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EP1

完結まで予約投稿済みです。

 勇者は生まれてすぐに母親の命を奪う宿命にある。


 勇者の胎動(ブレイヴ・パルス)と呼ばれるそれは、勇者になりうる力を持つ赤子が母親の腹部を突き破って生まれてくる現象だ。


 勇者の力とは何か。

 それは、ただ強い力のことではない。

 この世界において、勇者とは”選ばれた者”ではなく、”定められた者”である。


 勇者として生まれた者は、既に一つの命を奪っている。

 その手に宿るのは、作り話の神々の加護などではなく、原初より受け継がれた(とが)の力だ。

 力あるが故に、生まれた直後に一つの命を刈り、力あるが故に、血を浴びながら産声を上げる。


 彼らの力は、一言で言い表すならば”覇滅”だ。

 全てを圧倒する覇気、常人の理解を超えた闘気、そして時に神すら討ち滅ぼす剣閃。

 その全ては、生まれながらにして刻まれた「殺すべき敵」を討つためにのみ存在する。


 ゆえに勇者とは、英雄ではない。

 神々が定めた(ことわり)に抗う者。世界の敵であり、世界の救済者。

 光の申し子にして、闇より生まれし存在。


 それが、勇者である。


 勇者は特異な力を持って生まれてくる。

 聖滅(セイメツ)——それが、勇者にのみ宿る力の名だ。


 それは聖なる破滅。

 海を割り、大地を断ち、空を裂く力。

 その一撃がもたらすのは、秩序の崩壊であり、命あるもの全てへの否応なき断罪。


 たとえ鉄を纏おうが、魔を操ろうが、群れを成そうが関係はない。

 勇者が振るう聖滅(セイメツ)の前には、全てが等しく“ただの存在”へと還る。


 それはもはや、人の技ではない。

 神の業ですらない。

 ——それ以上の、世界そのものを変質させる現象である。


 その力を完全に振るえる者は、百年に一人しか現れない。

 だが、わずかにでもそれに耐えうる器を持って生まれた者は、勇者候補(ブレイヴ・シード)と呼ばれる。

 勇者候補(ブレイヴ・シード)は、その身に宿る(とが)の片鱗により、しばしば常人離れした力を発現させる。

 しかし、それは不完全な聖滅(セイメツ)にすぎず、真の勇者とはなりえない。




 『勇者原典(ブレイヴ・オリジン)』より





 ◇◆◇◆





 アルス王国の中心部。すなわち王都の中核には巨大な円形の城郭が静かに威容を誇っていた。


 名を——セイクリッド・アカデミー。

 魔王討伐を使命とし、勇者をはじめとした戦士・僧侶・賢者といった戦闘職の育成を目的とする、王立の育成機関である。


 入学が許されるのは十五歳以上。

 才能、血筋、あるいは勇者候補ブレイヴ・シードとしての資質。

 何らかの”選ばれた証”を持つ者のみが門をくぐることを許されるこの学び舎は、まさに国家戦力の心臓部といっても過言ではなかった。


 その日、賢者コースに属するレミーユ・ヴェルシュは、日課である魔力制御訓練の帰り道、ふと寮舎裏の訓練場に足を止めた。


 ——剣の音。

 鉄を振るう、まっすぐで稚拙な、けれども力強い音が聞こえる。


 現在は皆が寝静まる夜半過ぎ。

 この時間に訓練場を使う者などいるはずもない。好奇心というには弱く、暇つぶしというには不真面目。だが、レミーユにとって、日々の繰り返しの中で起きるちょっとした異常は、それだけで十分な理由になった。


 彼女は遙か東方、エルフの国の第三王女。

 王政とは距離を置き、魔法の才を磨くために遥々この国へと留学してきた才媛(さいえん)

 レミーユ・ヴェルシュはその名の通り、すでにアカデミー内で並ぶ者なき魔導の才を示していた。


 ……故に、退屈していた。


 決められた課題をこなし、予想通りの結果を確認し、凡庸な競争と無意味な順位争いを続ける日々。

 講師たちは自分の理解の半歩後を歩き、同期たちはその背中を追うばかり。

 この国に来て、早々に悟った。自分は強すぎるのだと。


 だからその時、寮舎裏の訓練場で見た“彼”は——ただの雑音ではなかった。


 「……あの方、勇者候補(ブレイヴ・シード)でいらっしゃいましたよね?」


 誰に言うでもなく、ただ呟くようにそう口にする。


 少年は一人、汗だくで剣を振っていた。

 がむしゃらで、不格好で、無駄な力が入りすぎている。

 構えも甘く、踏み込みも浅い。切っ先もぶれて、体の軸も不安定だった。


 けれど——


 何百、何千と、振るってきたのだろうと感じさせる、圧倒的な”質と量”がそこにあった。

 熱意ではない。執念とも違う。ただ、ひたすらに振るう。それだけを信じて。


 「……聖滅をお持ちのはずなのに、なぜ剣など?」


 不思議だった。不可解だった。

 勇者候補ブレイヴ・シードとして生まれた者は、生まれながらに“聖滅セイメツ”をその身に宿す。

 その力の大きさには個人差があれど、いずれも例外なく、その力を誇示する。試す。暴く。

 それが勇者候補たちの常であり、日常であった。


 しかし、彼は違った。

 その力を見せびらかすこともなく、ただ一人で剣を振っている。

 それも、あまりに不器用な剣さばきで。


 「変わった方ですね……。ふふ、少しだけ、面白いかもしれません」


 それが、レミーユ・ヴェルシュが初めてアーサーという名の少年に、興味を抱いた瞬間だった。


 



 ◇◆◇◆


 



 その日も、アーサーは剣を振っていた。


 雷鳴が空を裂き、叩きつけるような雨が大地を洗っていたというのに、彼は気にも留めず、ひたすらに剣を振るっていた。


 まるで天候すら彼にとっては些細な事象でしかないかのように。


 レミーユがアーサーを観察し始めてから、すでに一週間が経っていた。

 その間に判明した事実の中でもっとも常軌を逸していたのは、彼が一日の大半を剣の修練に費やしている、ということだった。


 剣の修練は毎日欠かさず十五時間以上続けていた。

 わずか三時間の睡眠を取り、未明の四時には起床する。

 陽が昇る前から剣を握り、授業の始まる寸前まで剣を振り続け、血豆だらけの手に包帯を巻いて教室へと向かう。

 座学を受け、実技をこなし、空き時間があれば再び外へ。

 日が暮れても鍛錬は終わらず、短い休憩時間ですら、剣の手入れに費やしていた。


 ——狂気と呼ぶに相応しい、努力ですね。


 レミーユは、ただただ圧倒されていた。

 もし自分が魔導書を何十冊も読み耽ったあと、魔力が枯れ果てるまで魔法を放ち続けると想像したなら、それは正気の沙汰ではないと即座に思う。

 だが、彼はそれを“当然のこと”のように、何の迷いもなく、日々繰り返していた。


 それほどの努力にもかかわらず、彼の剣技は一向に洗練されていなかった。少なくとも表面上は何も変化がなかった。

 更に言うと、彼は魔法の才能が皆無。学力も平凡以下。読み書きもままならず、計算も苦手と聞く。


 唯一、人並み以上の知識を有していたのは、魔王、魔族、魔物に関するあらゆる情報と、地理、気象、環境など、戦場としての世界そのものに関する分野だけだった。


 だが、それが彼の立場を覆すには至らない。


 周囲の評価は、苛烈だった。


「田舎者のくせに勇者候補だなんて、笑わせる」


「あいつが魔王と戦う? 無理に決まってるだろ」


「才能もないくせに、無駄な努力ばっかりしてる変人だ」


 嘲笑は日常茶飯事だった。

 中には暴力に訴える者すらいた。


 それでも、アーサーは何も言わなかった。

 反論もせず、抵抗もせず、ただ耐える。

 まるでそれが、当たり前であるかのように。


 講師たちも、彼を擁護しようとはしなかった。

 「庶民だから仕方がない」と、そう言わんばかりに無関心を貫いていた。


 ——どうして、彼はそこまでして剣を振るのでしょうか?


 使命か。責任か。あるいは、勇者候補ブレイヴ・シードとしての宿命か。


 いいえ。

 それだけでは説明のつかない、何かが彼にはある。


 ——知りたい。私は、アーサーという人間をもっと知ってみたい。


 一週間前、ただの興味本位で観察を始めたはずだった。

 最初は、努力を嘲る側と同じ目線で彼を見ていた。くだらない、馬鹿げている、と。


 だが、今、レミーユの胸を満たしていたのは、確かな“興味”だった。


 だから彼女は、初めて彼のもとへと歩を進めた。

 観察者ではなく、一人の人間として。

 アーサーという謎を、その目で、耳で、確かめるために。


 



 ◇◆◇◆◇





 大嵐が過ぎ去り、豪雨がようやく上がった頃。

 アーサーは、ちょうどそのタイミングで剣を収めた。


 待ち伏せていたレミーユは、濡れた彼に向かって静かに声をかけた。


「アーサー」


 唐突な呼びかけに、アーサーはぴたりと足を止める。

 レミーユは濡れた彼へと、そっとハンドタオルを投げ渡した。


「っ……?」


「やっと、こちらを向いてくださいましたね」


「……俺に何か用か?」


 警戒するような目つき。それに対して、レミーユは臆せず言葉を返した。


「そんな目で見ないでください。ただ、私は貴方にお聞きしたいことがあっただけなのですから」


 彼の返答を待つことなく、レミーユはその場で口を開いた。何よりも彼への興味が勝っていた。好奇心が理性を押し流すほどに。


「なぜ、貴方は毎日あれほどまでに剣を振っておられるのですか?」


「……そんなの決まってるだろ。魔王を討つためだ」


「そうではなく、なぜ身を削ってまで続けておられるのか、という意味です」


 アーサーは短く息を吐いた。

 その瞳は、まるで何もかもを諦めたように、どこか遠くを見ていた。


「俺には魔法の才がない。だから剣を振るしかないんだよ」


「それは存じております。ですが、貴方は聖滅セイメツを宿す 勇者候補(ブレイヴ・シード)です。剣に固執する明確な理由があるのでは?」


 勇者候補にしては異常すぎる剣への執着。

 聖滅を使わず、がむしゃらに剣を振る理由。それが、レミーユにとっては不可解だった。


「……一つ聞くが、あんたは勇者コースの奴らが、どうやって過ごしてるか知ってるか?」


 アーサーの声は乾いていた。

 感情を抑えたというより、初めから籠っていないような、そんな色の薄い声だった。


「詳しくは存じませんが、少々傲慢で厄介な方が多いとは耳にしています」


「傲慢とかそういうんじゃねぇよ。……俺が言ってんのは、あいつらが“本気で”剣を振ってるかどうかって話だ。普段のあいつらを見たことあるか?」


「……それは、見たことがありません」


「なら教えてやる。このアカデミーにいる勇者候補なんてのは、魔王を討ちに行く気なんてない奴ばっかりだ」


「どうしてですか?」


「勇者ってのは名誉だ。でも、同時に死ぬことが決まってる存在なんだ。だから奴らはやる気のあるフリをするだけで、実際はだらけきってる。演習では笑いながら剣を振って、座学では居眠り。誰も心の底では魔王討伐になんて行きたくないと思ってる」


 アーサーの瞳がわずかに鋭さを帯びた。

 だが、それは怒りではなかった。ただ、乾いた現実を語る者の目だった。


「……そういうことでしたか」


「それに比べれば、俺は真面目にやってる方だろうな。使命感ってやつも、他の誰よりも強いと思ってるよ。それは日を追うごとに、自分の中で育ってるのが分かる。でもな……その使命が本当に目の前に迫ったとき、きっと俺は、“死にたくない”って思うんだよ」


 アーサーは静かに、自分の胸に手を当てた。

 その目は、誰よりも真剣だった。だからこそ、自らの死と向き合っているようだった。


「私は魔法使いですから、勇者の力や使命に対する感覚は分かりません。ですが、私も魔王を討たねばならないと思っています。誰かがやらなければ、人類が滅びてしまうのですから」


「……大層なことを言うんだな」


「貴方にだけは言われたくありません」


 レミーユは肩をすくめ、すぐさま言い返した。

 自分の方が遥かに優秀だという自負がある。だがそれでも、目の前の少年が持つ“何か”は否定できなかった。


「アーサー。貴方は本当に、魔王を討とうとしているのですか?」


「当たり前だ」


 即答だった。

 それは、揺るぎなき信念。誰に強いられたでもなく、自らの意志で剣を振るっていることの証だった。


「では、どうして聖滅を使わないのですか?」


「……さあな」


 アーサーの声に、わずかな翳りが差した。


「聖滅は勇者候補それぞれが持つ力で、誰しもが違う特性を持つのは常識です。アーサーはどんな力をお持ちなんですか?」


「……自慢できるような力じゃない」


「内緒ですか?」


「ああ」


「なぜ?」


「使えないからだ」


 レミーユは、その言葉に違和感を覚えた。

 目を逸らしながら口にしたアーサーの言葉は、明らかに嘘だったからだ。


「勇者候補が聖滅を使えないなんて、そんな話は聞いたことがありません。貴方のことは調べさせてもらいました。正式に勇者候補として認定された存在であり、アカデミーに迎えられたのはその力の証のはずです。勇者の胎動(ブレイヴ・パルス)を経て誕生した存在なのですよね?」


「それこそが嘘かもしれないけどな」


 アーサーはそっけなく言い放ち、話題を打ち切ろうとする。

 それでも、レミーユは食い下がった。


「本当に“使えない”のですか? “使いたくない”のではなく?」


「…………」


 短い沈黙の後、アーサーは、ふと呟くように言った。


「俺の聖滅は、そういう力なんだよ」


「“そういう”とは?」


「知らない方が、あんたのためだ。」


 それが本音だと、レミーユは悟った。

 彼は嘘をついているわけではない。真実を、語れないだけなのだ。


 沈黙が、少しだけ長く続いた。


 ふいに、アーサーがぽつりと呟いた。


「……ヴェルシュ、お前には母親がいるか?」


「ええ、もちろんです。故郷で私の帰りを待ってくれていると思います……あ……」


 そう答えたレミーユだったが、それは勇者候補(ブレイヴ・シード)であるアーサーにとっては当たり前ではないことを遅れて理解した。


「俺から聞いたことだから気にするな」


「……不躾でした。すみません」


「じゃあ、これは俺の独り言だから悲しむ必要はない。まず、俺は勇者候補(ブレイヴ・シード)として生まれた」


 レミーユは小さく瞬きをした。

 それは、知っている事実だった。だが、彼の口から改めて語られると、それがただの称号ではなく、出自そのものなのだと、強く実感させられた。


「知っての通り、勇者の胎動(ブレイヴ・パルス)は、勇者候補が母親の腹を突き破って生まれてくる」


「……ええ、もちろん存じています」


 それは勇者に選ばれし者の証。その身に聖滅を宿していることの証左。

 だがそれは、同時にひとつの命を奪う行為でもあった。


「俺の母親も……俺が生まれたときに、死んだ。だから、顔は覚えていない。覚えていたとしても、それは腹が破れて息絶えた肉塊だろうがな」


 その言葉に、レミーユは思わず息を飲んだ。

 アーサーは尚も続ける。


「俺の生まれたのは辺境の小さな村でな……勇者候補なんて言葉も知られてなかった。だから、勇者の胎動で生まれた俺は虐げられた。色んな文献を読み漁ったが、普通の勇者候補は生まれた瞬間に祀り上げられるそうだな。人が一人死んだっていうのに、誰もが誕生を祝すらしい」


 アーサーは遠くを見るように、声を落とした。


「まあ、俺が育った村にはそんな慣習はなかったわけだから。母さんを殺して生まれた俺は忌み子として扱われた。当然だよな、何をするにも石を投げられて、食い物には唾を吐かれて……村の中じゃ、誰も口をきいてくれなかった」


 淡々と語っているようで、その声音には乾いた傷が滲んでいた。

 それは、癒えることなく時間の中に凍りついた傷跡。


「それでも、家族だけは……父さんと姉ちゃんだけは、俺をかばってくれた。だけど、それも長くは続かなかった。五つになったとき、俺は村から追い出された……家族と引き離されてな」


 ふっ、とアーサーは皮肉げに笑う。


「おかしな話だろ? 俺は誰かを守るために生まれたはずなのに、五つになるまでその使命を知らなかったんだ」


 それはまるで、誰に教えられたわけでもないのに、生まれつき植えつけられていた罪悪感のようだった。


 世界のために生まれてきた存在が、世界から弾かれ、孤独の中で自己価値を喪失していく。

 それはあまりにも理不尽な話だ。

 だが、アーサーはその痛みを受け入れたまま、大人になってしまった。


「……聞かせてくれて、ありがとうございます」


 レミーユは袖でそっと涙を拭った。

 心のどこかで、彼のことを変わり者だと括っていた自分が恥ずかしかった。


 だからこそ、もっと知りたいと思った。

 彼の過去も、心も、そして――その隠された“力”のことも。


「これは勇者の歴史に詳しいハイエルフの知人から聞いたことですが、勇者候補は必ず大切な”何か”を欠落して生まれてくるそうです」


 正しくは、生まれた瞬間に母親を殺すことで聖滅の力を手にし、その代償として”何か”が欠落するというものだった。

 

「何かっていうのは?」


「例えば、人を思いやる感情が欠落し残虐性が増すこともあれば、死を悼む心が欠落することもあるそうです。大抵は他者への関心や心遣いが欠落する、そう言われています」


「……俺もそうなのかもしれないな」


「いえ、おそらくアーサーは人を思いやる気持ちを持ち合わせています。表情の変化が機敏ですし、こうして普通に会話もできますからね」


 レミーユの目から見て、他の勇者候補と比べてるとアーサーは良い意味で異様だった。

 地位や権力、後ろ盾、聖滅の力にあぐらをかくこともなく、黙々と努力に励む懸命な姿はまるで他とは違う存在だった。


「俺はお前が思っているような人間じゃない」


「……それは私が決めることです。だから、付き合ってください。なぜ貴方がそんなに剣を振るのか。その理由が聖滅にあるのなら、私はその力を知りたいと思ってしまいます。教えていただけませんか? 今度の屋外演習で」


「演習……?」


「来週末に予定されている、全コース合同の屋外演習です。ダンジョン探索が舞台です」


「たしか、グループで参加しなきゃいけないやつだよな?」


「ええ。最低でも二人。貴方、まだ組む相手がいないでしょう?」


「……正直、面倒だと思ってた。サボってもいいかとも思ってたしな」


「それでも授業に出続けている理由がありますよね? 貴方はアカデミーを去るつもりはないのでしょう?」


 アーサーはわずかに目を細めた。

 それは、図星を突かれた反応だった。


「……今ここを辞めたら、安全に剣を振ることのできる場所もなくなるからな」


 無益に授業を欠席すれば、存分に剣を振れなくなる。いくらアーサーがアカデミーに嫌気が差そうと、アカデミーを離れない理由はそこにあったのだ。


「ならば、演習でその希望を証明してみてはいかがですか? 私は貴方と組みたいのです。知りたいのです、貴方のことを」


 アーサーは黙った。

 だが、短い沈黙のあと、やがて小さく頷く。


「……わかった。だが付き合うのは一度きりだ。俺は仲間を作るつもりはない」


「わかっております。ですが、誰かと共に戦う未来が、貴方にとって無意味なものでないと知っていただければ、それでいいのです」


 仲間を作るつもりはない。そう断言した理由はわからなかった。しかし、一度きりとはいえ、レミーユはアーサーとの約束を取り付けることに成功した。


 レミーユはアカデミーにきて初めて、期待感と興奮を胸に来週の屋外演習を待ち侘びることになった。





 ◇◆◇◆◇◆


 


 屋外演習当日。


 アカデミーの生徒たちは講師陣に引率され、演習の舞台——モルドのダンジョンへと足を運んでいた。


 レミーユはアーサーと共に、ダンジョン入口前に続く長い列の中に並んでいた。

 あの日以来、彼と言葉を交わすのはこれが初めてだったが、その様子に変化はない。いや、あるとすれば、さらに消耗した印象を受ける。


 顔は青白く、目の下には隈。虚ろなまなざしには覇気がなく、まるで疲労と倦怠をそのまま体現したような風体。

 ただし今日は、いつものくたびれた制服ではなく、動きやすそうな革鎧を身につけていた。演習に備えての装いだろう。


「アーサー。よく眠れましたか?」


 レミーユが声をかけると、彼は短く唸るように返した。


「ん……いつも通りだ」


「また三時間ほどしか寝ていないのでは?」


「……どうして俺の睡眠時間を把握してるんだ」


「この前まで、貴方のことを知るために貴方と同じような生活をしていましたから、それくらいはわかります」


「よく変わり者だって言われないか?」


「いえ、全く。変わり者は貴方のほうでは?」


「そんなことないと思うがな」


 言葉のやり取りはあまりに自然で、けれど、レミーユにとっては新鮮だった。

 普段、自分に話しかけてくる者たちは、気遣いと畏れを込めた距離感で接してくる。

 だがアーサーにはそれがない。忖度も遠慮もない、ただの会話。それが少しだけ、心地よかった。


「ニヤニヤ笑って……どうかしたのか?」


 横目で一瞥されて慌てて表情を整える。


「何でもありません。ところで、モルドのダンジョンについては、どれほどご存知ですか?」


「ああ。百年前の勇者パーティーにいた賢者モルドってやつが踏破して整備したって話だろ。地下十五層。教育目的で作られた訓練用のダンジョンって聞いてる」


「よくご存知ですね。そうです、モルド様はハイエルフが誇る大賢者。私たちのような未熟な冒険者が安全に実戦を学べるよう、自ら踏破したダンジョンを基に整備なさったと伝えられています」


 大賢者モルド——その名を知らぬエルフは存在しない。

 勇者パーティーを支えた伝説の人物であり、レミーユにとっては幼い頃からの憧憬の対象でもあった。


「モンスターの強さも、ちゃんと調整されてるって資料に書いてあったな」


「その通りです。なぜモンスターが出現するのか、仕組みの詳細はまだ解明れていませんが、少なくともモルドのダンジョンは、私たちのような未熟者でも安全に訓練できるよう設計されているとされています。なので、イレギュラーが発生した事例は、過去に一度としてありません」


「……とはいえ、絶対なんて言葉は通用しない。油断は禁物だ」


 アーサーは終始、冷静だった。むしろ、他の生徒たちがあまりに浮かれすぎていることが、かえって異質に感じられるほどに。


「アーサー。あまり真剣になりすぎないでくださいね。少しはリラックスして挑んだほうが良いと思います」


「気を抜いた瞬間にイレギュラーが起きたら手遅れだ。ヴェルシュも気を引き締めておいたほうがいい。講師たちでさえ呑気にしてるんだからな」


「わかりました。……気を引き締めます」


 そう答えたものの、正直なところ、レミーユにはそこまでの危機感はなかった。

 ダンジョンの危険度は低く、講師陣の管理も行き届いている。

 何より、自分自身の魔法はアカデミー内でも屈指の水準だ。


 彼女は五属性すべての魔法を操る稀有な才女であり、実力も常に最上位。

 少なくとも、この程度の演習で自分が後れを取ることなど考えたこともない。


 それは、周囲の空気を見ても明らかだった。

 生徒たちは和気あいあいとした雰囲気で談笑し、演習というより遠足にでも来たかのような空気を纏っている。


 その中で、アーサーだけが明らかに浮いていた。

 いつもの無表情のまま、張りつめた空気を纏いながら、列の中でまるで一人だけ別の世界にいるかのようだった。


「——次。準備はいいか?」


 列の前方で、講師の一人が無愛想に声を上げる。

 レミーユとアーサーは呼ばれた番号を確認し、入り口へと進んだ。


「何度も言っているが、ダンジョン内には講師が待機している。困ったときはすぐに声をかけろ。このダンジョンは訓練用に整備されたものだから、出てくるモンスターもお世辞にも強いとは言えん。とはいえ、単独行動だけは絶対に避けろ。死なれては困る」


 講師の声には、どこか倦んだような響きがあった。

 慣れきった口調。繰り返される説明。緊張感はなく、まるで台本の読み上げのようだ。


「はい」


 レミーユが応えると、講師はふとアーサーに視線を向け、口元に嘲笑を浮かべた。


「おやおや、魔法も使えない落ちこぼれのアーサー君が、あのハイエルフの天才様とペアとはな。これまでに聖滅も未使用で、剣技も最下位、成績も底辺、これはまた、随分と見栄えの悪い組み合わせだな。おんぶに抱っこでご苦労なことだ」


「そんな言い方は——」


「——ヴェルシュ。行こう」


 言い返しかけたレミーユの声を、アーサーの低い声が遮った。

 彼は表情一つ変えぬまま、黙って背を向け、階段へと足を進める。


 講師は鼻で笑い、周囲の生徒たちも失笑を洩らした。

 誰一人、アーサーの気持ちに寄り添おうとしない。誰もが当然のように、彼を嘲り、見下ろしていた。


 レミーユは慌ててその後を追った。


「……アーサー。悔しくないのですか? あのように馬鹿にされて、それでも何も言い返そうとしないのですか?」


 彼女には理解できなかった。

 自分ならば、誇りを踏みにじられたその瞬間に、黙ってなどいられない。


 だがアーサーは、ぽつりと一言だけ返した。


「……もう、慣れた」


 それが、彼にとっての“当たり前”なのだと、その声がそう物語っていた。


 レミーユは言葉を失った。

 誇りを、尊厳を、感情を、すべて諦めることでしか自分を保てない人間が、この目の前にいる。


 彼の背が、ただ静かに地下へと沈んでいく。

 その足取りが、なぜかひどく、儚く見えた。




 

 ◇◆◇◆◇



 


 ダンジョンの深層へと進むにつれ、空気はどんどん重く沈んでいった。

 モルドのダンジョン。百年前の賢者モルドによって整備された訓練用の迷宮は、今までただの一度も異常を起こしたことがない、平和な演習場のはずだった。


 だというのに——


「誰にも、会いませんね」


 レミーユは不安げに呟いた。


 今の時点で四層目に突入する間近だというのに、他の生徒や講師の姿が一人も見えない。すれ違いも、物音も、何もない。異様な静寂に包まれていた。


 整備されたこのダンジョンでは、本来すれ違うのが当たり前だった。順路は一本道に近く、迷う余地もなければ、潜る者も多いはずなのに。

 奇妙な静けさが、レミーユの背筋をじわりと冷たく撫でていた。


「……何かおかしいですね」


 アーサーからの返答はない。

 彼は黙ったまま前を歩き続けていた。ずっと無言のままだ。


 だが、その背に漂う空気が、少しずつ変わっているのをレミーユは感じ取っていた。

 まるで、見えない何かに耳を澄ませ、皮膚を刺す空気の変化を感じ取っているかのような、そんな緊張の糸。


「……アーサー?」


 不安になったレミーユが思わず呼びかけたそのときだった。


「血の臭いがする」


 アーサーが足を止め、短く呟いた。


「……え?」


 次の瞬間、アーサーは駆け出していた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 呼び止める暇もない。彼は風のように、階段を駆け下りていく。


 レミーユは慌てて後を追った。胸の奥がざわつき、喉が焼けるように熱い。

 何かが起きている。そう直感させられる、得体の知れない焦燥感が背中を押していた。


 そして、辿り着いた四層では、予想だにしない光景を目にすることになった。


「……嘘……です、よね……?」


 そこに広がっていたのは、まごうことなき地獄だった。


 楕円状の広いフロアの中心には四人の生徒が無惨に倒れていた。

 勇者、賢者、僧侶、戦士。すべてのコースから一人ずつ。レミーユは彼らを知っていた。彼らはアカデミーでも名のある実力者ばかりだった。

 全員が成績優秀者で、将来を約束された者たちだ。


 だが、彼らは既に……


「っ……!」


 レミーユは思わず口元を押さえた。込み上げる吐き気をなんとか堪える。


 首を跳ねられた者。心臓を貫かれた者。目を見開いたまま、何かを叫ぼうとして息絶えた者。

 どの亡骸にも共通していたのは、逃げる暇さえなかったこと。そして、即死だったこと。


 一面に血が広がっていた。濃い、赤黒い臭気。

 鉄のようなその臭いが、鼻腔にへばりつき、脳にまとわりつく。


「なん……で、こんな……」


 自然と言葉が震えていた。指先も、声も、呼吸も、全部が不安定で、頼りなかった。

 一歩も動けない。ただ立ちすくむことしかできなかった。


 だが、その隣で、アーサーは冷静だった。


 彼は死体の前に立ち、まるで目の前にあるものを現実として受け止めるように、その惨状を無言で見つめていた。


「アーサー……?」


 震える声で呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。


 その顔には、迷いも怯えもなかった。

 代わりに宿っていたのは、静かな怒り。


 そして——冷たい光だ。


 その目に宿る光は、アカデミーで見たどの勇者候補(ブレイヴ・シード)よりも鋭く、強く、冷たかった。

 そして、全身から滲み出すようにして立ち上る覇気と闘気。


「っ……!」


 レミーユは言葉を失った。

 あれは、本物の戦う者が身に纏う気配だと直感した。


「イレギュラーだ」


 アーサーの言葉は低く、乾いていた。澱みのない淡々とした声色だった。


「何か、常軌を逸した存在がここを襲った。そして……まだ、そいつは下にいる」


 冷静すぎた。

 惨劇を前にしても、彼は取り乱さない。むしろ、感情をすべて押し殺して、戦う者の顔になっていた。


「アーサー……あなた、まさか……」


 レミーユの胸に浮かぶのは、ただひとつの確信。


 ——彼は、本物の勇者なのですか……?


 百年、誰も成し得なかった境地。

 剣を構えたとき、空気が変わった。魔力ではない、殺気とも異なる何か。

 ただ、剣を抜くだけで、レミーユの肌が粟立った。


 あのとき感じた神々しさも、震えるような威圧も、今、すべてが理解できた。


 この人は、生まれながらにして戦場に立つ者なのだ。


 誰に期待されなくてもいい。

 誰にも信じられなくてもいい。

 それでも彼は、剣を握って前に進む。


 その背は、何よりもまっすぐだった。


「ア、アーサー……?」


 レミーユは声を振り絞って彼の名前を呼んだ。

 行かないでほしい。無理をしないでほしい。どうか、一人で背負い込まないでほしい……そんな願いを込めて。


 しかし、当のアーサーは飄々とした表情で一言だけ呟いた。


「俺は行く」


 レミーユの願いも虚しく、アーサーは一人で下層へと姿を消した。





 アーサーが奥へと消えてから十数秒が経過していたが、レミーユの身体は動かなかった。

 だが、次の瞬間には足が勝手に階段へと向かっていた。


「た、助けを呼ばないと……!」


 言い訳のような呟きを口にしながら、レミーユは駆け上がった。膝は震え、呼吸は浅く、喉の奥が焼けつくように熱い。


 思い出すのは四人の亡骸。その顔。倒れた位置。飛び散った血。そして、そこにいたアーサーの冷静な横顔。


 あれほどの惨状を前にして、彼はどうしてあれほど静かでいられたのだろう。


 レミーユは理解が追いつかないまま、ただ階段を上る。


 三層、二層、一層と駆け上がり。地上の光が見えたときには、もはや肺が破れそうだった。


「誰か……誰か、聞いてください! イレギュラーが起きました! 四層で、人が……四人も!」


 叫びながら駆け抜ける。講師たちの顔が困惑に染まる中、レミーユは言葉を絞り出した。


「すぐに! 全員で深層へ……! このままでは……!」


 詳細を語る余裕などなかった。ただ、アーサーをひとり置いてきた罪悪感と、あの場に取り残された人々の惨状が、レミーユを動かしていた。


 驚きながらも、講師たちは急ぎ指示を出す。アカデミー随一の優秀な生徒であるレミーユの言葉を信じ、救護班、討伐班、魔法行使者、回復役、総出で隊が組まれ、ダンジョンへと駆け戻っていく。


 その先頭を、レミーユが走っていた。


 ——アーサー、どうかご無事で……!


 今度は、あの背を見失ってはいけない。


 そして、ひた走ること数十分。ようやくレミーユたちは十五層へと到着した。


 その刹那。誰もが息を呑んだ。


 そこに広がっていたのは、異様な静寂。精神が錯乱しそうなほどの静けさだった。

 血と鉄の匂いが満ちる中、フロア中央にはただ一人、アーサーが立っていた。


 周辺には漆黒の異形の亡骸と、倒れ伏す生徒と講師たちの体。返り血を浴びた床と壁。


 その中心に、アーサーはいた。


 剣を地に突き立て、両手で柄を握り、微動だにせず……じっと佇んでいた。


「アーサー……?」


 レミーユは、声を震わせながら彼の名を呼んだ。


 だが、彼は振り返らなかった。ただ静かに目を閉じ、祈るように沈黙を貫いた。

 誰に祝福されるでもなく、誰に讃えられるでもなく、それでも命を賭して誰かを救った者の、たった一人の英雄の姿だった。


 レミーユは鳥肌が背を駆け上がるのがわかった。

 心が震えた。理屈ではなかった。魔力でも、見た目でも、まして血統でもない。


 これは、勇者だ。


 あのとき確かに、自分は“英雄の影”を彼に見た。だが、たった今、それは確信へと変わった。


 百年ぶりに現れた、本物の勇者。


「……勇者、さま?」


 レミーユは無意識のうちにそう口にしていた。


 しかし、周囲の反応は違った。


「おい、出来損ない! お前が囮になれば、他のみんなは助かったんじゃないのか!」


「みんなを見捨てて、おいしいところだけ持っていった卑怯者め!」


「やっぱり田舎者は信用できねぇ! 貴族様の邪魔ばっかりしやがって!」


 レミーユの確信は他の者たちには届かなかった。


 誰もが、アーサーを責め立てた。

 讃えるどころか、怒りと疑いの声だけが渦巻いていた。


 しかし、やはり彼はなにも言わなかった。

 彼らの言葉なんて聞こえていないかのように、祈るように目を閉じ、剣に手を添えていた。


 なぜ、弁明しないのか。

 なぜ、真実を語らないのか。


 だが、その姿に、レミーユは気づいてしまった。


 これが、アーサーの戦い方なのだ。


 栄光を求めない。見返りを望まない。

 ただ、そうあるべきだと思う道を、ひたすらに歩む。

 だから彼は、名誉にも、罵声にも、無関心でいられるのだ。


 最中、レミーユはただ一人、その光景の中で立ち尽くしていた。


 自分には何もできなかった。

 あの瞬間、彼を庇う言葉も、賞賛する声も、真実を伝える勇気もなかった。


 アーサーはその日、英雄として戦い、悪意の中で裁かれた。


 栄誉ある勝者の名は伏され、凄惨な悲劇だけが喧伝された。

 勇者候補の少年の功績は記録されず、彼は再び孤独の中へ追いやられた。


 だが、レミーユだけは知っている。


 あれが本物の勇者だと。

 百年ぶりに現れた、神話の続きを歩む者だと。


 だから、レミーユは誓った。


 この人の剣に、魔法を添える賢者になると。


 どれほど世間に嘲られようとも。

 彼がその剣を折るまで、共に戦うと決めた。

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