EP10
アーサーが目を覚ますと、焚き火の前にはレミーユだけが起きていた。
柔らかな火の揺らぎに照らされる横顔は、どこか沈んだ色を帯びている。彼女は火の番をしながら、不安そうに膝を抱えて座り込んでいた。
「……ヴェルシュ、すまない。一人で見張りは大変だったろう。セシリアとバザークは……」
アーサーはゆっくりと身を起こし、彼女の向かいに腰を下ろす。眠る二人の姿を背後に、低く問うた。
「二人は見ての通り、安眠しています。不安な気持ちがありながらも、勇者パーティーとしての自信がそれを感じさせないのでしょう」
「自信、か」
「ええ。……それより、アーサー。あなたは、少し考え込みすぎているように見えます」
レミーユはじっとアーサーを見つめた。燃えさしの火が彼の瞳に揺れる影を落とす。
「気のせいだ」
アーサーはそう言いながら、火に細い枝をくべる。ぱち、と音が弾けた。
「いえ、違います。あなたは何かを隠している。……それでも、私は問わないと決めていました。あなたがそれを明かす時が来るまで、ずっと待つつもりでした」
「……ヴェルシュ」
「でも、明日——いいえ、今日ですね。私たちは魔王に挑む。その前に、せめて言わせてください」
レミーユの声が震えた。だが彼女はそれを堪え、まっすぐアーサーを見た。
「貴方の背中を見ていると、胸が痛むんです。貴方が笑ってくれるだけで、私の魔法は十倍強くなる気がする。……それくらい、貴方は私にとって、特別です」
アーサーは黙っていた。否定もしなければ、肯定もしない。ただ焚き火を見つめていた。
「……ヴェルシュ。お前のほうこそ考え込みすぎだ。そろそろ休んだほうがいい」
「でも——」
「いいから。早く休め。今日の戦いはきっと、これまでで一番過酷になる。休まなければ乗り越えられない。死を眼前に控えた戦いに身を投じるためには、落ち着いた休息が必要だ。」
アーサーの声音は静かだった。強くも、優しくもなく、ただ淡々としていた。けれど、その中には揺るぎない覚悟が滲んでいた。
レミーユは、それ以上何も言わなかった。否、言えなかったのかもしれない。
「……絶対に、みんなで生きて帰りましょうね。アーサーを見下していた人たちを見返してやるんです。勇者様としてアーサーを世間に知らしめるんです。アーサーは……強くて優しい人なんだと、みんなにわかってもらうんです」
微笑んだレミーユの声に、アーサーはほんの一瞬だけ、まなじりを下げた。
「……ああ、もちろんだ」
その言葉に嘘がなかったと、彼女はきっと信じたことだろう。
レミーユが寝袋に身を沈め、微かな寝息を立て始める。
その音が安らぎを伴うまでの間、アーサーはじっと座り続けていた。
そして、静かに立ち上がると、荷物の奥に仕舞っておいた羊皮紙と小さなペンを取り出した。
焚き火の灯りを頼りに、膝の上でそっと紙を広げる。
その動きに迷いはない。手は震えていなかった。
長い夜の思索は、すでに彼の中で一つの答えに帰結していたのだ。
ペン先が紙に触れたとき、彼はわずかに唇を引き結んだ。
誰に宛てるでもない文字を、誰よりも大切な“仲間”たちのために書き残す。
その筆跡は丁寧で、時間をかけるほどの量でもない。
しかし、そこに込められた言葉は、どんな魔法よりも重く、優しく、そして確かな彼の証として残った。
やがて、最後の一文字を書き終えると、アーサーは手紙を折りたたみ、自らの革の鞄の中にそっとしまい込む。
誰にも見つからぬように。だが、きっといつか、必要とされる瞬間が来るだろう。
それは彼が選んだ、最後の言葉だった。
——ありがとう。ヴェルシュ、セシリア、バザーク。出会えてよかった。
アーサーは静かに立ち上がる。
焚き火に背を向けると、ゆっくりと歩き出した。
仲間たちの眠る音だけが、夜の底でやさしく響いていた。
もう振り返らない。目指すは、あの丘の向こう。魔王が巣食う、世界の最深部。
そして、夜が明けた——
数刻の後、空を引き裂くような轟音が響き渡った。
漆黒の雲を貫くように、光の柱が天へと伸びていく。地が鳴り、風が止み、大気が一瞬、祈りのような静寂をもたらした。
それは誰の目にも明らかだった。世界の運命を変える、一つの決断の証。
アーサーは、行ったのだ。
たった一人で。
ついに、勇者は、アーサーは——魔王を討った。
自らの命を賭して……
◇◆◇◆◇
レミーユは耳をつんざく轟音を聞いて目を覚ました。
何かが破壊され、世界の理そのものが軋んだような音が、空を割って鳴り響いた。
次の瞬間、目に飛び込んできたのは、漆黒の空に突き立つ一本の光の柱だった。金と白が混じり合い、揺らめくその光は、空の雲を穿ち、地に影を落とす。
まるで、天に突き立つ剣のようだった。
「アーサー……?」
胸が高鳴った。身体が、震えた。
——ただの魔法ではなさそうですね……あれは、彼の聖滅?
レミーユはそう直感した。
同時に、隣にいたセシリアとバザークも目を覚まし、無言で空を見上げた。
誰も言葉を発さない。それでも、三人は悟っていた。
あの光が、終わりの合図であることを。
それは、魔王が討たれたことを示していた。
そして、その代償として、アーサーがそこにいないという事実をも。
周囲に、もはや敵の気配はなかった。魔族の気配も、瘴気の名残すらも、風に溶けて消えていた。
世界は静かだった。
遠く、空を翔ける一筋の風が、三人の間を通り抜けた。
辺りを見回しても、アーサーの姿はどこにもなかった。
アーサーの荷物だけが、寂しくそこに取り残されていた。
レミーユは唇を噛み、セシリアは黙って拳を握った。バザークの大きな背は、揺れていたが、崩れることはなかった。誰も涙を流さなかった。ただ、深く沈黙の中に立ち尽くしていた。
数ヶ月後、アルス王国に帰還した一行は盛大な歓迎を受けていた。
パレードは大々的に行われた。
王国中の民衆が広場に集まり、魔王討伐の立役者として讃えられた三人を称えた。紙吹雪が舞い、祝福の鐘が鳴り響いた。
しかし、その中心にアーサーの姿はなかった。
アーサーの名を告げても、人々は信じなかった。
「そんな名は記録にない」「勇者ならば、聖剣を掲げて凱旋するはずだろう」「本当の功労者はどこにいる?」
民は、伝説のような英雄像を欲していた。
名も残さず姿も見せず去った者を、勇者と信じようとはしなかった。
それでもレミーユは誇りを持っていた。
セシリアもまた歯を食いしばっていた。
バザークの拳には、血が滲んでいた。
「……私たちは知っています。あの夜、誰が世界を救ったのかを」
レミーユはそう言い切った。
パレードを終えて、場所はアルス王国の王城。
セシリアの私室。
パレードの喧騒も終わり、夜の静けさが城を包んでいた。
レミーユ、セシリア、バザークの三人は、アーサーの遺した荷物を前にしていた。
魔王討伐の旅に出る前、アーサーはほんのわずかな手荷物しか携えていなかった。
その中に、革で包まれた一冊の手帳と、一通の手紙が入っていた。
封は、まだ開かれていなかった。
「……これ、アーサーが……?」
セシリアが震える手で手紙を持ち上げる。
裏には、誰宛とも書かれていない。
ただ、きれいな字で、こう綴られていた。
——「親愛なる仲間たちへ」
レミーユは、そっと手紙に手を伸ばすと、封筒の端に指をかけて、小さく息を呑んだ。
セシリアとバザークは隣で固唾を呑んで見守っていた。
まるで、亡き彼と再び会話を交わすかのような錯覚を覚える。
封を切ると、中には丁寧に折られた羊皮紙が一枚。
その筆跡はアーサーのものだった。
レミーユは震える指でそれを広げる。
字は乱れていなかった。むしろ、とても整っていた。
最後の言葉を伝えるために、何度も練習したのかもしれない——そんな気がした。
⸻
もしこの手紙を読んでいるなら、きっと俺はもうこの世にはいないんだと思う。
最初に謝らせてくれ。
本当のことを話さずに、嘘をついてすまなかった。
俺が持っていた聖滅の力は、皆に説明したものとは大きく異なる。
本当の名前は——終焉の一撃。
一度きりしか使えず、魔王に対してのみ効果がある、自爆の力だ。
それを放てば、魔王もろとも俺の命は消える。
俺は、それをずっと隠してきた。
なぜなら、お前たちが俺を止めるだろうと思ったからだ。
誰よりも優しいお前たちのことだ。
俺を止めて、自分たちが代わりに死のうとすらしたかもしれない。
だから、俺は誰にも言わなかった。
そして最後まで、仲間として一緒に戦ってくれたこと、心から感謝している。
ありがとう。
レミーユ・ヴェルシュ
お前は俺に初めて「知りたい」と言ってくれた人だ。
俺が何者なのか、何を思って剣を振っているのか。
怖かった。でも嬉しかった。
お前がいたから、俺は少しだけ自分のことを許せるようになった。
セシリア・ルシルフル
そのまっすぐな言葉は、俺の心を何度も救ってくれた。
お前の優しさも、怒りも、全部、本物だった。
回復魔法をかけられるたびに思ったんだ。俺は守られてるんだって。
だから、最後は、お前たちを守る側に回れてよかった。
バザーク。
あの戦場で出会ったとき、お前は俺に人間らしさを思い出させてくれた。
力じゃない。言葉でもない。
お前の存在が、俺の中にあった欠けた何かを埋めてくれた気がする。
お前たち三人は、本当に最高の仲間だった。
だからこそ、生きていてほしい。
笑って、明日を生きてほしい。
俺は勇者として生まれた。
でも最後は、誰かのために剣を振るえた人間として、終わりを迎えられたなら——それで十分だ。
世界が平和になったなら、それが俺の願いのすべてだ。
生きろ。
そして、いつか笑って俺のことを思い出してくれたら、それでいい。
世間に俺の存在が知られる必要はない。お前たちは正真正銘の勇者パーティーだ。その名を歴史に刻み、強く、気高く、生き続けろ。
さようなら、そして——ありがとう。
アーサーより
⸻
レミーユの手から、手紙がふわりと落ちた。
何も言えなかった。
涙が、ただ頬を伝っていく。
セシリアも、バザークも、声を出せずに肩を震わせていた。
「……アーサー……」
レミーユは、胸に手を当てて、呟いた。
——ありがとう。あなたがいてくれたから、私たちはここにいる。
もう、名が歴史に刻まれなくてもかまわない。
私たちは、あなたの名を、この胸に刻んでいる。
——アーサー。あなたこそ、本物の勇者様です。
◇◆◇◆◇
その石碑が建てられたのは、ベルガス山脈を臨む小高い丘の上だった。
空は澄み、風が静かに草を揺らしていた。
かつて魔王軍が拠点としていたその山のふもとには、今や一切の魔の気配もなく、草花が芽吹きはじめていた。
レミーユ、セシリア、バザークの三人は、そこに静かに立っていた。
石碑は、白い大理石で作られていた。
それは王都の職人が三人の手によって丁寧に依頼され、最も美しく、最も強く、時を越えて残るようにと願って彫られたものだった。
石碑の正面には、こう記されていた。
⸻
《アーサー》
真の勇者の記録
彼は生まれながらにして咎を背負い、剣を携えて世界を救った。
その名は歴史に残らずとも、彼の歩みはこの地に永遠に刻まれる。
勇者として、仲間として、人として。
⸻
バザークが、石碑の前にそっと花束を置いた。
手向けるのは、タリウスの村の近くで見つけたという、白く小さな野花だった。
「……きっと喜んでくれるよね。アーサーくんは、そういうの素直に受け取らなそうだけど」
セシリアが、目元を赤くしながら笑った。
「文句を言いながら、内心では感謝してるのでしょう。そういう人でした、彼は」
レミーユの言葉に、三人の間に柔らかな静寂が降りる。
丘の上には、優しい風が吹いていた。
三人の間に静寂が訪れる、
すると、レミーユがふと、石碑に刻まれた名前を指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「……やっぱり、アーサーはどこか欠けていたんでしょうね」
「欠けてたって……アーサーくんが?」
セシリアが驚いたように顔を上げる。
「ええ。優しかったし、強かった。正義感も、人のために動く力も誰よりもありました。ですが……」
レミーユの声が、少しだけ震えた。
「“自分を大切にする”ということが、どこか……まるで抜け落ちていた気がするんです」
バザークは黙って頷いた。心当たりがあった。
「たしかに……アーサーは誰よりも人を助けたがってた。でも、それは誰かが苦しむくらいなら、自分が死んだ方がマシっていう、ある意味では極端な考え方だったのかもしれない。自己犠牲が……強すぎるくらいにね」
「勇者候補って、何かしら欠落して生まれてくるんだよね? 感情だったり、善悪だったり……それがアーサーくん場合、“自己の価値”だったのかもしれないね……」
「自分には、生き残る価値がないって思ってたのかもしれません……だから、迷いなく逝けたんです」
レミーユは目を閉じ、そして、囁くように言葉を続ける。
「それでも、私は、彼が生きていてほしかったです。彼の命は、誰かのために捧げられるためのものじゃないって、伝えたかった……」
誰も言葉を返せなかった。
ただ、静かに、風が吹いていた。
「……王都のパレードで僕たちが何を言っても、みんな信じてくれなかったよね。国王様は信じてくれたけど、世間は違った。でも、僕はずっと思ってた」
バザークが、ゆっくりと石碑に手を置く。
「名前なんて、称号なんていらない。僕たちがアーサーのことを覚えていれば、それでいいって」
「うん。わたしたちが語り継いでいけばいいんだよ。わあしたちの勇者様は、本当にいたんだって」
セシリアの声はどこか誇らしげだった。
レミーユは、何も言わず、ただ石碑を見つめていた。
思い出すのは、あの静かな夜の焚き火の明かり。
彼が見せた最後の微笑み。
そして、あの夜空を切り裂くように立ち昇った光の柱——。
「……でも、欲を言えば」
レミーユが呟いた。
「もう一度、あの笑顔を見たかったですね。ほんの、少しでいいから」
その言葉に、セシリアが頷く。
「うん……言い残したこと、たくさんあるもん。アーサーくんに言いたいこと、聞いてほしいこと……いっぱいあるのに」
「でも……またいつか会えるかもしれないよ……いつか、また、いつかね」
バザークが空を見上げて、そっと言った。
言葉が詰まり、ふいに喉の奥で小さな嗚咽が漏れた。
「また、ここに会いにきましょう。アーサーに」
レミーユが、小さく微笑んだ。
その場にいた三人は、それぞれに涙を流しながら、しかし確かに微笑んでいた。
風が、石碑のまわりを優しく吹き抜けていく。
まるでアーサーが、どこか遠くから微笑んでいるかのように。
空は、どこまでも青かった。
彼の物語は、終わった。
だが、それを紡ぐ者たちの物語は——これからも続いていく。
完結です。よかったら評価お願いします。
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