13-8.クレイラ・ルンプール
「世間一般の目から見れば、おかしいのはわたしの方よ」
クレイラは平静を装った顔で続ける。
「旦那だってわたしを想って言ってくれてるのよ。こんな我がまましてるわたしを許してる旦那を嫌だなんて言ったら、罰が当たるわ」
「違うだろ……違うだろ……あんた、それで幸せなのかよ……!」
「大人には色々あるものなのよ。もう寝なさい」
ミハイルはしばらく辛そうにクレイラを見ていたが、やがて黙って自分の部屋に戻った。クレイラはゴミを片付け終わった後、リビングのソファに座り、そこでテレビをつけた。ほどなくしてテレビには、ミハイルという名前をもらったドラマの主人公が映りだす。
(やっぱりこっちのミハイルより、うちのミハイルの方がハンサムね)
そう思いながら、クレイラはさっきのミハイルの言葉を思い出す。
「大丈夫か?」
(そんな言葉言われたの、いつ以来だろう)
旦那だったら何と言うだろう。
「ケガした? 何してるんだおまえは」
「具合が悪い? おれの飯はどうするんだ」
そんな言葉しか思い出せない。クレイラは、はあっとため息をついて眉間にしわを寄せる。そして歯ぎしりした。
(落ち着け、落ち着け。あんな男の事で心を乱さない。とっくの昔にそう決めたでしょ)
最初はただ気持ちを口にする事の苦手な不器用な人なのだと思っていた。ケンカもしたがらない。
「おい、もう面倒な話はよせ」
子供のために仕事を休んでくれる事もあった。
「なんだ? おれも行った方がいいのか? まあいいぞ。仕事を休むいい口実になる」
拒む事もなかった。
「なんだ、したいのか? おれは疲れてるんだ。勝手に跨がれ」
クレイラは旦那の数々の言葉を思い出し、悔しさに顔を歪めた。
一緒のベッドにしたのを後悔するのは遅くなかった。少しでも一緒に寝る時間を減らしたくて、いつも夜遅くまで起きてた。ついソファでうたたねして、朝になってた時はその日一日一緒に寝なくて済んだとほっとした。子供が独立した時から子供の部屋で寝るようになって、ようやく眠るっていうのが嫌じゃなくなった。
ミハイルの言葉を思い出す。
「あんた、嫌なんだろう? いい人だろうと、優しい人だろうと、嫌なんじゃないのか……!」
(そう! 嫌よ! 気持ち悪いのよ! 忙しい振りして食事もあの人が食べる前か後にずらしてた。話もしたくないから、雑誌に読みふけっている振りをしてた。同じ部屋にいるのだって嫌、同じ家にいるのだって嫌。ミハイルがこの家に入り込んだんじゃない。わたしが、あの人と二人きりでいるのが嫌で、あの子を招き入れたのよ……!)
クレイラは深呼吸して気持ちを落ち着かせた。ドラマの内容は全く頭に入ってこない。クレイラは僅かに目を潤ませた。
「わたしだって、もっと愛されたかった……」
部屋に入ったミハイルはベッドに突っ伏していた。
(おれは何をしてるんだ……? あいつを探さなきゃいけないのに、あいつを守るって言ったのに……!)
ミハイルはクレイラに再会する数週間の間、路上で寝泊まりし、与えられたお金で何とか食いつないでいた。そのお金が尽きる頃にふらふら歩いていると、女の人に声をかけられた。
その女の人は唇の紅の色がきつい人で、ミハイルにはその人が唇の化け物に見えた。けれど他に行くあてもないミハイルは、食事を奢ってくれるというその人についていった。
食事が済むと、その女の人はいつの間にかミハイルをホテルの一室に連れ込んでいた。女性はシャワーを浴び、半裸でミハイルの前を歩き回る。ミハイルは怯えていた。だがお金をくれるという言葉に、その場を逃げる事ができなかった。
女性はミハイルに体を触るように要求する。ミハイルは訳が分からなくなりながら、女性の体を触る。
「ねえ……してくれるなら、養ってあげてもいいのよ。お金、欲しいんでしょ?」
女性はミハイルのズボンのチャックに手をかけてくる。ミハイルはそれを避けるように後ずさった。
「そ、それだけは、勘弁してください」
ミハイルはほとんど土下座のような格好で頭を下げる。
「何よ、意気地なしねえ。じゃいいわ。ほら、キスして」
ミハイルは涙が出そうになるのをこらえながら、消えそうな声で返事した。
「はい……」
その女性との事以外にも、似たような事はあった。ミハイルの類まれな美貌は、そういう人を惹きつけるらしい。ただでさえ女性嫌いだったミハイルは、完全な女性不信になっていた。お金をくれても何も要求せず、自分を心配する言葉をかけてくれたクレイラだけが僅かに信じられた。
「くそっ、くそっ」
ミハイルはクレイラの家の部屋の中で、自分を抱きしめるようにしながら、震える体を抑えていた。
クレイラは不意に二階の部屋から小さく、ごんっ、ごんっと音がするのに気づいた。クレイラは羽織を羽織りながら、ミハイルのいる部屋のドアをノックする。
「ねえ、ミハイル? 旦那が起きちゃうわ。静かにして」
返事はない。まだごんっ、ごんっという音は続いている。クレイラはドアを開いた。だがそれに気づかないように、電気を消した暗闇の中、ミハイルはベッドのヘリに頭を打ち付けている。
「ねえ、ミハイル」
クレイラはミハイルの肩に触れようとした。その瞬間、ミハイルはびくっと体を震わせ、まるで何かから逃げるように手足を縮こまらせた。そしてほとんど悲鳴のような声を上げる。
「ごめんなさい、ママ! ぶたないで!」
それを言った瞬間、ミハイルは目の前にいるのがクレイラだと気づき、恥ずかしさに顔を歪ませた。クレイラは驚くが、数秒後には何事もなかったかのように落ちている掛布団を直した。
「ほら、静かにして、もう寝なさい」
そう言ってから不安そうにクレイラを見つめているミハイルに、できるだけ声を落ち着かせて言った。
「ここには好きなだけいていいわ。旦那はなんとか説得してみるから」
クレイラは部屋を出て、ゆっくりとドアを閉める。そして深くため息をついた。
(バカね、わたし。そんな約束できないのに)




