EP8
バザークは、レミーユとセシリアの二人を先導しながら、馬を走らせていた。
ベルガス山脈を右手に捉えながら大きく迂回し、今は鬱蒼と茂る大森林の中を進んでいる。
進む先々には、無惨に切り裂かれた魔族の亡骸や、飛び散った血の跡が点々と残っていた。
そのどれもが、つい先ほどのものに思えるほど新しい。
それが何を意味しているか。
答えは明白だった。
アーサーが、ここを通ったのだ。それも、ごく最近。
しかも、彼が全ての敵襲を斬り倒していったことは、周囲の静けさが物語っていた。
この一帯は魔王軍のテリトリーである。通常であれば、魔族との遭遇は避けられない。
それにもかかわらず、バザークたちは一度として戦闘を強いられていない。
「二人とも、馬とはここでお別れだよ」
バザークが手綱を引きながら振り返ると、目の前には大森林の終わりが見えていた。本来ならば数日かけて踏破するはずが、敵襲もなく道が切り開かれているので、馬を走らせるだけで容易に潜り抜けることに成功していた。
「あっという間だったね」
「何一つ危険な目にあっていないのも、アーサーのおかげでしょう」
二人は馬から降りながら口々につぶやくと、荷物をまとめて少し体を伸ばした。
「こっちだよ。ここから先は地盤が悪いから馬を走らせるのは不可能なんだ」
先導するバザークの視線の先に広がっているのは、黒く荒れ果てた広大な荒野だった。
地盤は酷く歪み、岩が転がり、地表には無数の亀裂が走っている。
馬で進めるような地形ではない。
バザークは申し訳なさそうに馬を撫で、森の中へ三頭を解放した。
「……酷い有様ですね」
隣に立ったレミーユが静かに呟く。彼女の澄んだ瞳が、遠くの空を見つめていた。
「魔王の仕業、だよね……」
セシリアの声も沈んでいた。
空は分厚い黒雲に覆われ、太陽の光を完全に遮っている。
辺りに漂う空気は冷たく、まるで刃のように肌を刺す。
風の音だけがかすかに耳をくすぐり、あとは何一つ聞こえてこなかった。
生き物の気配も、緑の匂いも、すべてが失われた大地。
自然が死に絶え、人の営みが立ち消えた場所。
それが、魔王城へと続く道だった。
「バザーク、あの街は……もう……?」
レミーユが遠くを指差す。そこには、かつて街だったものの名残があった。
崩れた石壁。崩落した屋根。剥がれ落ちた標識。
「……うん。十年以上前に滅ぼされてる。僕の故郷さ」
バザークは答えながらも、表情を崩さずに前を見据えた。
かつて街を囲っていた高い防壁は無残に崩れ、石畳の道は割れて苔に覆われていた。
そこかしこに雑草が伸びているものの、どれも弱々しく、色彩もない。
音のない風景は、ただ虚ろで、かつての賑わいを思い起こすにはあまりにも痛ましかった。
バザークは静かに街の中へと足を踏み入れる。
かつての風景を思い出すように、ひとつひとつ、目に焼きつけながら。
この先には、さらに多くの街が滅ぼされ、より深い絶望が広がっていることを、彼は知っていた。
魔王城に近づくほどに、目にする風景は凄惨さを増していく。
だが、そのすべてを乗り越えた先に、アーサーはいる。
「……すごいね。わたし、こういうの初めて見た」
セシリアが呟いた。視線の先には、街の中心にそびえる大きな尖塔がある。
かつては人々の手で守られ、この街の象徴であった建造物。だが、今はひとたび風が強く吹けば崩れてしまいそうなほど朽ち果てていた。
瓦礫の合間を抜けて立ち尽くす尖塔は、まるで過去の栄光を嘆くかのようだった。
「エルフの国の一部も、魔王軍の侵攻を受けています」
隣で静かに語るのは、レミーユ。
彼女は落ち着いた口調で続けた。
「今は魔法結界を張って持ち堪えていますが、破られるのも時間の問題でしょう。この街のようになる日も、遠くないのかもしれません」
その言葉に、バザークは小さく息を吐いた。
魔法に長けたエルフでさえ苦戦を強いられている現状。十数年前にこの街が滅んだのも、決して不思議ではなかった。
魔族は数こそ少ないものの、一体一体の力が桁違いだ。
人間の兵では、そう簡単に太刀打ちできる相手ではない。
けれど、バザークは思う。
——今は、違うかもしれない。
彼らの前には、アーサーがいた。
たった一人で魔族を斬り伏せ、前へ進む少年の姿を、確かに見た。
「少し、休憩を取りましょうか」
レミーユが提案すると、セシリアが頷いた。
「うん。疲れて危機感が鈍っちゃうのが一番怖いしね。ほんとは、早くアーサーくんを見つけたいけど」
三人は近くの崩れた建物の残骸に腰を下ろした。
荒野の静けさが風に乗って頬を撫でる。緊張は抜かず、周囲を注意深く見渡しながらの休息だった。
沈黙が少しだけ流れた後、バザークはふと尋ねた。
「そういえば……レミーユさんとセシリアさんは、どうしてアーサーを追ってるの?」
ずっと馬を走らせてきたせいで、詳しい話を聞く機会がなかった。
ただ、二人がそれぞれハイエルフの王女とアルス王国の王女であるということは、少し前にようやく知ったばかりだ。
バザークは平民なので、彼女らはまるで別世界の存在だと認識していた。
それでも、彼女たちはこの過酷な地まで来ている。
アーサーを追う理由が、どうしても知りたかった。
「彼を一人で行かせないためです」
レミーユが言った。言葉には静かな決意が宿っていた。
「おそらく、彼は故郷の村を救おうとして動いたのでしょう。そしてそれを成し遂げた。しかし……それでも、魔王は一人でどうにかできる相手ではありません。無謀です」
「そうそう。わたしたちに黙って抜け出したのが、まず許せないんだよね。バザークくんは?」
セシリアも続ける。憤ってはいたが、その中には心配と焦燥の色が濃く滲んでいた。
バザークは一度頷き、口を開いた。
「……僕は、アーサーに伝えたいことがあるんだ。だから、死なれたら困る。最後に見た彼はとても悲しそうな顔をしていたから、だからこそ、こんな僕でも、何か力になれるならと思って」
アーサーが背負っているものは重すぎる。
バザークはその重さの一端を見てしまったからこそ、傍にいたかった。
彼の生い立ち、村長の言葉、村の空気、そして犠牲となった家族のこと。
真実を伝えなければならない。伝えることが、彼の力になれる最初の一歩だと信じていた。
彼が知りたがっていた「なぜ」を、残したままにはしたくなかった。
「……その、彼の家族は無事でしたか?」
おずおずとしたレミーユの問いに、バザークは無言で肩をすくめた。言葉は不要だった。
それだけで彼女には全てが伝わったようだった。
「そう、ですか」
レミーユの声がわずかに沈む。
バザークは少し間を置いて、ぽつりと口を開いた。
「アーサーは凄く悲しそうだったんだ……」
思い返すたび、あの夜の背中が胸に引っかかる。
あれほど早く出発したのは、自暴自棄になっていたから。そう思えてならなかった。
それだけ、彼にとっての父と姉は大切な存在だったのだ。
沈黙がしばらく続いた後、バザークはふと、視線を上げた。
「……ところで。レミーユさん、セシリアさん。ちょっと聞いてもいいかな」
「なに?」
「お二人は……誰が“勇者様”だと思う?」
それは確認だった。
自分が初めてアーサーを見たときに感じた、直感。あれが勘違いなのか、それとも……
「アーサーでしょうね」
レミーユは即答した。何の疑念もなく、真っ直ぐ答えた。
「うん、レミーユちゃんと同じく、わたしもアーサーくんが勇者だと思うよ。直感だけどさ。多分、他の人にはわからない感覚だと思う」
セシリアも笑みを浮かべながら、迷いなく頷いた。
二人の目が一瞬、交わった。
その様子を見て、バザークは安堵とともに胸を撫でおろした。
やっぱり、自分だけじゃなかったのだ。
「僕も……なんとなく、わかったんだ。最初に見た時から、アーサーこそが勇者様だってね」
その一言に、レミーユとセシリアの目が揃って見開かれた。
次の瞬間、訝しむように彼の方へ視線が集中する。
「……な、なにかな? そんなに見られると、なんか変なこと言ったみたいで……」
「それってつまり、直感でアーサーが勇者様だと思った……ということですか?」
レミーユが一歩、近づいてきた。
その目には明らかに、ただ事ではないという色が宿っている。
「だって、百体以上の魔族をたった一人で倒してたし……あの佇まいとか、剣の振るい方とか。あと、独特な雰囲気も。聖剣は抜けなかったみたいだけど、そういうの関係なく、そう思ったんです」
正直な気持ちを並べると、セシリアが目を細めて、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「ふーん。そうなんだー……なるほどねぇ」
「え、えっと……何かまずいこと言いました?」
バザークが戸惑いながら問い返すと、セシリアは軽く首を振った。
「ううん。別に。ただ、運命ってあるんだなって思っただけだよ。ほら、百年前の勇者パーティーもそうだったでしょ? 運命的に惹かれ合って、出会ったって。どうりで初対面なのに、どこか通じ合ってる気がしたんだよねー。納得、納得」
セシリアの言葉が、まるで謎かけのようで理解しきれなかったバザークは、思わずレミーユに助けを求めるような目を向けた。
レミーユは、肩を竦めて小さくため息を吐くと、真面目な声で問いかけた。
「バザーク。貴方はどのようにして“勇者様”を見つけるか、ご存知ですか?」
「えっと……聖剣を抜いた勇者候補が“勇者様”になるんだよね。それ以外にもあるの?」
バザークが首を傾げると、レミーユは少しだけ意味深な笑みを浮かべた。
「……賢者モルド様によると、特有の資質を持つ賢者、僧侶、戦士は“直感”で勇者様を見つけ出せるのだそうです。そして、その三者は“運命”によって、自然と惹かれ合うとも言われているのです」
「運命……?」
バザークが困惑気味に呟くと、レミーユは言葉を重ねた。
「私たちがアーサーに“勇者の影”を見たこと。私たち三人が、こうして出会い、自然に同行することになったこと。とても偶然とは思えないんです」
言われてみれば、初対面とは思えない不思議な親しみがあった。
続けて、セシリアは無邪気に笑いながら一言添えた。
「ねぇ、レミーユちゃんが賢者、わたしが僧侶ならさ。戦士って、誰だと思う?」
その視線が、自然とバザークに向けられる。
「……え、えっと……もしかして、僕?」
自分を指差すバザークに、二人は微笑みながら頷いた。
現実味がない話だった。
でも、どういうわけか、バザークはその言葉が心の奥に、すとんと落ちてきた。
不思議なくらいに納得できた。
彼らがアーサーを勇者と呼ぶのなら、そう信じたいと思った。
「……僕が、勇者パーティーの戦士ってこと? え、ほんとに?」
「その通りです」
微笑みながら頷くレミーユを見た途端、バザークの心臓は大きく跳ねた。
それは喜びと不安によるものだった。運命に選ばれた自分のことが怖くなる。
「いや、待って。仮にそれが本当だったとしても、アーサーが聖剣を持っていなかったのはどうしてなんだい? アーサーが勇者様なら聖剣を抜けるはずだよね?」
レミーユとセシリア、そしてバザーク、三者が賢者と僧侶と戦士だったとしても、それはアーサーが聖剣を抜けなかった理由にはならない。
勇者は聖剣を抜くことができる。その事実に変わりはないのだから。
「それは私たちにもわかりません。ですが、アーサーは聖剣を抜く時に不敵に笑ったそうですよ。それにも何か意味があると思いませんか?」
「うん。パパは資質がどうとか言ってたけど、自分の故郷を助けたくて余裕がなかったアーサーくんが、そんな場面で意味もなく笑うわけがないものね」
「……じゃあ、アーサーは《《聖剣を抜けなかった勇者様》》ってことかい?」
随分とおかしな話だったが、アーサーが勇者ならばそう仮定すれば納得できた。
「私たちの推測ではそういうことになりますね。無論、彼自身に聞かなければ真意は分かりせんが」
「ちなみに……聖剣は持っていないけど聖滅は持っているんだよね? 僕はあまり詳しくないけど、とびきり強い力だったりするのかい?」
バザークが聖剣以外にも気になっていた事だった。
多くは語らないアーサーには聞けないことだった。
「わかりません」
「わからない? どうして?」
「アーサーは周囲の誰にも自分が持つ聖滅の事を語っていないので、彼が持つ力を知る人はこの世に存在しません」
レミーユは不服そうに頬を膨らませた。
隠しているとか嘘をついているとか、そういうわけではなかった。
となると、バザークはますますわからなくなる。
たくさんの疑問が頭の中に湧いてくる。
「……確かに、魔族を倒した時も剣しか使ってなかったかな。どうして隠すんだろう?」
「それもわかりません。きっと何か深い理由があるはずなんですが……」
「アーサーくんは『聖滅を使うには覚悟が必要』って言ってたよ。だから、多分訳ありなんだろーね」
セシリアは天を仰いで呆れた面持ちだった。
レミーユと同じく唇を尖らせて不満そうにしている。
「訳ありって……まさか、彼は聖剣でもなんでも無い剣一本で魔王を討伐するつもりなのかい?」
「そのようです。聖剣は愚か聖滅も使用せずに魔王に挑むだなんて自殺しにいくようなものですよ」
レミーユは大きな溜め息を吐く。アーサーの身を案じるあまり気が滅入っているようだった。
「でも、アーサー自身は聖滅の事を誰にも話したくないんだもんね。無理な追求はしない方が良さそうかな?」
「うん。わたしも最初はグイグイ聞いちゃったけど、あんなに誤魔化されたってことは本当に言いたくないんだろうなぁって」
「そうですね……私も彼の力が心底気になりますが、これ以上の追求は控えようかと思います。いっそ、剣だけで魔王を討伐するという勇者様のことを賢者として信じてみます」
この瞬間を持って、三人の中で一つの約束事が決まった。勇者であるアーサーを信じることにした。
「それにしても、僕が戦士かぁ……夢みたいだなぁ」
バザークは現実を直視できていなかったが、徐々に飲み込み始めていた。考えるにつれて、胸の辺りには温かみが宿っている。
心臓の鼓動が早くなり、力が漲る感覚だった。
「私も同じです。アーサーが勇者様である事実は信じられるのに、自分が勇者パーティーの一員である事実は未だ信じきれません」
「わたしは最初から自分のことを信じてたよ! だって、わたしと同じくらいの回復魔法と補助魔法を使える魔法使いなんて他にいないしね! レミーユちゃんも謙遜してるだけで一緒だもんね?」
「まあ……威張るつもりはありませんが、否定はしません」
胸を張って堂々とするセシリアと照れ臭そうなレミーユは、対照的でありながらも相性が良さそうだった。
適度な相性と仲の良さは戦闘において優位に働く。
特に連携面に関しては言うまでもない。
バザークが持つ気さくな性格と空気に溶け込む力は、そういう面で役に立てそうだった。
「……さて、そろそろ出発しようか」
バザークは瓦礫から飛び降りて体を伸ばした。
短い時間だったが、しばしの談笑を挟むことで気を休めることができた。
空は黒い雲に覆われている。しかし、まだ夜ではない。むしろ、太陽の方角を見るに明るい時間だった。
この先には別の小さな街があり、今日の目標はそこに辿り着くことだ。
魔族を倒しながら進むアーサーはそれほど遠くにはいないと仮定し、彼が進む最短ルートをそのまま辿っていくのが最善だ。
「バザーク、魔王城まではどのくらいですか?」
「地図上の話だと、こっちの方向に果てしなく進めば魔王城があるね。かつての大国を魔王が侵略してそのまま使ってると思うよ。でも、地殻変動と悪天候のせいで簡単に辿り着くことはできないし、距離も相当あるはずだよ」
バザークは魔王城の場所をある程度把握していた。
魔王は魔王城を中心に勢力を拡大していて、その度に人類から現れた勇者と戦っている。
百年前は勇者様にかなり追い詰められて力を落としていたが、ここ数年はめきめきと活性化を図っている。
なので、急がなければならない。
「まあとにかく、アーサーを追いかけようか」
バザークは二人に微笑みかける。
レミーユは笑みを返した。しかし、なぜかセシリアは高く積まれた瓦礫に目をやり固まっている。
横顔しか見えないが、瞳を閉じて耳に手を添えているのがわかる。
「……セシリア? どうかしたのですか? 瓦礫に何かあるのですか?」
「うん……何か聞こえない? 近づいてくるよ……何かが飛んでくるよ! 後ろに下がって! 早く!」
耳を澄ましていたセシリアは、突如として目を見開き叫びを上げた。
そして、次の瞬間には、バザークとレミーユの手を取って後方へと駆け出していた。
寸秒。地鳴りのような轟音が響き渡る。
「な、何が起きたのですか——」
レミーユの叫びは、刹那の間に流れゆく爆風によってかき消される。更に、同時に発生した砂煙は僕たちの視界を遮り、一瞬、辺りの様子が見えなくなる。
しかし、すぐに煙を切り裂くようにして、一陣の風が吹き抜けた。
途端に砂煙が晴れると、さっきまでそこにあったはずの瓦礫が砂塵に変わっていた。
砂塵は山のようにこんもりと膨れている。
「な、なに!?」
セシリアだけじゃない。バザークとレミーユも困惑して視線を交わす。
何かが瓦礫に激突したのは間違いない。それは魔法かはたまた別の何かか。とにかく、先ほどまで平穏だった空気には暗雲が立ち込めていた。
「セシリア! 臨戦態勢に入ってください! 私に魔法の威力を高める補助魔法を! バザークにはデコイとして動けるように俊敏性と肉体防御を上げる補助魔法を!」
「言われなくてもわかってるよ!」
レミーユの指示に従い、セシリアは即座に魔法を唱えた。二人が動き出すのは早かった。
山のように膨れる砂塵を見据えて警戒の色を露わにしている。
「……魔族?」
バザークは剣を抜き、砂塵の山を凝視する。
細かな粒子が山のように膨れた砂の奥には僅かな動きが見え、中に何かが埋もれていることが分かった。
彼はレミーユとセシリアに視線を送り、恐る恐る砂塵の山に近寄る。
すると、突然、砂の山からガバッと手が飛び出してくる。
次に空気を手繰り寄せるかのようにして腕が現れ、順に頭と体が砂の中から姿を見せる。
現れたのは探していた人物だった。
「くそ……」
苦々しく吐き捨てるように立ち上がったのは、傷だらけのアーサーだった。
百を超える数の魔族を蹂躙した勇者の姿とは思えないくらいボロボロだ。
「アーサー!」
レミーユは砂塵をかき分けてアーサーに駆け寄ると、彼の体の状態を確かめるように優しく手を這わせていた。
「ヴェルシュ? それにセシリアとバザークまで……どうしてここに?」
驚愕するアーサーの鎧は所々が砕け、露出した肌には生々しい傷が刻まれていた。それでも彼の目は戦意を失わず鋭い光を放っている。
痛みに嘆く表情なんて一切見せず、真剣な顔つきで眼前を見つめる。
今は戦闘の最中なのだということがわかる。
だが、雰囲気からしてあまり優勢ではないのは明白だった。
「助けに来たんだよ、きみのことを!」
セシリアも駆け寄りアーサーの手を取った。
でも、アーサーは手を取らずに彼女らのことを突き放した。
「……お前たちは早く逃げろ。ヤツが来る」
アーサーは剣を一振りして砂塵を吹き飛ばし、何も見えない眼前の虚空に向かって剣を向けた。
構えからして何かを捉えようとしているのはわかる。でも、その姿が見えない。
「ヤツって何よ? わたしたちにも手伝わせて!」
「ダメだ。俺一人でやる」
「なんで!」
「……もう、誰かを失うのはごめんなんだ」
アーサーは酷く悲しい声色で言葉をこぼした。
それはバザークたちへの拒絶ではなく、優しさを孕んでいた。勇者として生まれて家族を失う悲しみを知る彼だからこそ、その言葉には重みがあった。
しかし、バザークたちはその優しさを理解し、受け止め、寄り添い、共に歩くと決めていた。
——今度は僕が手を貸す番だよ。救ってもらった命は君の為に使うから。
「僕は逃げないよ。アーサーも逃げずに騎士団のことを助けてくれたからね」
バザークは長剣を構えて朗らかに笑う。
「私も……ダンジョンでは貴方に救われました。きっと逆の立場なら、貴方はこの状況でも逃げないと思います」
レミーユは背中から長杖を引くと、優しく微笑んだ。
「アーサーくん、わたしたちはきみのために戦うんだよ! もう一人にはさせないからね! わたしたちは勇者パーティーだよ!」
セシリアは弾けるような笑顔で呼応する。
皆の思いが合わさった瞬間だった。
三人が彼にこの身を捧げる覚悟は出来上がっていた。
「……死んでも知らないからな」
アーサーは呆れ混じりに言っていたが、僅かに上擦った声色を隠せていなかった。
彼の悲観した声しか聞いた事がなかったから変化がよくわかる。
「死なないように全員の力を合わせるのですよ。では、セシリア。まずは彼の治療をお願いします」
「うん!」
セシリアは言われる前に回復魔法を発動させていた。
放たれた翠色の光はアーサーの全身を包み込む。
アーサーは体の感触を確かめるように剣を振る。準備運動のように見える動作の一つ一つは、目にも止まらない速度で繰り出される。
バザークの剣の腕とは比べることすら烏滸がましいほどの明確な実力差があった。
やがて、回復魔法の癒しを受け終えたアーサーは一つ息を吐くと、さっき自分が飛ばされてきた方角を見る。
「来るぞ」
「……魔族。それも上級魔族だね。かなり強そうだ」
アーサーが見つめる先には、闇を纏う黒々しい何かがいた。四足歩行で徐々に近づいてくるそれは、見ているだけで気分を害される。
錯覚に陥るような、頭がぼやけてくるような感覚だ。
「たまのカウンター攻撃に注意が必要なだけで、実力はそれほどでもない。ただ、俺一人では手数が足りないんだ。どうもヤツは無数の細かな粒子で構成されているみたいでな。真正面から斬りつけても剣だけでは絶ちきれない。おまけに復元能力に優れているせいで、何度やっても倒せない。かれこれ三日は繰り返しているがな……」
アーサーは悩ましげな顔つきだった。
先ほど吹き飛ばされてきたのは、彼の言うたまのカウンター攻撃を浴びてしまったからだった。
いくら勇者と言えど人間だ。三日も攻防を繰り返せば隙が生まれるのも無理はない。
だが、今はもう一人ではない。
それぞれが補い合う事ができる。
「それなら、僕たちが協力するよ。僕はデコイとして敵の気を逸らしてチャンスを生み出す」
「私は攻撃魔法で加勢します。やっと貴方に私の攻撃魔法をお見せできそうです」
「わたしは補助魔法で俊敏性を高めてあげる! 太刀筋が速くなると思うよ!」
「……頼んだ」
アーサーはバザークたちに視線を這わせて力強く頷いた。
それ以上の言葉は必要ない……この場にいる全員がそう思っていた。強い信頼関係が芽生えた瞬間だった。
「それじゃあ、まずは僕がデコイになるね! セシリアさん、補助魔法で防御力を高められる?」
「もちろんだよー! さっきもかけたけど、効果が持続するように重ねがけするね!」
セシリアはバザークはに手のひらを向けるだけで魔法の発動を終えた。無詠唱だ。
一瞬、魔法なんてかかっていないんじゃないかって思うくらいに、感覚的に全身に漲る底知れない力がバザークに宿った。
今のバザークはより頑強な肉体を持っている。
並の聖滅であれば、一撃くらいは耐えられそうなくらいに。
「……勇気が湧いてくる」
バザークは勇気を秘めた胸に手を当て、敵の元へと徐々に歩みを進める。
いつもなら怖いはずだったが、今は違う。
背中に仲間がいてくれるからか、不思議と恐怖は感じなかった。
むしろ、安堵感が強い。
——僕はやれる。
そう、強く思っていた。
「少し、追いかけっこでもしようか!」
バザークは途端に駆け出して、目の前の黒い敵の注意を引く。
敵は上級魔族にしては知能が低いのか、まんまとつられて彼のことを追いかけ始めた。
「みんな! 僕が陽動しているうちに頼んだよ!」
バザークが走りながら叫ぶと、真っ先にレミーユが長杖を構えた。
「アーサー! 私が先に光の矢を放ちます! タイミングを図って追撃してください!」
「ああ」
「わたしは先に補助魔法をかけとくね! 一番強力なやつだから、効果が切れた後は結構ダルくなるかも!」
陽動するバザークを尻目に、三人は着々と準備を整えていく。
レミーユの周りには既に数百本の光の矢が顕現していて、矛先はもちろん僕を追随するヤツに向いている。
少し離れた位置に立つアーサーは全身に妙な淡いオーラを纏いながら、姿勢を低くして剣を構えていた。
バザークはある程度の予想はしていたが、レミーユもセシリアも凄まじい力を持っていた。
驚くと同時に、戦士として追いつかなければならないと強い焦燥に駆られた瞬間でもあった。
「——はぁ! 今です!」
レミーユが光の矢を一斉掃射すると、数百本の矢は一直線に魔族の元へ向かい、その全身を最も容易く貫く。
魔族は獣のような唸り声を上げて立ち止まった。
刹那、アーサーが駆け出す。
彼はバザークが一つ瞬きをする間に既に懐に忍び込んでいて、縦横無尽に剣を振るっていた。
鈍い雄叫びは途切れる事なく続いていく。
「終わりだ」
アーサーが最後の一太刀を振るうと、はらはらと空気に溶けるようにして飛散した。
あっけない終わりだった。
しかし、これは力を合わせて掴み取った勝利だった。
これほどまでに強い力を持つアーサーが三日かけても倒せなかった相手を、バザークたちは力を合わせる事でたった数分で倒す事ができた。
それは何よりも素晴らしい事だった。
「…………うんうん! これだよ、これ! わたしが求めていたのはこういうのだよ! みんなで力を出し合って脅威を討ち取る! これこそが冒険、これこそが旅、これこそが勇者パーティーだよ!」
セシリアは楽しげな様子で声高らかに口にした。
満面の笑みには喜びの色しかない。
まるで子供のようにはしゃいでいる。
それほどまでに勇者パーティーという存在を渇望していたのかもしれない。
レミーユもまた満足そうに小さく笑っている。
——僕も同じだよ。さっきまではいじいじして実感が湧かなかったけど、たった一つの戦いを通す事で、僕は僕である理由がわかった気がする。
「……勇者パーティーって、何のことだ?」
バザークたちをよそに、勇者であるアーサーだけは、円満な空気になる理由がわかっていなかった。
眉を顰めて首を傾げている。
すると、レミーユが一つ咳払いを挟んでから口を開く。
「アーサー。貴方に幾つか把握して頂きたいことがあります。
まず、一つ、賢者モルド様が示してくださった、勇者様を見つけ出す直感は当たるということです。
そして一つ目を踏まえて二つ、私は賢者でセシリアは僧侶、バザークは戦士だったということ。私たちは互いに運命的に惹かれ合いました。
最後に三つ、私たちは貴方を勇者様として認識し、ここに勇者パーティーを結成します。もう、貴方は一人ではありません」
「どういうことだ?」
怪訝な面持ちでアーサーが聞き返す。
説明を聞いてもなおわかっていない様子だった。
「全部レミーユちゃんが言った通り、わたしたちの直感に間違いはなかったってことだよ。やっぱり、勇者はきみしかいないんだ! 聖剣を抜けなかった理由はわからないけどね!」
セシリアさんはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねるほど、心底嬉しそうな口振りだった。
空の暗さなんて吹き飛ばせるような底抜けの明るさがある。良い意味で王女様っぽくない。
「そういうことです。アーサー、貴方が何と言おうと、私たちは貴方についていきます。そして、魔王討伐を成し遂げます。私は賢者として」
「わたしは僧侶として」
「僕は戦士として、ね?」
「……長く険しい旅になるぞ?」
鋭い視線で睨みつけてくるアーサーだったけど、僕たちは問答無用で首を縦に振った。
「もう、大切な人に会えなくなるかもしれないぞ?」
答えは変わらない。
アーサーは少し沈黙を置いた末に……大きく溜め息を吐く。
「……わかった。勇者パーティーの結成だ。どうせ、何を言ってもついてくるんだろ?」
「わぁい! やったぁー! 憧れの僧侶になれたし、勇者パーティーにも入れたー! アーサーくん、絶対に魔王討伐を成し遂げようね! レミーユちゃんとバザークくんも!」
「はい。私は元よりそのつもりです。賢者モルド様が成し遂げられなかった魔王討伐を必ずやら現実のものにしてみせます」
「僕も一生懸命頑張るよ。まだ皆に比べたら未熟者だけど、旅を通して強くなってみせる」
バザークは自らの弱さ、不甲斐なさを実感していた。先の戦いでは自らの役目を全うできたが、デコイ役をする戦士といえど力は必要不可欠だった。
アーサーとは比べるまでもなく、もちろんレミーユとセシリアと比較しても実力は劣る。でも、戦士に選ばれたからこそ、皆の足を引っ張らないために頑張る必要がある。
「……ふっ……」
盛り上がるバザークたちを見てアーサーは小さく笑っていた。
バザークが知る彼はずっと悲しい雰囲気だったけど、今はそれが嘘のように晴れやかだった。
彼の笑顔は、僕たちにとってはまさしく希望の象徴だった。
これまで彼が背負ってきたであろう孤独と重圧が、僕たちの支えによって少しずつ解きほぐされていくのを感じた。
長く険しい旅が待っていることは誰もが理解していたけど、僕たちは共に戦う決意を固めた。
暗雲が立ち込める空の下で、勇者アーサーを中心に結成されたこのパーティーは、どんな困難にも立ち向かい、魔王討伐という偉業を成し遂げるために団結する。
これが、彼らの新たな始まりであり、そしてアーサーが一人ではないことを証明する旅の幕開けだった。
それぞれの役割を胸に刻み、彼らは、勇者パーティーは進む。魔王討伐を成し遂げるその瞬間まで。
——およそ百年ぶりとなる勇者パーティーは、いまここに結成されたのだ。