13-9.クレイラ・ルンプール
翌日、クレイラはいつものように洗濯機を回し、ミハイルの分の朝食を作っていた。旦那は今日は現場が遠いらしく、朝早く出ていった。
「あら、おはよう」
「おはようございます」
いつもの調子で挨拶すると、ミハイルも特別変わった様子はなく返事をする。朝食を食べ始めたミハイルをクレイラはぼーっと見ていた。
(ぶたないで、か。わたしもあったなあ。どうしても我慢できなくて、息子をしこたまぶった事。さすがに大きくなってからはなかったけど……負けちゃうし……)
「……何?」
ミハイルはクレイラの視線を感じたのか、視線を合わせないまま聞く。
「んー、わたし今日お店お休みなのよねえ。せっかくだしどこか連れてってあげようかなと思ってるんだけど」
「そんなの別にいいけど」
「だって恋人探すんでしょ? この町にいる保証はないけど、駅とか公園とか、人の多い場所に行ってみた方がいいじゃない」
ミハイルは少し驚いたようにクレイラを見る。クレイラは静かに言った。
「愛してるんでしょ? 愛しきって見せなさいよ。バカみたいでもなんでもいいわ。その子、幸せよ」
ミハイルの目が少し潤む。その時、ピンポーンとチャイムが鳴った。クレイラは立ち上がりながら言う。
「なーんてくさいわね。わたしドラマの見過ぎだわ」
またピンポーンと鳴る。
「はいはーい。こんな朝から誰かしら」
ドアを開くと、二十歳くらいの若い男がクレイラの家の前に立っていた。
「ど、どちら様?」
「失礼します」
男は問答無用でクレイラの隣を通り、家の中に入っていく。ダイニングまで無遠慮に入ってきた男に驚いて、ミハイルも立ち上がる。男はミハイルを一瞥すると、携帯電話を取りだして話し出した。
「いましたよ。どこ? 知りませんよ、どっかの家ですよ。GPSで勝手に探してくださいよ」
「あんたは……!」
太い黒眉が印象的なその男はタルタオだった。今現在一緒に子供の島で暮らしている仲間の一人だ。タルタオはこの時は自分の名前を名乗っていない。ただ不機嫌そうにミハイルを見る。
「ったく、なんでこんなチンピラ一人探すのに、わたしが使われなくちゃいけないんですか」
ミハイルは窓から逃げようとするが、その前にタルタオが声をかける。
「あなたがお探しの人、とっくに見つかってますよ」
「何!?」
「もう逃げる意味もないでしょ。女性を垂らしこんで遊んでたいって言うなら勝手にしていいですけどね」
タルタオはクレイラを横目で見ながら言う。クレイラは何の事か分からなくてただ顔に疑問符を浮かべている。
「なんだとてめえ!」
ミハイルが大声を上げると、タルタオも一層不機嫌そうな顔になって声を荒げる。
「腹に据えかねているのはこっちですよ! あなたみたいな人があの人のお気に入りになるなんて、冗談じゃない! あなたはあの人にはふさわしくない!」
タルタオは大きな男ではない。十数センチメートル程ある身長差に関わらず、アラドを睨み上げている。アラドもタルタオを睨んでいる。クレイラは一人置いてけぼりを喰らっていた。
(な、なんなの?)
その間に黒服の男達がクレイラの家になだれ込んできた。ミハイルはその男達に捕まり、腕を抑えられながら外に出ていく。タルタオもその後について、クレイラが避けるように立っている廊下を歩く。その時タルタオは少しクレイラにぶつかった。タルタオはクレイラから思念を感じる。
「あなた……クレ、クレイラ」
「ええ、そうだけど?」
「気のせいか……? いや、あの人、さてはとっくに見つけてたな! こんなチンピラのためにあの人が動くなんて!」
タルタオはクレイラの分からない事を叫ぶ。そしてその意味を話さないまま、家を出る。クレイラはタルタオや黒服の後を追って外に出た。
リールの精神世界。そこではリールが暗闇の中で膝をついていた。リールはメサィアと呼ばれるもう一人のリールの服を掴む。
「……何?」
「兄ちゃんを……兄ちゃんを助けて……」
「兄ちゃん? ああ、こいつ……」
リールの精神世界の中で、スクリーンに映し出されるようにミハイルの映像が映し出される。
「ん-、ぼくあんまりこいつ好きじゃないな。なんでだろう? まあいいか。なんかこいつの思念が誰かの所に向いてるな。この人でいいか」
そしてもう一人のリールは精神を飛ばし、買い物に行こうと玄関から出てきたクレイラの前に一瞬だけ現れる。そしてクレイラがミハイルと呼ぶようになる少年と出会うようにその運命を操作する。
「離せ! 逃げねえから離せよ! あいつがいるなら行く……行ってやるよ!」
ミハイルはもう家から出てきたクレイラの事も見えないほど、想い人に想いを馳せていた。ミハイルが車に乗せられている間に、黒服の一人がクレイラに封筒を渡す。
「ご迷惑おかけしました。これは少ないですがお礼とお詫びです」
「え? はい」
「それでは」
車はあっという間に走り去っていく。クレイラは封筒の中身を見て驚いた。
「うっそ、いくらあるのよこれ。なんかわたしとんでもない事に巻き込まれてたんじゃ……」
クレイラはまた車が走り去っていった方向を見る。
(大丈夫かな、ミハイル。こっちも見ずに行っちゃった。本当、羨ましいわ……)
それから何カ月も後の事。クレイラの前に少年のような格好をした金色の髪の少女が現れた。
「こんにちは」
その金色の髪の少女は無邪気ににこっと笑った。その子は名前をレイリール・ゲルゼンキルヘンだと名乗った。そしてクレイラにとあるプロジェクトに参加しないかと誘ってきた。クレイラは悩んだ末に、お店に長期休業の張り紙を出す事を決意した。
それを今のクレイラは考える。
(うーん、今考えるとこの上なく怪しいわ。でもその時はなんでかいいかと思ったのよねえ)
クレイラはその時なぜかミハイルの事を思い出した。ミハイルの子供っぽいが真っ直ぐな言葉や、一途な性格はあの時の自分の心を揺さぶった。
旦那には娘の所に行っていると嘘をついた。クレイラはとにかくこの機会に一度、旦那から離れた生活を送ってみたくなったのだ。それから子供の島で四カ月という時間を過ごし、その長くも短くも感じた期間は終わった。




