表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

EP10

 アーサーが目を覚ますと、焚き火の前にはレミーユだけが起きていた。

 柔らかな火の揺らぎに照らされる横顔は、どこか沈んだ色を帯びている。彼女は火の番をしながら、不安そうに膝を抱えて座り込んでいた。


「……ヴェルシュ、すまない。一人で見張りは大変だったろう。セシリアとバザークは……」


 アーサーはゆっくりと身を起こし、彼女の向かいに腰を下ろす。眠る二人の姿を背後に、低く問うた。


「二人は見ての通り、安眠しています。不安な気持ちがありながらも、勇者パーティーとしての自信がそれを感じさせないのでしょう」


「自信、か」


「ええ。……それより、アーサー。あなたは、少し考え込みすぎているように見えます」


 レミーユはじっとアーサーを見つめた。燃えさしの火が彼の瞳に揺れる影を落とす。


「気のせいだ」


 アーサーはそう言いながら、火に細い枝をくべる。ぱち、と音が弾けた。


「いえ、違います。あなたは何かを隠している。……それでも、私は問わないと決めていました。あなたがそれを明かす時が来るまで、ずっと待つつもりでした」


「……ヴェルシュ」


「でも、明日——いいえ、今日ですね。私たちは魔王に挑む。その前に、せめて言わせてください」


 レミーユの声が震えた。だが彼女はそれを堪え、まっすぐアーサーを見た。


「貴方の背中を見ていると、胸が痛むんです。貴方が笑ってくれるだけで、私の魔法は十倍強くなる気がする。……それくらい、貴方は私にとって、特別です」


 アーサーは黙っていた。否定もしなければ、肯定もしない。ただ焚き火を見つめていた。


「……ヴェルシュ。お前のほうこそ考え込みすぎだ。そろそろ休んだほうがいい」


「でも——」


「いいから。早く休め。今日の戦いはきっと、これまでで一番過酷になる。休まなければ乗り越えられない。死を眼前に控えた戦いに身を投じるためには、落ち着いた休息が必要だ。」


 アーサーの声音は静かだった。強くも、優しくもなく、ただ淡々としていた。けれど、その中には揺るぎない覚悟が滲んでいた。


 レミーユは、それ以上何も言わなかった。否、言えなかったのかもしれない。


「……絶対に、みんなで生きて帰りましょうね。アーサーを見下していた人たちを見返してやるんです。勇者様としてアーサーを世間に知らしめるんです。アーサーは……強くて優しい人なんだと、みんなにわかってもらうんです」


 微笑んだレミーユの声に、アーサーはほんの一瞬だけ、まなじりを下げた。


「……ああ、もちろんだ」


 その言葉に嘘がなかったと、彼女はきっと信じたことだろう。


 レミーユが寝袋に身を沈め、微かな寝息を立て始める。

 その音が安らぎを伴うまでの間、アーサーはじっと座り続けていた。

 そして、静かに立ち上がると、荷物の奥に仕舞っておいた羊皮紙と小さなペンを取り出した。


 焚き火の灯りを頼りに、膝の上でそっと紙を広げる。

 その動きに迷いはない。手は震えていなかった。

 長い夜の思索は、すでに彼の中で一つの答えに帰結していたのだ。


 ペン先が紙に触れたとき、彼はわずかに唇を引き結んだ。


 誰に宛てるでもない文字を、誰よりも大切な“仲間”たちのために書き残す。

 その筆跡は丁寧で、時間をかけるほどの量でもない。

 しかし、そこに込められた言葉は、どんな魔法よりも重く、優しく、そして確かな彼の証として残った。


 やがて、最後の一文字を書き終えると、アーサーは手紙を折りたたみ、自らの革の鞄の中にそっとしまい込む。

 誰にも見つからぬように。だが、きっといつか、必要とされる瞬間が来るだろう。


 それは彼が選んだ、最後の言葉だった。


 ——ありがとう。ヴェルシュ、セシリア、バザーク。出会えてよかった。


 アーサーは静かに立ち上がる。

 焚き火に背を向けると、ゆっくりと歩き出した。


 仲間たちの眠る音だけが、夜の底でやさしく響いていた。

 もう振り返らない。目指すは、あの丘の向こう。魔王が巣食う、世界の最深部。


 そして、夜が明けた——


 数刻の後、空を引き裂くような轟音が響き渡った。


 漆黒の雲を貫くように、光の柱が天へと伸びていく。地が鳴り、風が止み、大気が一瞬、祈りのような静寂をもたらした。


 それは誰の目にも明らかだった。世界の運命を変える、一つの決断の証。


 アーサーは、行ったのだ。


 たった一人で。


 ついに、勇者は、アーサーは——魔王を討った。




 自らの命を賭して……





 ◇◆◇◆◇






 レミーユは耳をつんざく轟音を聞いて目を覚ました。


 何かが破壊され、世界の理そのものが軋んだような音が、空を割って鳴り響いた。


 次の瞬間、目に飛び込んできたのは、漆黒の空に突き立つ一本の光の柱だった。金と白が混じり合い、揺らめくその光は、空の雲を穿ち、地に影を落とす。


 まるで、天に突き立つ剣のようだった。


「アーサー……?」


 胸が高鳴った。身体が、震えた。

 ——ただの魔法ではなさそうですね……あれは、彼の聖滅(セイメツ)


 レミーユはそう直感した。


 同時に、隣にいたセシリアとバザークも目を覚まし、無言で空を見上げた。

 誰も言葉を発さない。それでも、三人は悟っていた。


 あの光が、終わりの合図であることを。


 それは、魔王が討たれたことを示していた。

 そして、その代償として、アーサーがそこにいないという事実をも。


 周囲に、もはや敵の気配はなかった。魔族の気配も、瘴気の名残すらも、風に溶けて消えていた。

 世界は静かだった。


 遠く、空を翔ける一筋の風が、三人の間を通り抜けた。


 辺りを見回しても、アーサーの姿はどこにもなかった。

 アーサーの荷物だけが、寂しくそこに取り残されていた。


 レミーユは唇を噛み、セシリアは黙って拳を握った。バザークの大きな背は、揺れていたが、崩れることはなかった。誰も涙を流さなかった。ただ、深く沈黙の中に立ち尽くしていた。




 数ヶ月後、アルス王国に帰還した一行は盛大な歓迎を受けていた。


 パレードは大々的に行われた。

 王国中の民衆が広場に集まり、魔王討伐の立役者として讃えられた三人を称えた。紙吹雪が舞い、祝福の鐘が鳴り響いた。


 しかし、その中心にアーサーの姿はなかった。


 アーサーの名を告げても、人々は信じなかった。


「そんな名は記録にない」「勇者ならば、聖剣を掲げて凱旋するはずだろう」「本当の功労者はどこにいる?」


 民は、伝説のような英雄像を欲していた。

 名も残さず姿も見せず去った者を、勇者と信じようとはしなかった。


 それでもレミーユは誇りを持っていた。

 セシリアもまた歯を食いしばっていた。

 バザークの拳には、血が滲んでいた。


「……私たちは知っています。あの夜、誰が世界を救ったのかを」


 レミーユはそう言い切った。





 パレードを終えて、場所はアルス王国の王城。

 セシリアの私室。


 パレードの喧騒も終わり、夜の静けさが城を包んでいた。


 レミーユ、セシリア、バザークの三人は、アーサーの遺した荷物を前にしていた。

 魔王討伐の旅に出る前、アーサーはほんのわずかな手荷物しか携えていなかった。


 その中に、革で包まれた一冊の手帳と、一通の手紙が入っていた。


 封は、まだ開かれていなかった。


 「……これ、アーサーが……?」


 セシリアが震える手で手紙を持ち上げる。


 裏には、誰宛とも書かれていない。


 ただ、きれいな字で、こう綴られていた。


 ——「親愛なる仲間たちへ」


 レミーユは、そっと手紙に手を伸ばすと、封筒の端に指をかけて、小さく息を呑んだ。

 セシリアとバザークは隣で固唾を呑んで見守っていた。

 まるで、亡き彼と再び会話を交わすかのような錯覚を覚える。


 封を切ると、中には丁寧に折られた羊皮紙が一枚。

 その筆跡はアーサーのものだった。


 レミーユは震える指でそれを広げる。

 字は乱れていなかった。むしろ、とても整っていた。

 最後の言葉を伝えるために、何度も練習したのかもしれない——そんな気がした。


 ⸻



 もしこの手紙を読んでいるなら、きっと俺はもうこの世にはいないんだと思う。


 最初に謝らせてくれ。

 本当のことを話さずに、嘘をついてすまなかった。


 俺が持っていた聖滅の力は、皆に説明したものとは大きく異なる。

 本当の名前は——終焉の一撃(ラスト・アーク)

 一度きりしか使えず、魔王に対してのみ効果がある、自爆の力だ。

 それを放てば、魔王もろとも俺の命は消える。


 俺は、それをずっと隠してきた。

 なぜなら、お前たちが俺を止めるだろうと思ったからだ。

 誰よりも優しいお前たちのことだ。

 俺を止めて、自分たちが代わりに死のうとすらしたかもしれない。


 だから、俺は誰にも言わなかった。

 そして最後まで、仲間として一緒に戦ってくれたこと、心から感謝している。


 ありがとう。


 レミーユ・ヴェルシュ

 お前は俺に初めて「知りたい」と言ってくれた人だ。

 俺が何者なのか、何を思って剣を振っているのか。

 怖かった。でも嬉しかった。

 お前がいたから、俺は少しだけ自分のことを許せるようになった。


 セシリア・ルシルフル

 そのまっすぐな言葉は、俺の心を何度も救ってくれた。

 お前の優しさも、怒りも、全部、本物だった。

 回復魔法をかけられるたびに思ったんだ。俺は守られてるんだって。

 だから、最後は、お前たちを守る側に回れてよかった。


 バザーク。

 あの戦場で出会ったとき、お前は俺に人間らしさを思い出させてくれた。

 力じゃない。言葉でもない。

 お前の存在が、俺の中にあった欠けた何かを埋めてくれた気がする。


 お前たち三人は、本当に最高の仲間だった。

 だからこそ、生きていてほしい。

 笑って、明日を生きてほしい。


 俺は勇者として生まれた。

 でも最後は、誰かのために剣を振るえた人間として、終わりを迎えられたなら——それで十分だ。


 世界が平和になったなら、それが俺の願いのすべてだ。


 生きろ。

 そして、いつか笑って俺のことを思い出してくれたら、それでいい。

 世間に俺の存在が知られる必要はない。お前たちは正真正銘の勇者パーティーだ。その名を歴史に刻み、強く、気高く、生き続けろ。


 さようなら、そして——ありがとう。


 アーサーより


 ⸻



 レミーユの手から、手紙がふわりと落ちた。


 何も言えなかった。

 涙が、ただ頬を伝っていく。

 セシリアも、バザークも、声を出せずに肩を震わせていた。


「……アーサー……」


 レミーユは、胸に手を当てて、呟いた。


 ——ありがとう。あなたがいてくれたから、私たちはここにいる。


 もう、名が歴史に刻まれなくてもかまわない。

 私たちは、あなたの名を、この胸に刻んでいる。


 ——アーサー。あなたこそ、本物の勇者様です。





 ◇◆◇◆◇






 その石碑が建てられたのは、ベルガス山脈を臨む小高い丘の上だった。


 空は澄み、風が静かに草を揺らしていた。


 かつて魔王軍が拠点としていたその山のふもとには、今や一切の魔の気配もなく、草花が芽吹きはじめていた。


 レミーユ、セシリア、バザークの三人は、そこに静かに立っていた。


 石碑は、白い大理石で作られていた。

 それは王都の職人が三人の手によって丁寧に依頼され、最も美しく、最も強く、時を越えて残るようにと願って彫られたものだった。


 石碑の正面には、こう記されていた。


 ⸻


 《アーサー》


 真の勇者の記録


 彼は生まれながらにして咎を背負い、剣を携えて世界を救った。


 その名は歴史に残らずとも、彼の歩みはこの地に永遠に刻まれる。


 勇者として、仲間として、人として。


 ⸻


 バザークが、石碑の前にそっと花束を置いた。

 手向けるのは、タリウスの村の近くで見つけたという、白く小さな野花だった。


「……きっと喜んでくれるよね。アーサーくんは、そういうの素直に受け取らなそうだけど」


 セシリアが、目元を赤くしながら笑った。


「文句を言いながら、内心では感謝してるのでしょう。そういう人でした、彼は」


 レミーユの言葉に、三人の間に柔らかな静寂が降りる。


 丘の上には、優しい風が吹いていた。

 三人の間に静寂が訪れる、


 すると、レミーユがふと、石碑に刻まれた名前を指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。


「……やっぱり、アーサーはどこか欠けていたんでしょうね」


「欠けてたって……アーサーくんが?」


 セシリアが驚いたように顔を上げる。


「ええ。優しかったし、強かった。正義感も、人のために動く力も誰よりもありました。ですが……」


 レミーユの声が、少しだけ震えた。


「“自分を大切にする”ということが、どこか……まるで抜け落ちていた気がするんです」


 バザークは黙って頷いた。心当たりがあった。


「たしかに……アーサーは誰よりも人を助けたがってた。でも、それは誰かが苦しむくらいなら、自分が死んだ方がマシっていう、ある意味では極端な考え方だったのかもしれない。自己犠牲が……強すぎるくらいにね」


勇者候補(ブレイヴ・シード)って、何かしら欠落して生まれてくるんだよね? 感情だったり、善悪だったり……それがアーサーくん場合、“自己の価値”だったのかもしれないね……」


「自分には、生き残る価値がないって思ってたのかもしれません……だから、迷いなく逝けたんです」


 レミーユは目を閉じ、そして、囁くように言葉を続ける。


「それでも、私は、彼が生きていてほしかったです。彼の命は、誰かのために捧げられるためのものじゃないって、伝えたかった……」


 誰も言葉を返せなかった。


 ただ、静かに、風が吹いていた。


「……王都のパレードで僕たちが何を言っても、みんな信じてくれなかったよね。国王様は信じてくれたけど、世間は違った。でも、僕はずっと思ってた」


 バザークが、ゆっくりと石碑に手を置く。


「名前なんて、称号なんていらない。僕たちがアーサーのことを覚えていれば、それでいいって」


「うん。わたしたちが語り継いでいけばいいんだよ。わあしたちの勇者様は、本当にいたんだって」


 セシリアの声はどこか誇らしげだった。

 

 レミーユは、何も言わず、ただ石碑を見つめていた。


 思い出すのは、あの静かな夜の焚き火の明かり。

 彼が見せた最後の微笑み。

 そして、あの夜空を切り裂くように立ち昇った光の柱——。


「……でも、欲を言えば」


 レミーユが呟いた。


「もう一度、あの笑顔を見たかったですね。ほんの、少しでいいから」


 その言葉に、セシリアが頷く。


「うん……言い残したこと、たくさんあるもん。アーサーくんに言いたいこと、聞いてほしいこと……いっぱいあるのに」


「でも……またいつか会えるかもしれないよ……いつか、また、いつかね」


 バザークが空を見上げて、そっと言った。

 言葉が詰まり、ふいに喉の奥で小さな嗚咽が漏れた。


「また、ここに会いにきましょう。アーサーに」


 レミーユが、小さく微笑んだ。


 その場にいた三人は、それぞれに涙を流しながら、しかし確かに微笑んでいた。


 風が、石碑のまわりを優しく吹き抜けていく。

 まるでアーサーが、どこか遠くから微笑んでいるかのように。


 空は、どこまでも青かった。


 彼の物語は、終わった。


 だが、それを紡ぐ者たちの物語は——これからも続いていく。





完結です。よかったら評価お願いします。

☆☆☆☆☆→★★★★★

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ