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EP3

 アルス王国・王城の奥深く、月光を(たた)えた静寂な一室。

 黒を基調としたゴスロリ調のドレスの裾が絨毯にふわりと揺れる。

 アルス王国の第二王女、セシリア・ルシルフルは机に広げた一枚の報告書に目を落とし、白魚のような指でその端をそっとなぞっていた。


 ——《モルドのダンジョンにおけるイレギュラーモンスターの討伐報告》


 そこには、勇者候補(ブレイヴ・シード)の模範的な連携と聖滅の力、賢者コースの魔法支援と知力の高さ、僧侶の癒しと後衛からの支援、戦士の心身の強大さと勇敢な姿勢……そんな綺麗事の羅列が綴られていた。

 一見すれば、それは有用な報告書のように思えた。しかし、妙に具体性に欠ける。

 誰が倒したのか、決定打は何だったのか、核心に触れた記述が一つもない。


「……なんか本当のことを隠してるみたいな書き方ね」


 セシリアは小さく呟いて、報告書をぱたんと閉じた。

 長く結い上げた金髪が肩から滑り落ちる。


 実は、セシリアは秘密裏に先の一件について調べていた。アカデミーに使者を潜入させ、真相を暴こうとしていた。

 そして、先の一件に深く関わる人物として、ある人物の名前が挙げられた。

 その人物は勇者候補で、名をアーサーという少年だった。

 だが、その名はこの報告書には一切記されていない。


「……アーサーくんかぁ、もしかして彼が一人でイレギュラーモンスターを討伐したとか? もしそれが本当ならすごいことだよねー」


 セシリアは誰にともなくそう言って、立ち上がる。迷いはなかった。

 自らの部屋の鏡台に近づき、髪を一つに束ね直すと、扉の前に立っていた執事メリヌスが静かに一礼した。


「アカデミーへ行かれるのですか?」


「うん。色々と自分の目で確かめてみたいの。わたしの勘は……外れてないと思う」


 セシリアはドレスのスカートをつまんで軽やかにくるりと回った。

 その瞳は真剣そのものだが、そこには少女らしい期待も滲んでいる。


「わたし、決めたんだ。勇者パーティーに入るって。勇者と一緒に魔王を倒すって」


 それはただの夢じゃない。セシリアにとって、それは“願い”だった。


 たとえ何百年ぶりであろうと、勇者が現れたなら——彼と共に在りたい。癒しの力を持つ僧侶として、誰よりも近くでその歩みに寄り添いたい。


 幼い頃——まだ“魔王”という言葉の意味すら曖昧だった頃。

 母に読んでもらった古い絵本の中にいた”勇者様とその仲間たち”は、セシリアにとって初めて触れた正義だった。

 絶望に包まれた世界に光を灯した四人の英雄。

 その中にいた一人の僧侶が、命を懸けて仲間を癒やし、最後の一歩を踏み出させる場面を、彼女は何度も夢に見た。


 その僧侶こそが、彼女の遠い祖先だったと知ったのは、もっと後になってからだ。

 さらに物語では魔王を討ち取って大団円を迎えるが、現実は非常で四人とも帰らぬ人となったことも後から知った。


 誇りに思った。胸が高鳴った。そして同時に、胸のどこかがチクリと痛んだ。

 ——どうして、そんな偉大な役目を、自分が継がずに誰が継ぐのだろう。


 セシリアは、王女としての立場よりも、僧侶として、誰かを支える者でありたいと願っていた。

 豪奢な宮殿も、煌びやかなドレスも、本当はそれほど重要ではなかった。


 “勇者の隣に立ちたい”

 それは夢ではなく、自分の中に流れる意志の延長だった。


 そして——その想いは今確信へと変わり始めている。謎に包まれたアーサーという少年に会えば何かが変わる気がする。


 こうしてセシリアは自らの目でアカデミーの実情を確かめようと決意したのだった。


 


 ◇◆◇◆◇




 黒を基調に白いレースとリボンをあしらったゴスロリのドレスは、王族らしからぬ装いかもしれない。

 けれど、セシリア・ルシルフルにとっては、これが一番自分らしい格好だった。

 片側に一つに結った金髪は、肩からだらりと垂れて風に揺れている。


 セシリアは馬車から軽やかに飛び降りると、遠慮のない足取りでセイクリッド・アカデミーの門をくぐった。


「レミーユちゃーん!」


 そう呼びかけると、迎えに出ていたハイエルフの少女が肩をぴくりと震わせた。

 遠慮がちな仕草をしつつも、すぐに微笑を浮かべて小さくお辞儀をする。これこそが王族としてあるべき丁寧な振る舞いだった。


「セシリア様。ようこそ、セイクリッド・アカデミーへ。お忙しいところ、お時間を割いていただき感謝いたします」


「うぅ! そんな堅いのやめよーよ。レミーユちゃんとは顔見知りじゃない。子どもの頃、わたしのリボン直してくれたじゃん?」


「え、あ、はい……そうでしたね」


 どうやら完全には覚えていなかったようだが、セシリアは気にしない。

 思い出なんて、その場のノリと笑顔で輝けばそれでいい。


「それで、今日は案内してくれるんだよね? できれば全コースの修練するところとか見たいんだけど」


「かしこまりました。では、まずは戦士コースから案内します」


 セシリアはレミーユと並んで、一先ずは戦士コースの修練を見学することになった。


 レミーユの話によると、戦士コースは屈強な肉体と精神を兼ね備えた者が集まる肉体派のコースらしい。

 いわゆる囮役を買って出る勇気が求められる。

 なので、彼らの修練は重い鎧を装備したままの剣戟や体力作り、肉体強度を高めるための厳しいトレーニングが常だった。

 時には賢者コースの魔法使いと合同で修練し、対魔法防御を鍛えることもしばしばだ。


 セシリアは初めてのアカデミー来訪だったので、内心はワクワクした気持ちでいっぱいだった。

 しかし、目の前の光景を見た瞬間、露骨にがっかりしてしまった。

 

「ふーん……なんか味気ないね」


「そうですか?」


「うん。いつもこんな感じ?」


「……私は賢者コースなので詳しくは知りませんが、今日は少し気合が入っているように見えますね」


「わたしが見てるからかな? でもまあ、気合が入ってるにしても緩いよね。もっと実践的なことはしてないの?」


「セシリア様もご存知の通り、先の悲劇以降はそういった実戦形式の修練は行われておりません。多くの貴族の圧に屈したアカデミーが消極的になってしまったので仕方がありませんが」


「そう。じゃあ次行こー」


 セシリアは戦士コースの見学をたった十分で切り上げると、次は僧侶コースの見学へ向かった。

 回復魔法を得意とする彼女からすれば、勇者コースの見学の次に興味が湧いていた。


 しかし、こちらもまた、戦士コースと同様に大きく裏切られることになった。


「……あれはなにしてるのー?」


「座学です」


「え、魔力量を増やす特訓とか、回復魔法や付与魔法の練度を上げる特訓はしてないの!?」


「……どうやらそのようですね。こちらも戦士コースと同じく、実戦形式の修練は避けているようです」


 レミーユの頬は引き攣っていた。


「あっそ、ちなみに賢者コースは今日何してるの? レミーユちゃんなら詳しいよね?」


「見ない方が身のためですよ」


「どーして?」


 セシリアは純粋に聞き返した。幼い頃から賢者を志していたレミーユがいるコースであれば、かなりマシだと考えていた。

 だが、レミーユは首を横に振る。


「優秀な方も中にはいますが、ほとんどはだらけきった修練ばかりで自主性が足りませんから……正直、私以外の方々は賢者にふさわしくありません」


「そっかー。わかった! じゃあ、賢者コースは見る必要ないね! とっとと勇者コースにいこ!」


 セシリアはレミーユの手を引いて駆け出した。


 そして勇者コースの修練場で、剣を振るう少年少女たちの姿を見学した。中には聖滅を扱う勇者候補(ブレイヴ・シード)の姿もあったが、セシリアの表情はすぐに退屈そうに歪む。


「ふぅん……なんかこう……カッコイイ人はいないのかな。いかにも”わたしが勇者です!”って顔の子、いないねえ」


「……え、ええと、それはどういう?」


「勇者候補って、こう……もっと、ビビッとくるっていうか?」


 そう言ってセシリアは手をひらひらさせながら歩き回る。くまなく修練場を確認し、その場にいた全ての勇者候補(ブレイヴ・シード)をその目を収めた。


 しかし、直感が働くことなくつまらなさそうに唇を尖らしていた。


「ふむー……どこも似たり寄ったり? みんな優秀なんだろうけど……なんていうのかな、魂に熱がないっていうか……? この人たちってほんとに勇者になるつもりはあるの?」


 レミーユは苦笑しながら、それでも誠実に各所の案内を続けていた。

 けれど、セシリアの視線は早くもあちこちに逸れはじめていた。落ち着きのない様子で訓練場を見回す姿は、とても王女とは思えないだろう。


 やがて、木陰で一息ついたセシリアは、ふとレミーユを覗き込んでいた。


「ねぇ、レミーユちゃん。さっきからさ、なんだか浮かない顔してるけど……なにか隠してない?」


「いえ、そんなことは……」


 レミーユは明らかに動揺する。嘘が下手なところは昔から変わらない。


「うそー。絶対なにかあるでしょ? わたしの勘は当たるんだよ? ほら、アーサーくんって子はどこ? 彼って噂のイレギュラーモンスター討伐者なんじゃないの? 報告書を見たけどさ、なんか違和感ばっかでおかしいなーって思ったんだよね。で、わたしなりに調べたら……一つわかったことがあったの!」


 アーサーの名前を出した途端、レミーユの目が見開かれ、唇が震えた。

 完全に図星だった。セシリアはしてやったりと笑みをこぼす。


「……っ、そ、それは……っ」


「あ、やっぱそうなんだ。へぇぇ……会いたかったなー、アーサーくん。ここにはいないんだよね?」


 セシリアがそう言った瞬間、レミーユは肩をすくめたまま、しおしおと白状した。


「……今はいません」


「どこきいるの? レミーユちゃんもアカデミーの不甲斐なさはわかってるんだよね。それならそのアーサーくんって男の子がどのくらい凄いことしたのかわかるでしょ? だからわたしに教えて?」


 セシリアはレミーユの耳元で囁いた。


「セシリア様は……本気なのですね」


「うんっ! だって、こんな世界嫌でしょ? 魔王にびくびく怯えながら過ごすなんて馬鹿らしいじゃん」


「……これは決して私の口が緩いだとか、アーサーを売ったとかそう言う話ではありません。私はセシリア様の気概を信じることにしました。なので、アーサーの居場所を教えます」


「うん、ありがと!」


「彼は、おそらくアカデミーの敷地外、近隣の森で剣の修練をしているかと……ただ、もうそろそろ夕方になるので行き違う可能性も否めません」


「ふーん、そっかー……」


 セシリアは空を見上げる。

 レミーユの言葉通り、西の空は夕焼けに染まりはじめていた。


「イレギュラーモンスターは、アーサーくんが倒したんだね?」


「っ!」


 レミーユの表情の変化はわかりやすい。昔からそれは変わっていなかった。


「じゃ、詳しく聞かせて?」


 セシリアはレミーユに微笑みかけた。

 すると、レミーユは諦めたようにため息を吐いて、ぽつぽつとアーサーのことを口にし始めた。


 その話は全て衝撃的だった。

 あのお転婆王女と謳われるセシリアがたじろぐほどに


「……すごい人だね、アーサーくんは」


「ええ。彼は良い意味でも悪い意味でも異様です。誰かが支えにならなければ、簡単にその身を犠牲にしてしまうでしょう」


「レミーユちゃんはアーサーくんの側にいるって決めたんだ?」


「はい」


 覚悟を決めたレミーユの表情を見ると、セシリアはますますアーサーへの期待を膨らませた。

 上級魔族級のイレギュラーモンスターを単騎で討伐し、数多くの命を救ったにも関わらず、自らの功績を喧伝しない顕著さと異様さ精神面。セシリアはアーサーのことをもっと知りたくなっていた。


「行こっかな」


「……それは構いませんが、アカデミーの案内はもうよろしいのですか?」


「そもそもわたしの目的は最初からアーサーくんだけだからね!」


 にかっと笑って、セシリアは踵を返す。


 美しい金髪を揺らしながら、軽やかな足取りで夕焼けの森へと向かっていった。


 その背中は、誰より自由で、そして少しだけ、無鉄砲な勇気を帯びていた。





 ◇◆◇◆






 黒を基調としたゴスロリ服の裾を揺らしながら、セシリア・ルシルフルは森の中を進んでいた。肩にかかる金髪が枝葉に引っかかるたびに、ふうっと溜め息をつく。


 普段なら召使いが身だしなみを整えてくれるが、彼らを振り切って単独でここにきたのでそれは叶わない。


「ほんとにこんな場所にアーサーくんがいるのかなー?」


 彼女がこの近隣の森へと足を運んだのは、他でもないレミーユ・ヴェルシュから聞き出した情報が元だった。


 アーサーがイレギュラーモンスターを討伐した、という噂。セシリアはそれらを執事に調べさせた結果、アカデミーが何かを隠しているという結論に至った

 あの真面目で嘘がつけないレミーユの、ほんの一瞬の表情の揺らぎが全てを物語っていた。


 問い詰めると、案の定だった。

 アーサーという少年が、実際にその脅威を剣一本で倒したのは真実だった。

 そして、アカデミー内の悪い噂とは裏腹に、孤独を選び、日々黙々と鍛錬を重ねていると——


「気になるよ、そんなの……直接見てみなきゃ、納得できるわけないじゃん」


 そうして辿り着いた森の湖畔。

 セシリアは茂みに身を潜め、音を立てないようにそっと様子を窺った。


 そして、目を奪われた。


 そこにいたのは、細身の体に泥と汗を纏い、息を切らしながらも剣を振り続ける一人の少年だった。

 その表情に迷いはなかった。

 動きに華はない、美しくもない。


 しかし、一太刀ごとに意味があるような、重みを感じる剣捌きだった。


「……やっぱり、そうだ」


 セシリアの心の中で何かが確信に変わる。


 この少年こそが、アーサー。

 レミーユの言っていた、誰にも誇らず、黙々と力を積み上げている“本物”なのだと。


 セシリアは茂みから抜け出して声をかけようとした。

 しかし——


「よぉ、お前、またこんなとこで剣ブンブンしてんのか?」


 唐突に、茂みの反対側から現れた二人組の男が、アーサーに声をかけた。


 セシリアは身を低くして様子を伺う。

 ちょっとしたからかいか、口喧嘩でも始まるのかと構えていた。


 だが、空気はすぐに変わった。

 二人の男は悪意を剥き出しにし、アーサーに向かって拳を振り上げた。


 刹那、アーサーはあえなく殴り飛ばされた。


「え……?」


 セシリアは思わず、驚嘆を漏らす。

 が、次の瞬間には慌てて己の手を口元に当てて、息を殺した。


 それから、セシリアはただ目の前で起きる光景を呆然と見続けることしかできなかった。


 アーサーは動かない。

 防がない。

 避けない。


 ただ、黙ってあらゆる暴力を受け続けた。


 その数、およそ五十。


 鳩尾に入った拳で身体がくの字に折れた。

 頬を打たれて顔が跳ねた。

 背を蹴られ前のめりに吹き飛んだ。

 

 しかし、彼は何も言わずにすぐに立ち上がる。


 セシリアは信じられなかった。

 ——何してんのよ……なに、わざと……?

 いや、そうじゃないよね? あれ、まさか、ただ殴られてるだけ?


 混乱する頭の中で、アーサーは何度も何度も拳を受けた。

 蹴られ、罵倒され、それでも抗う様子は微塵もない。


 セシリアの心はざわついた。


 彼が“本物”だと信じていた。

 人知れず鍛錬に励み、仲間を守るために剣を振るい、傷つくことを恐れない……そんな勇者像を、彼に重ねていた。


 だけど、いま目の前で起こっているのは、一方的な暴行。

 しかも、それに抵抗すらしない少年の姿。


 セシリアは一瞬、頭の中が真っ白になった。


 ——違う、何か理由があるんだ。アーサーくんはわたしが思ってるより、ずっと強いはずなんだ。

 こんな、みっともない姿なわけが……


 それでも、事実は目の前にある。

 打ちのめされ、血を吐き、そしてなお、倒れない少年の姿。


 セシリアは心の中で叫びながら、茂みの奥で歯を食いしばった。


 ——どうして、そんなにやられてまで立つの?


 怒りと失望と、ほんの少しの……恐怖。

 勇者だと信じたその存在が、あまりに無防備で、あまりに壊れそうで。

 思い描いた理想とのギャップに、セシリアの胸は締めつけられた。


 その時だった。

 一人の男が金色の光をまとい、詠唱を始めた。

 それは紛れもなく、勇者候補(ブレイヴ・シード)のみの使用が許された力、聖滅だ。

 

 セシリアはそれを初めて見た。


 金色に光り輝く鉄槌は、空気を震わせ、大地を揺らし、常軌を逸するほどの力を秘めていた。

 あんなものをまともに食らったら常人なら即死は免れない。ただちに退避しなければ命が危ない。


 しかし、アーサーは不敵に笑っていた。


「……バカじゃないの……!」


 セシリアはとうとう、木陰から身を乗り出していた。

 聖滅は演習でも許可なしでは使えない力。レミーユからはそう聞いていた。

 それを人に向けて発動しようとしている、目の前の愚か者たちに、怒りが爆ぜる。


 だが、彼女が踏み出す前に、アーサーはまたしてもそれを受け入れた。


 金色の鉄槌が、彼の身体を容赦なく打ち据える。

 大きく弾かれたアーサーは湖の中心へと投げ出され、水面に叩きつけられた。


 それを見た二人組はしてやったりな笑みを浮かべて、そそくさと退散した。


「——アーサーくん!!」


 その瞬間、セシリアの足が勝手に動いていた。

 もはや、隠れている理由も意味もなかった。


 胸が締めつけられるほど苦しかった。


 この少年が、本当に“あのアーサーくん”なのか。

 勇者候補の噂にある、あの孤高の剣士なのか。

 

 セシリアはまだ、答えを見つけられずにいた。


 



 ◇◇◇◇◇



 


 湖畔に辿り着いたセシリアは、躊躇なく水に入った。

 裾を濡らすことも、靴を汚すことも厭わなかった。


「アーサーくんっ……!」


 湖の浅瀬、岸辺に浮かぶ黒髪の少年。

 血に濡れたシャツが肌に張り付き、顔には殴打の跡が生々しく残っている。どこか遠くを見るような、虚ろな目をしていた。


 放っておけば死ぬ。僧侶を志し、回復魔法を得意とするセシリアはそれがわかっていた。


「しっかりして! 大丈夫!?」


「……誰だ」


 セシリアが肩に手を添えると、驚くほど淡々とした返事が返ってきた。


 アーサーはゆっくりと上体を起こし、痛みに顔をしかめながらも、自力で立ち上がろうとする。

 とっくに全身の骨が砕け、脳が揺れ、多量出血で意識は朦朧としているはずなのに、まるで意に留めず落ち着き払っていた。


「無理に立たないで、今、わたしが治すから!」


 セシリアは手を掲げ、すぐさま最上級の回復魔法——エクストラ・ヒールを詠唱した。

 濃厚な緑色の魔法陣が足元に広がり、柔らかな光がアーサーの全身を包み込む。


 破れていた皮膚が、音もなく再生していく。

 だが、それでも、彼の表情は変わらない。ただ黙って、光に身を委ねているだけだった。


「……どうして、ずっと攻撃を受け続けたの? 逃げればいいのに……我慢する必要なんてないんだよ?」


 セシリアの声は震えていた。


 聞かなきゃいけないと思った。

 でも、怖かった。これが本当に、あのアーサーなのかと思うと。


 しかし、彼はあくまでも平然としていた。


「肉体と精神を鍛えていただけだ」


「えっ……?」


 思わず耳を疑った。

 言葉の意味は理解できたのに、頭がそれを受け入れようとしなかった。


「何、それ……冗談でしょ?」


「冗談ではない。ああいった強烈な殴打を受けて、痛みに慣れる。あらゆるダメージを経験しておけば、いざという時に倒れずに済む……俺には、それが必要なんだ」


 まるで感情を殺すように、アーサーは淡々と語った。

 言葉には一片の迷いもなかった。


 セシリアは背筋がぞわりとした。寒気にも似た感覚。


「そんなの、修練じゃない! 自分を壊してるだけだよ……!」


 反射的に言葉が出た。矢継ぎ早に尋ねる。


「勇者になるために、どうしてそこまでするの? そんなに死にたいの?」


「違う。死にたくないから、やってるんだ」


「……」


「俺は勇者候補(ブレイヴ・シード)として生まれた。だったら、魔王を倒さなきゃいけない。だけど、俺は怖い。死ぬのが怖い。だから、限界まで鍛える。痛みにも、孤独にも、慣れておく必要があるんだ。日に日に高まる魔王討伐の使命感はもう抑えが効かなくなっている。強くなるしか生きる道は残されてないんだよ」


 アーサーの声には、諦めにも似た静けさがあった。


 セシリアは、それを“冷たい”と感じる一方で、胸の奥を掴まれるような苦しさも覚えていた。


 これは、覚悟なんかじゃない。


 痛みの上に積み上げられた、強制された使命感だ。

 それは熱意でも希望でもなく、ただ“そうせざるを得ない”と刷り込まれた意志。逃げ場を失った絶望ともいう。


勇者候補(ブレイヴ・シード)は、みんな使命感が強いの……? みんな魔王を討伐したいって思ってるの?」


「他の奴らはわからないが、俺の使命感は誰よりも強いと思う。それはもう誰にも止められない」


「だったら……ねぇ、わたしとパーティーを組もう?」


 気づけば、セシリアはそう言っていた。


 彼の背中が、あまりにも孤独に見えた。悲痛な面持ちで語る彼を放っておけなかった。

 誰も寄り添おうとせず、誰も彼の苦しみを知らず、ただ“勇者だから”と周囲に扱われてきた少年。


「わたし、僧侶になるって決めたの。アーサーくんが勇者で、レミーユちゃんが賢者。あとは戦士さえ見つければ——」


「やめろ」


 アーサーの声が低く響いた。


 セシリアの言葉を、突き返すような音だった。


「俺は誰とも組むつもりはない」


「でも、レミーユちゃんとは——!」


「ヴェルシュとはパーティーを組んだわけじゃない。ただ、そうせざるを得なかっただけだ」


 そうは言うものの、不思議なことにレミーユへの嫌悪や拒絶はなかった。むしろ、アーサーは眉を顰めて悲しそうにしていた。


「……」


「俺の力は……周りを巻き込んでしまう」


 その一言だけが、妙に重たく響いた。


 セシリアは言葉を失った。


 巻き込む?

 何を、誰を?


 問い返したかった。だけど、アーサーの顔が、まるで何かを耐えているような表情をしていたから、それ以上踏み込めなかった。


 胸に張り詰めた葛藤と諦め。

 使命と恐怖が綯い交ぜになった、少年の沈黙。


 セシリアはそこに付け入ることができなかった。

 しかし、諦めることはしなかった。


「——でも、わたしは、もう決めたから」


 セシリアはお転婆王女だった。やると決めたらやる、そんな性格だ。レミーユを問い詰めてこの場所に来た時から、もうやるべきことは明確になっていた。


「きみのこと、助けたいって思ったの。こんなに自分を犠牲にしてまで、誰かを守ろうとしてる人、他にいないって思ったから……だから、きみが仲間を拒んでも、わたしは何度でも誘うよ。レミーユちゃんも言ってたけど、きみには寄り添ってくれる人が必要なんだよ?」


 アーサーは返事をしなかった。

 ただ、どこか寂しげに笑っていた。


 その笑みが、本当に笑っているのか、泣きそうなのか、セシリアには判別がつかなかった。


 結局、アーサーは「治療してくれてありがとう」とだけ言い残して、セシリアの前から姿を消した。

 程なくして、セシリアも一人で帰路についた。


 えも言えない悲しみを胸に抱えて。

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