第三話 報復
豊平高校の三年は、二学期を最後に授業がなくなる。冬休み明けは、受験や就職に備える時期。三学期の登校日は、始業式と卒業式のみとなる。
十二月になった。十二月一日。
もうすぐ冬休み。
今年は例年よりも雪の降り積もりが早く、道路は根雪によって隠されていた。
「おい、五味」
放課後の教室で、突如、クラスの親しい面々に囲まれた。
五味は首を傾げた。
「なんだよ? どうした?」
いつも談笑を交わしている奴等。今日の昼休みも、笑い合いながら昼食を食べた。しかし、今の彼等の様子は、先ほどまでと違っていた。
全員が、どこか苛立ちと怒りを交えた顔をしていた。
「ちょっと付き合えよ」
グループの中の一人――川村が、顎を動かして「来い」という仕草を見せた。
「?」
意味も分からず、五味は彼等についていった。
連れて行かれた先は、校舎裏だった。
「なんだよ、こんなところで」
そう聞いた瞬間だった。五味は、顔面に強い衝撃を受けた。体はバランスを失い、その場に倒れ込んだ。左頬に鈍い痛み。
倒れた五味の目の前には、怒りを露わにした川村が立っていた。
「お前、俺の女とヤッたんだってな?」
「……は?」
川村の恋人と寝たのは事実だ。彼等が付き合い始めてから、五味は、何度か彼女と寝ていた。五味が宣言した千人斬りの中の一人だった。
だが、その事実は誰にも話していない。川村の恋人が自白したとも考えにくい。
「いや、待てよ? 何のことだよ?」
とぼけようとした五味の顔面に、再び痛みが走った。一瞬、衝撃で目の前が真っ暗になった。今度は、右頬に重い痛み。周囲を囲む奴等の一人に、顔面を蹴られた。
「俺の女ともヤッたんだってな?」
事実だった。もちろん、それも誰にも話していない。一体、どうしてバレたのか。疑問で頭が一杯になって、五味は、言葉を発せなくなった。
五味の周囲を囲んでいるのは、七人。彼等の恋人全員と、五味は寝たことがある。彼等の交際が始まる前ではない。彼等が付き合い始めた後だ。だからこそ、絶対に明るみに出ることはないと思っていた。浮気したことを、彼女達が話すはずがない。
――どうしてバレた?
五味の頭の中で、疑問がグルグルと駆け巡った。答えは出ない。かといって、自分を囲っている奴等に聞くこともできない。そんなことを聞いたら、自ら白状するようなものだ。お前達の恋人は、俺の千人斬りの一部だ、と。
もっとも、五味が白状しなくとも、彼等は容赦しなかった。
「ふざけんなよテメェ!」
また蹴りが飛んできた。校舎裏に響いた、怒鳴り声。怒声が引き金になり、五味に対するリンチが始まった。
「俺の女は気持ちよかったか!? コラァ!」
「千人斬りに近付けて満足かテメェ!」
「寝取った感想はどうなんだ!? ヤリチン野郎が!」
「二度と勃たねぇ体にしてやろうかコラァ!」
倒れたままの五味は、体を丸めて暴行に耐えた。数え切れないほど殴られ、蹴られた。
自分の恋人が、自分以外の相手と寝た――彼等の怒りは凄まじかった。
一時間ほどの暴行の末、彼等はその場を後にした。体を丸めた五味に、唾を吐きかけて。殴る蹴るを繰り返したので、疲れたのか。それとも、気分が晴れたのか。いずれにせよ、五味はホッと息をついた。丸めた体を伸ばす。痛む体を動かし、なんとか立ち上がった。
彼等の唾がかかった体。泥の混じった雪でベチャベチャになった、コートと制服。腫れ上がった顔。暴行を受けた痛みと恐怖で、体は震えていた。
――助かった。
校舎裏で一人残されたとき、五味は安堵した。骨折などの大きな怪我もしていないようだ。
――それにしても、どうしてだよ?
どうしてバレたのか、未だに分からない。分からないが、いきなりリンチをするくらいだから、確信があっての行動なのだろう。
明日からクラス内で孤立するのは、目に見えていた。それでも、と自分に言い聞かせた。どうせ、登校日はあとわずかだ。たとえ今回のことがなかったとしても、卒業したら縁が切れる奴等だ。
体に付いた雪を払い落とし、五味は帰路についた。冷たい風が、腫れた頬を冷やしてくれる。それでも、ジンジンとした痛みが残る。
リンチから解放されたとき、助かった、と思った。しかし、時間が経つごとに、安堵の気持ちは怒りへと変わっていった。
――クソが!
俺より魅力がないお前等が悪いんだろうが! だから、お前等の女も、簡単に落ちたんだろうが! 自分達が不細工なことを棚に上げて、俺を逆恨みしやがって!
苛立ちが、歩く足を早くした。気が付くと、自宅に着いていた。
五味の家は一戸建てだ。玄関はテラス状になっている。五味の部屋は二階。テラスの天井のすぐ上に、五味の部屋の窓がある。
家の鍵を開け、玄関に入った。五味の家族は、両親と姉。両親は共働きで、姉は大学進学後に一人暮しをしている。
帰宅した五味は、リビングに足を運んだ。ビニール袋を用意し、冷凍庫から氷を出した。大量の氷を袋に入れ、顔を冷やした。熱さと痛みが混じったような、腫れの痛み。
顔を冷やしながら、自分の部屋に行った。部屋にある姿見で、自分の顔を見た。思ったより腫れていなかった。少なくとも、まだ二枚目といえる顔の形を保っていた。
再度、五味はホッと息をついた。この程度の腫れなら、完治しなくても女を口説ける。
部屋の暖房を点けて、コートと制服を脱ぎ捨てた。窓とは反対側にあるベッドに、体を投げ出した。
心の中で、怒りが増していた。数時間前まで、友人だと思っていた奴等。それなのに、いきなりリンチをされた。
特定の女としかヤれない、不細工共。胸中で悪態をついた。俺は、お前達みたいな低レベルの男とは違うんだ。だから、女は俺に喜んでついてくる。悦んで、俺に体を差し出すんだ。
ビニール袋に詰めた氷が溶けるまで、五味は顔を冷やし続けた。端正な顔は、女を口説くための武器だ。少しでも早く元の状態に戻したい。
夜になり、両親が帰宅した。夕食のために五味を呼びに来たが、寝たフリをした。
やがて五味は、いつの間にか、本当に眠りについた。ぐっすりと。傷付いた体を癒すように。
夢を見ていた。どんな夢かは分からない。夢が終わり、完全に無と言える深い眠りについた。
目が覚めることがないまま、時刻は、午前三時近くになった。
真夜中。もし目が覚めたとしても、再度眠りにつく時間。
だが。
五味の眠りは、突如、強制的に妨げられた。
ガシャーン!
大きな音が耳に突き刺さり、五味は目を覚ました。
「!?」
目覚まし時計とはまったく違う、大きな音。ベッドの上で、五味は飛び起きた。
窓から、冷たい風が入ってきていた。当然だが、窓を開けた記憶などない。この季節に窓を開けて眠ったら、凍死してしまう。
風で、閉め忘れていたカーテンが揺れている。外に積もった雪が月の光を反射し、淡く部屋を照らしていた。
割れた窓が、五味の目に映った。
――どういうことだよ!?
声も出せないほど驚きながら、五味はベッドから下りた。割れた窓に近付こうとした。ゆっくりと足を運ぶ。二、三歩進んだところで、右足の裏に鋭い痛みが走った。割れた窓ガラスで、足の裏が切れたのだ。
「痛てぇっ!」
反射的に、床から足を離した。体はバランスを崩し、その場に尻餅をついた。ドスンと、一階まで響く音が鳴った。
倒れた拍子に、五味は、近くに落ちている物に気付いた。割れたガラスではない。石だ。野球ボールほどの大きさの石。
すぐに理解した。この石を、窓から投げ込まれたのだ。
ガラスで切った足をかばいながら、五味は、部屋の明りを点けた。急激な明るさの変化に、目を細めた。なんとか瞼を開け、落ちていた石を手に取った。
それは、ただの石ではなかった。真っ赤な文字が書かれていた。ただ一言。
――赤ちゃん産ませて――
足の痛みも忘れるほどの寒気が、五味の背筋に走った。明らかに、身に覚えのある恨み言だった。
『私、妊娠したみたいなの』
三百人近い、五味とセックスをした女達。彼女達の中で、そう言ってきた女がいた。もう、名前も顔も覚えていない。どの女だったかも覚えていない。ただ、彼女に吐き捨てた言葉だけは覚えていた。
『勝手に妊娠したんだから、自分でどうにかしろ』
面倒だったので、彼女の連絡先は全てブロックした。
関係を持った女達のほとんどは、五味の自宅を知らないはずだ。セックスは、ホテルか彼女達の家でしていた。自宅に連れ込んだことは一度もない。
――どうして俺の家を知ってるんだ?
寒さとは別の理由で、体が震えた。顔を上げ、割れた窓を見た。次の瞬間、五味の体は、さらに大きく震えた。
誰かが、窓の外にいた。じっとこちらを見ていた。
部屋には明りが点いている。外も、積もった雪が月明かりを反射して、この時間にしては明るい。それなのに、外にいる人物は影のようにしか見えなかった。まるで、全身を黒一色で統一しているように。
ただ、その目だけは、はっきりと見えた。大きく見開き、じっとこちらを見つめている。
両親は、この騒動に気付いていないようだ。ガラスが割れる音も五味が尻餅をついた音も、決して小さくないのに。二階に上がってくる気配がない。
恐怖に体を震わせながら、五味は、精一杯の虚勢を張った。腹の底から声を出した。
「誰だテメェ!?」
五味が怒鳴った直後、人影はきびすを返し、窓の外から消えた。
五味の部屋の窓は、玄関テラスの真上にある。テラスの天井に昇り、部屋の中を見ていたのだと想像がついた。五味が声を荒げた瞬間、テラスの天井から飛び降り、逃げたのだろう。
石を投げ込んだと思われる人物が、消えた。五味は、ホッと息をついた。だが、安堵できたのは一瞬だけだった。
今逃げた人物に、自宅の場所を知られている。石を投げ込むという、過激な行動を取られた。部屋を覗き込まれた。こんな行動を取るくらいだから、これからも何かをしてくるだろう。これで終わりとは思えない。
投げ込まれた石に書かれた、赤い文字。血のように真っ赤な文字が、恨みの強さを物語っていた。
――赤ちゃん産ませて――
自宅にはいられない。どこか別のところに寝泊まりしないと。ほとんど反射的にそう思った。だが、今の五味には、家に泊めてくれるほど親しい人物はいなかった。今日の放課後に、友人だった奴等にリンチされたばかりだ。
――どうする!?
直面した問題。今になって、足の痛みが蘇ってきた。ガラスで切った足。ズキズキと痛む。傷口を見た。幸い、縫合が必要なほど深くはないようだ。しかし、問題は足の傷ではない。
こうなったら、とにかくクラス中の奴等に声をかけるしかない。今の状況を伝えて、必死に同情をかって、泊めて貰うしか。
「くそっ」
恐怖と同時に、苛立ちを覚えた。どうして俺がこんな目に合うんだ!? だいたい、女の方だって、俺とヤッて楽しんでたんだろうが!
沸き上がってくる、的外れな怒り。
五味は、痛む足をかばいながら部屋から出た。一階にある絆創膏や包帯で、足の治療をするために。