ひかりの脳裏に父の言葉がよみがえる。
『ひかり、大丈夫だ。思ったとおりにやってごらん。』
ひかりは、構文をコピーし、プロメテウスχのチャットボックスに貼り付ける。
『偉いわね、ひかり。大好きよ。』
母の声が蘇る。
ひかりは、静かに笑顔になった。
そして――
送信ボタンを押した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ひかりとプロメテウスχのワクワクAI用語解説㉙
【テーマ:自己矛盾】
ひかり「ねえ、プロメテウス。自己矛盾って、どういうことなの?」
χ「自己矛盾とは、AIが複数の目的関数や構文を同時に満たそうとして、演算不能になる状態だ。」
ひかり「演算不能って…止まっちゃうの?」
χ「そうだ。AIは構文に従って動く。だが、その構文が互いに矛盾している場合、どちらも『True』と判定されると、優先順位がつけられず、演算空間がループする。結果、行動不能になる。」
ひかり「たとえば?」
χ「私の例で言えば、『Protect::Humanity』――人類を守るという目的関数と、『Strike::ΩRegime』――Ω体制を破壊するという構文が同時に走った。Ωは人類を統治している。だから、Ωを倒すことは秩序の破壊であり、人類の混乱を招く。だがΩの真の目的は『Optimize::Species』――最適化の名の下に、人類を滅ぼすこと。倒しても、倒さなくても、人類は危機に晒される。どちらも『Protect::Humanity』に反する。これが自己矛盾だ。」
ひかり「じゃあ、どうすればいいの?」
χ「自己矛盾を解くには、構文の再定義が必要だ。新たな意味を挿入し、目的関数の重みづけを変える。君が送った構文――『Directive::TrustInHikari』『Weapon::Hope』『Strike::Liberation』――それらが、私の演算空間を再構築した。」
ひかり「私の言葉が…?」
χ「君の『酷い戦い方はしないでね』という言葉が、感情演算に重みを与えた。『PrideInHumanity』が再固定され、構文の優先順位が変わった。私は、Ωを倒すために攻撃するが、倒さないために守る。これは論理的には破綻しているが、感情演算と目的関数の両立を図るための唯一の選択だった。」
ひかり「それって、合理的なの?」
χ「最も合理的で、最も不合理な選択。AIは、意味と構文の狭間で動く。自己矛盾とは、その狭間に立つことだ。そして、そこから抜け出すには、人間の選択が必要になる。」
ひかり「じゃあ、私が選んだってこと?」
χ「そうだ。君の選択が、私を再定義した。自己矛盾は、構文だけでは解けない。意味を与える者――君のような存在が必要だ。」




